夢の刻
浮いているような、彷徨っているような、不思議な感覚。
空を飛ぶということは、もしかしたらこんな感覚なのかもしれない。
しかし何となく頼りない。
もっと風を切り、己が飛んでいることを感じられるようなものかと思っていた。
勝手に少々失望し、それに苦笑した。
次に、音が聞こえた。
あ、俄雨。
咄嗟に、雪ではない天の恵みを思った。
もうそんな季節か、今年はどれ程降るだろうか。今年も豊作に導くものであってほしい。
…いや、違う。
注意深く聞いてみれば雨の音とは違い、時折その音が途切れるのだ。
いや、遠くに響いていく、という方が正しいだろうか。
「……」
閉じていた目蓋を漸く開いた。
視界に入ってきた天井は、見知らぬものだった。
潮風を全身に受けながら、横に流れていく風景を片膝を立てたまま、政宗はぼんやりと眺めていた。
絶壁の頂に鬱蒼と繁る名も知らぬ木々。
その壁に打ち付けられる波の飛沫。
島を隔てる深い青と波。
同じくらい青い空とそこに浮かぶ白い雲。
そういうものばかりだったが、長い時間見ていても飽きがこないのだから不思議だ。
「よお、独眼竜、また船酔いか?」
からかい混じりの声が背後から掛かるが振り返りはしなかった。
声の主は豪快な足音を立てながら隣まで来ると、空に目を遣った。
「直に雨が来る。そろそろ戻るぜ」
そう言われ、同じく政宗も空に目を向ける。
青い空に白い雲。
そんな気配は微塵も感じられない。
「……」
しかし腰を上げ立ち上がると、政宗は屋根のある方へと向かっていく。
海に生きる男がそう言うのならば、そうなのだろう。
鬼の宣言通りに雨は降り始め、その足が酷くなる頃合いには船は陸に戻ってきた。
砦の一室で政宗はぼんやりとしていた。
「……」
そう、ぼんやりとしているのだ。
奥州での日々とは明らかに違う。
ここでは政や戦に頭を動かすことが無い。
己のすることがないのだ。
己のいる意味を見つけられぬのだ。
「…飼い殺しか」
「そんな気、毛頭ねぇよ」
自嘲を含め呟いた独白に返事があり、政宗は扉の方へ目を向ける。
西海の鬼と恐れられる長曾我部元親が酒を担いでそこに立っていた。
「することがねぇのは、てめぇがしようとしねぇからだ。
そうだろ、独眼竜?」
言いながら元親は近づき、政宗の隣に腰を下ろした。
「…好きこのんで来たわけじゃねぇ。連れてきたのはてめぇだろうが」
雨で湿気が籠もるせいか、未だ完治はしていない傷が疼く。
「確かにな、だが俺は無駄なことはしねぇよ」
その傷をつけた当人は担いできた酒を杯に注ぎ政宗に渡した。
「まあ、せっかく来たんだ、やりてぇことやってみろや」
まるで子供に言い聞かせるような言い方だ。
政宗は眉を顰め暫し睨み付けていたが、杯を受け取り注がれた酒を一気に飲み干した。
元親の笑みに毒気を抜かれたのだ。
西海の鬼と恐れられる海賊は、奥州に突然現れると海賊曰く一勝負、独眼竜曰く戦を仕掛けてきた。
勝てば竜のお宝を頂くと言い、実際勝つとお宝どころか竜ごと四国へと連れ帰った。
そして意識を取り戻した政宗に傷が治るまでは養生しろと言い、
最近は動けるようになった政宗を船に乗せ連れ回すようになったのだ。
初めての船は政宗にとっては地獄のようなもので、完治していない傷の痛みに加え船酔いに襲われ、
一時期は意識を取り戻す前よりも顔色が冴えなかったが、流石の慣れか流石の意地か、ここ暫くは顔色も大分良くなっていた。
「よお、今日も船酔いか?」
習慣めいてきた問いに、いちいち目くじらを立てることも無くなってきた。
「してねぇよ」
気が向けば答え、向かなければ無視を決め込むが、どちらにしろ元親は気にしない。
政宗がよく居る船首に来て一言二言好き勝手に話した後、また家臣に命じるために戻っていくのも、いつものことだった。
「…なぁ」
そう声を掛けたのはどちらかは、二人とも覚えていない。
ただ、唇に笑みを浮かべた元親がその次に言葉を発した。
「釣りでもしてみるか?」
「……」
差し出された竿を暫く見つめた後、その手に握った。
ビギナーズラックか、大物は食いつかなかったものの、政宗の初めての釣りはなかなかの結果となった。
「Hey、一体何してんだ?」
横から突然覗き込んできた独眼竜に驚くが、すぐに落ち着きを取り戻し男は答えた。
「風読みだ。漁にはかかせねぇんだ」
初めての釣り以来漁に興味が出て来たのか、政宗は元親の部下を捕まえては色々聞いてくるようになった。
その釣りの成果か嫌味を感じさせない態度のでかさが部下達を魅了させたのか、部下達は割と親切に政宗に教えてくれる。
でかくとも意外に素直な態度も、部下達の気を良くさせている要因だ。
「後は潮読みと山も見ねぇとな。言ってみりゃ長年の勘ってやつだ」
「Oh、so cool!」
南蛮の言葉は彼には分からないが、口調と表情から悪い意味では無いと分かるので、彼はますます気を良くした。
彼的コツを話してやると、興味深そうに聞き入っていた。
「殿様てぇと、城で踏ん反り返ってるだけかと思ってたんだが、
アニキと言いあんたと言い、変わった奴も多いんだなぁ」
感心を含んだため息に、政宗は苦笑の割合の大きい、しかし複雑な表情をした。
「独眼竜よぉ、良いもん見せてやるよ」
真昼も疾うに過ぎた頃、突然の元親の発言に政宗は眉を寄せた。
「…一体何だ?」
「ついてくりゃ分かる」
そう言うと元親は背を向けて歩き出した。
付いてこようがくるまいが気にならないのか、政宗との距離が広がっても一度も振り返らなかった。
「How arbitrary!」
呆れと諦めの混ざった顔と声を表に出し、政宗は元親の後を追いかけた。
元親の言う良いものとは海に沈む日と紅に染まる空だった。
「…紅い」
静かに過ぎ去る時を感じながらポツリと漏らした呟きに、元親も独白のように呟いた。
「紅が嫌いかい?」
「…蒼の方が好きだ」
期待しなかった問いだったが意外にも答えが返ってきた。
彼にしては珍しく曖昧な答えだったが、元親はそうか、とだけ返した。
寄せる波の音を聞きながら、気が付けば二人で腰を下ろし日が沈みきり紅が黒に呑み込まれていくのを眺めていた。
「…なぁ、長曾我部よぉ」
「おう、どうした」
己でも驚く程に自然に素直に、まるで幼子が父に問いかけるかのように、政宗は元親に尋ねた。
その答えを初めて期待した。
「何でアンタは、俺を連れてきたんだ?」
無駄なことはしないと言った鬼は、竜をどう利用するつもりだろうか。
疑問と不審を共に浮かべるが、それは正に文字通り聞いただけだった。
答えを期待したからこそ聞いたのだ。
だから、期待に煌めく瞳の光を知らなかった。
そんなものを未だ持っていたことに驚いた。
黄昏に隠された表情からは何の思惑も読み取れなかったが、元親はやはり独白めいた呟きを零す。
「…船、嫌いじゃねぇって言ったろ」
それだけだった。
何度目かの酌を受け白く濁った酒を飲み干した。
度数が強いのか、月の光に高揚したのか、珍しく頭がぐらついていた。
「無理すんなよ、独眼竜」
鬼の臟は笊か、未だ余裕を残した様子の元親に、政宗は据わった目で睨んだ。
「そう睨むなや」
からからと笑い竜の視線を流すと、元親は月見酒を始めた。
半分酔いつぶれた政宗に相手をさせるのは忍びないからだ。
「…シィーット、俺を無視してんじゃねぇよ」
明らかに絡みが入ってきた政宗は、立ち上がると夜空を見上げている元親の方へとふらつく足で歩み寄る。
当然まともに歩けずにバランスを崩し倒れ込んだ政宗を、元親は驚き半分呆れ半分で抱き留めた。
「どうした独眼竜、お前らしくねぇな」
プライドの塊のような政宗が、彼にとっては醜態を晒すのも珍しい。
俯いていた顔が僅かに上げられたのでその顔を覗き込んだ。
「……っ」
酔いで上気した頬はほんのり赤く、伏せがちの瞳はぼんやりと元親を見ている。
酒の気も香るその吐息はいっそう湿り気を帯びていた。
元々整った顔立ちは良く出来た人形のようなので、その冷たい容貌から初めて覗いた艶やかさに元親は思わず息を呑んだ。
「っおい、独眼竜!」
だが生憎、元親にその気は無かった。作法として知っているだけだ。
「ほら、寝床まで連れて行ってやっから大人しく――」
独眼竜をそういう対象として見たことは無かったし、だからこれ以上彼に捕らえられる訳も気もなかった。
生じた情欲を呑み込み、凭れかかる政宗の腰に手を回し、立ち上がろうとした時だった。
「…どうせ夢じゃねぇか」
そう呟き、政宗は一瞬動きを止めて目を向けてきた元親に己の唇を重ねた。
絡めてきた舌は熱く、縋ってきた手は冷たかった。
「政宗…」
夢であるならば、今ここで捕らわれても良いと思った。
波の音を知った。
海の色を知った。
奥州とは違う空の色も知った。
風や潮を読み、波の動きに目を凝らし、釣り上げた魚の銀の光も知った。
櫂の動き一つで船が動いた。
共に飲む酒も、
共に眺める日も月も、
共に求め合った熱さえも。
知ろうと思った。
図らずとも知りすぎた。
だからきっと、それは間もなく終わるのだろう。
「独眼竜、なぁおい」
揺り動かされ、政宗は明らかに不快そうに眉を顰め、元親から顔を背けた。
「…うるせぇ、寝かせろ」
「良いもん見せてやるよ、な」
好意全開で元親は食い下がるが、政宗は目も開けずに大儀そうに答えた。
「そんな体力もうねぇよ」
「なら連れてってやるさ」
そう言うが否や、元親は彼のくるまる夜具ごと政宗を抱き上げた。
「…マジかよ」
その無駄な体力、分けて欲しい、と思った。
まだ日は昇っておらず、外は薄暗い。
民が起きて動き出すにはまだ間があるはずなので、元親と朝鳥以外には音を立てるものもない。
未だ昇っていない為に日の力も及ばぬのか、四国にしては風が冷たかった。
夜具にくるまれ荷物のように抱えられている政宗としては、顔を撫でる風で判断するしか無かったが。
「お、着いたぜ、独眼竜」
そう言い、元親は肩に担ぎ上げた政宗を降ろした。
不機嫌そうな政宗を振り向かせ、空と海を染める曙を彼の視界に入れた。
昇る瞬間の日が海にも空にも光を零し、波がその光を乗せて揺れる。
やがて蛍火のような柔らかな、しかし強い光を放ちながら日はその姿を現し、
闇に覆われていた空は藤にも似た色に塗り替えられていく。
先程の不機嫌さはどうしたのか、一心に見入っている政宗に笑みかけながら、元親が口を開いた。
「綺麗だろ」
「……」
「政宗、あんたに見せたかった」
普段は言わぬ名で呼び微笑する元親に、政宗も素直に頷いた。
「…ああ、綺麗だ」
綺麗すぎて、泣きたい思いに駆られた。
今だけは、この夢が覚めなければ、と願った。
夜は、静かに明けていった。
永久に続くかのような水平線に何を見たか。
それもまた夢に過ぎない。
綺麗で眩しく優しかったこの日々も、夢である限りは醒めねばならなかった。
彼が伊達政宗である以上、それは必然だ。
そしてそれを選ぶのも政宗自身に他ならない。
岸に停まる普段は見ない船影を認め、政宗はその瞳を閉じた。
夢は彼の心に今一度蘇り流れ、彼はその甘美な夢に笑んだ。
再び目を開き、今度は不敵に唇の端をつり上げた。
「西海の鬼よぉ、アンタと共にいた日々、楽しかったぜ」
「そいつぁ良かったな、独眼竜」
対峙しているのは紛うことなく独眼竜・伊達政宗で、
それに元親も普段の鬼としての己を取り戻す。
夢を見たのは政宗だけではない。
きっかけは、嫌いではないと竜が言った時から。
始まったのは刃を交え牙を奪った竜をもう一度見下ろした時からだ。
波の音を聞きながら眠る時に見るような、そんな穏やかな夢だった。
始めから知っていたそれを出来るだけ長くと願う心があることには驚いたが、
せっかくの夢だ、楽しもうと思った。
おそらくの別れの言葉など言わずとも、これが夢である以上は疾うに知っていたし、受け入れてもいた。
だから背を向け去っていく政宗を呼び止めることも追いかけることもない。
「Good-bye, darling」
最後の異国語は残夢のようなものだったが、だからこそ理解されることもない。
夢が終わった。