落陽
その奥には何も無い。否、全てがあり、それ程に深い。
故に何も見えぬ。窺い知れぬ。
その闇を瞳に称え、何を思うのか。
「なあ、真田幸村」
青い空の下で、照りつける太陽に照らされて、伊達政宗は眩しそうに笑う。
戦場に似つかわしくない笑顔で、彼にしては珍しく、爽やかに、素直に笑う。
「…如何なされた?」
一瞬見惚れた後に我に返りそう問い返した己に、彼は笑顔のままで言った。
「俺を…」
風が、続く彼の言葉を攫っていった。
戦場の僅かな一時。
束の間流れた、不思議な、穏やかな時。
今はもう、随分と遠い昔のこと。
血の臭い、肉の灼ける臭い。それに混じった黴と錆と埃の臭い。
扉を開ければそれらが鼻孔を刺激し、常人ならば眉を顰めてしまうその臭いが流れてくる階段は暗い闇に呑み込まれている。
しかし顔色一つ変えずに、表情の無いまま男は階段を下りていく。
それに続こうとした家臣を手で制し、振り向いた顔は退がれと語っていた。
困惑気味ながらも一礼し、家臣は主君の命に従った。
再び前を向き、男は下へと足を進めた。
ギ、と扉の軋む音に目を開き重い頭を上げる。
現れた男に経過を報告し、先程まで尋問を続けていた男が外へと出て行った。
「…また来られたのか」
そう零してみるが、どのように身体を痛めつけられても何も吐かない自身と同じく、その男も何も答えなかった。
「何度来たとて無駄なこと、敵方に吐くようなことなど何も無い」
「……」
「また易々と吐くような軟弱な心など持ち合わせておらぬわ」
「……」
表情の無いまま、男は己を見つめ続ける。
暫し見つめ続けた後、男は結局一言も声を出すことなく出て行った。いつものように。
「…政宗様」
呼び声に振り向けば片倉小十郎が渋面で立っている。
噴かしていた煙管から口を離し、煙を吐いた後に続きを促した。
「…如何なさるおつもりですか?」
「……」
「…あの男が、真田が内状を吐くことは無いでしょう、例え死んでも。
そして仮に吐かせたとしても、最早大した意味は無い…」
「……それがどうした?」
「……」
変化の無い表情からも、冷たい瞳からも、主君の心を推し量ることは出来なかった。
「…いつまで、このままにしておくおつもりですか?」
「……」
小十郎から顔を逸らし、彼は遠くに目を遣ると、再び煙管を口に銜え煙をゆっくりと吐き出した。
その後、小十郎に言うつもりだったのか、それとも独り言だったのかは判断し難かったが、彼は漸く呟いた。
もう少しだ、と。
武田は敗れた。
あれ程に敬愛していた主君も既に亡く、信頼していた忍も竜の爪にかかった。
そしてまた己も。
故に己も最早死んでいるのだ。
武田家家臣としての真田幸村はあの戦で死んだのだ。
ならばここでこうしている己は何なのだ。
無様に鎖で繋がれ、さしたる意味を持たぬ内情を、今となってはただの思い出にも似た記憶をその胸に隠し続け…
これに何の意味がある。
俺は何の為に死んでおらぬのだ。
「……」
耳障りな扉の軋む音。
毎日、毎日、あの男はここに訪れる。
何をするわけでもなく、ただ己を暫しの間眺め、そして去っていく。
何と無意味な刻!
「……殺せ」
「……」
男は片眉を上げるが、やはり口を開くこともなく、無意味な刻が流れていく。
「吐くことなど、意味など何も無い。
なのに何故生かしておくのだ!」
主君のいない今、己が生きる意味など無い。
あの時に死んでしまえていたのならば、どんなにか良かっただろう。
溢れ出した感情は無意味な生によって苛立たされ、同時にそれはこの現状を生んでいる目の前の男に向けられた。
鎖に繋がれている今、無意味に過ぎないが八つ当たり的に苛立ちをぶつけようと前へと身体を乗り出した。
何故か鎖は、いとも容易く外れた。
それに困惑する間も無く、前への勢いのまま、目の前の男をも巻き込み倒れ込んだ。
何の意味が?
意味など何も無いのだ。
残るは現実のみ、生のみに過ぎぬ。
だからそんなもの、壊してしまえばいいのだ。
己の下にいる男を、幸村は凝視する。
表情はやはり崩れることなく、感情の無い顔と冷たい瞳は、幸村を見据えている。
その瞳の奥は深い闇に包まれ、全てを呑み込み、全てを拒んでいる。
無意識に彼を理解し、無意識に幸村は動いた。
右手が彼の首に伸び、触れ、掴む。
そこから伝わる彼の鼓動。
穏やかな動悸、穏やかな表情。
そして、言葉。
遠い記憶が呼び起こされた。
「…やはり、アンタだった」
漸く変わった彼の別の表情、ここでは初めて口に出す彼の言葉に我に返り、首を絞めかけた指の力を弛めた。
「No、I don't care」
優しく窘めた後、彼から離そうとした指に彼の手が重ねられる。
炎に揺らぎ、朧気に煌めく刃の光に気付くと同時、
彼の愛刀を、竜の爪を握らされた。
無意識なものを、今意識を持って幸村は理解した。
それが、彼の、政宗の願いなのだ。
それが己の、残された唯一の意味なのだ。
「ま……まさむね、どの」
「…いいんだ」
やんわりと拒んだ政宗に、幸村は言おうとした言葉を呑み込む。
それこそが政宗の孤独であり、例え願いは同じであっても幸村と政宗が相容れないことを示している。
嗚呼、分かっているのに。
「政宗殿…!」
余りにも哀しくて寂しくて、幸村は政宗を抱き締めた。
ややあって抱き返してきた政宗の瞳を見返して、変わらない闇をせめて束の間覆ってしまおうと口付けた。
切なく上げるその声が、啼き声が、嬌声が、
最期に見せた笑顔が、穏やかな表情が、
胸の内に癒えぬ傷として刻みつけられた。
――なあ、真田幸村
――俺を……
瞳の闇は何を望んだのか。
瞳の闇に本当は何を望んだのか。
血潮にまみれ、ぼんやりとそう思った。