政宗は表情の無いまま、幸村を見つめていた。
怒りも哀しみも笑みすらその表情に上らせず、彼は幸村の言葉を反芻し、遂に口を開く。
「……ならば、俺は誰だ?」
冷たくも温かくもない、ただ無機質な瞳だった。
「……アンタは何を以て伊達政宗とする?
何を以て俺を伊達政宗としない?」
「……」
「姿形か、口調か、仕草か? 性格か、記憶か?」
言葉だけを紡ぎながら、政宗は幸村に近づいていく。
「だがそれらは不変ではないだろう? そんなもので伊達政宗を定めるのか?」
「……」
幸村の瞳を真っ直ぐと見下ろす政宗の瞳を、幸村もまた見つめ返す。
「……そなたには、かつての伊達政宗殿の魂がありませぬ……」
目を輝かせ、戦を終わらせると平和な天下をと、かつての政宗は夢を語っていた。
その夢に反する己を、それでも否定しないでくれた。
その上で、新たな世界を見せてくれたのだ。
「伊達政宗殿は、人を殺めることで負う業の深さをご存知だった。
御自身の夢が、乱世に踏みにじられる民の命無しには、叶わぬとも分かっていた。
だからこそ、あの御方は徒に人を殺すことなど為さらない。
戯れなどで人を殺さない」
だから哀しかった。
かつての政宗の姿と記憶を持つモノが、
伊達政宗としてかつての政宗が守っていた民の命を踏みにじることが。
怒りと哀しみを持て余しながら、幸村は政宗を否定する。
彼が政宗を恋い慕うが故に、夢を語る彼に惹かれるが故に。
「……そうか……」
政宗は変わらず淡々と応える。
言葉の端々に込められた幸村の感情に気付いているはずなのに、
それに対して何も反応しない。
幸村を探るようにその深い闇の瞳で見つめるだけだった。
唐突に、政宗は刀を抜いた。
夜の闇に沈んだその刀が艶めかしく光を放っている。
微かな月の光に照らされるそれは、確かに血に濡れていた。
その刀を幸村に向けて、政宗は微笑み、そして彼は動いた。
「――」
言の葉の代わりに口から零れたのは己の血だった。
「……っ」
喉を貫いた刃が言葉を紡ぐのを妨げる。
溢れた血が口の端から、気道から、喉から身体の中と外へと伝っていく。
無造作に抜かれた刃で塞がれていた風穴から血が噴き出していった。
「なら、もういいさ」
視界が歪む。
意識も感覚も深い闇に覆われていく。
幸村が事切れる直前、政宗がそれだけ言い捨てた。
ここで幸村は飛び起きた。
呼吸を乱したまま周りを見渡し、滞在中彼に与えられた部屋の様子を確かめる。
次いで、夢の中で突かれた喉元に無意識に触れた。
「……」
そして幸村は、政宗の言葉を思い返す。
「……アンタにとっての伊達政宗とは、アンタの記憶や…理想からできてんだろうな。
そしてそれに重ならないから、俺を伊達政宗とは見なさない」
「……」
言外に責めているようでもあるが、声音も調子も何も変わらない。
感情の一片すら悟らせない彼は、感情を失ったようにも見える。
「……」
いや、感情はあるのだろう。
少なくとも、彼は表面にそれを上らせる。
笑ったり、呆れたり、不機嫌になったり、幸村に対して関心も持っていた。
今の彼が、演技をするとは逆に考えにくい。
「……まあ、どう思おうがアンタの勝手だ。だから、一つだけadviceだ」
幸村を見据えたまま、政宗は変わらぬ調子で言い捨てた。
「それは存外曖昧で無意味なもんだぜ」
「……」
政宗の言わんとする意味を理解しかね、幸村は眉を寄せた。
彼の様子に気付いてか、政宗は続ける。
「俺は、記憶だけはあるからな。
俺の夢も、その時アンタが言ったことも覚えている」
「では、何故…!」
覚えていると言うならば、何故その夢を否定することが出来るのだ。
そう言いかける幸村を遮り、政宗は告げる。
「それだけなんだ」
息が止まり、胸がざわついた。
鼓動が早まり、背筋を冷たいものが伝っていく。
もしや、彼は……
硬い表情の幸村を見つめたまま、政宗はもう何も言わなかった。
己の周りを、それらは取り囲んでいた。
暫くして、それらの異形は己の所業故だと気付いた。
顔が無いのも、手足が無いのも、身体中が爛れているのも、
全て己の手か、己の命でさせたからだ。
それらが、己の全身にまとわりついてきた。
まず、喉を締め上げられ、そのまま既に無い右の眼を貫かれた。
抉り出すものが無いせいか、今度はそれがある左が抉られる。
何も見えなくなってからは、身体中が貫かれ、かき混ぜられる感触と音がする。
そして、血と臓物の臭いがする。
両耳も削がれたせいだろうか、やがて音も聞こえなくなった。
たぶん俺は、これで死ぬのだろう。
何も見えない、何も聞こえない闇の中で、
己が滅多刺しにされる感触と己の血肉の臭いを感じながら、それだけ思った。
夢での意識が無くなると同時に、当然のようにこちらの意識が戻る。
半身だけ起こし、政宗は暫し呆けていた。
だが、昨日とも夢とも変わりはなかった。
永遠か一瞬かは分からぬが、闇の中に在った気がする。
いや、意識が途切れた間をそう感じていただけかもしれない。
聞けば一月程眠っていたらしいから、夢でも見ていたのだろう。
だが、それは別にどうでもいい。
目覚めた時、何かおかしかった。
奇妙な違和感、
己が在るべき世界と違っているような、
違う世界に己が在るような、変な感覚だった。
闇で途切れた如何ほどかの間があるとは言え、記憶は間違いなくあるというのに、
己が己であるという実感が無い。
だが、感じるのは、それだけだった。
そうなった間接的な原因は母と弟の企てだろうが、やはりそれだけだ。
嬉しいはずも楽しいはずもないが、悔しさや哀しみも感じなかった。
実の母親と弟に殺されかけたのだと、そう思うだけだった。
おそらく己が狂ったのだろうとは思ったが、
ならば、彼らはどうするのだろうか。
殺し損ねた子、死に損ないの兄を目の前にした時、
母上と小次郎はどうするだろうか。
次にそう思った。
母と弟の応えは、予想通りでも意外でも無かったが、
やはり己は、事実をそういうものだと思うだけだった。
だが、この手で弟を殺した時は、不思議な感覚がした。
鼓動が早まり、どくどくとうるさかった。
手が震え、呼吸が巧く出来なかった。
初めてなのか、久しく感じていなかったのかも分からないが、
あの瞬間、何か感じることができた。
何かを殺せば、あれをまた感じることが出来るのだろうか。
そう思った。
だが、虫も魚も鳥も獣も、小姓も近従も駄目だった。
叔父や従兄弟ではまだ何か足りない。
小次郎のような、もっと己に近いもの。
そうだ、母上がまだ残っていた。
俺は、間違っていなかった。
それどころか、小次郎すら比では無い、
臓腑が、脳髄が、俺の全てが、悲鳴を上げ、苦痛に悶えた。
俺の意志に反して、
俺の望むままに、
暴れ回り、俺を痛めつけるのだ。
壊そうとするのだ。
それで十分だ。
何も感じられない、ただ過ぎていくだけの日々より、
俺を殺し壊す方がよっぽどいい。
だってもう母上も小次郎もいないんだ。
俺が俺を壊すしかないじゃないか。
幸村が会津を訪れてから数日が過ぎた。
彼が政宗を否定してから、幸村に対する興味も失せたのか、
政宗が客である幸村を訪ねることは無かった。
代わりにか、幸村が城下に向かうことにも無関心だったので、
幸村は漸く草の者たちと連絡を取ることが出来た。
幸村の意にそぐわぬものだったとしても、幸村は彼の主君の命に従わねばならなかった。
「……お館様にこの書状を。
三、四日後には、俺もここを発つ」
書状を託し、幸村は彼らを強引に帰らせた。
幸村は、ずっと考えていた。
己の推測は、おそらく間違っていないだろう。
彼は、事柄に対する感情を失っている。
心とでも表せばいいのだろうか。
事象に伴う感情とでも言えばいいのか。
彼の周りで何が起こっても、彼の身に何が起こっても、彼は何も感じられない。
それを事実として認識するだけなのだ。
それだけ、というのはそういう意味なのだろう。
それ故に、彼はかつての政宗の夢に反することが出来る。
人の道に外れることもできるのだ。
真田幸村が政宗に目通りを願ってきた。
小姓を通じてそれはまず片倉小十郎に伝えられた。
主君の気まぐれを恐れ、今はもう誰も必要以上に政宗に近づこうとはしないからだ。
「……俺は別にもう用は無いな」
政宗は幸村の申し出をそう切り捨てた。
しかし政宗の関心を向けた者の末が凄惨な虐殺であるならば、
無関心の方がよっぽど良い。
政宗の関心の範囲は、武田からの使者とて例外では無いが、世はそうはいかぬ。
使者を殺したとあれば、間違いなく武田と争うことになる。
それだけは防がねばなるまい。
「では、真田にはそう伝えておきます」
だからこそ、目通りを許さぬであろう政宗の答えに、小十郎は内心安堵していた。
「夜、部屋にでも通しておけ」
しかし主君の思考は、最早小十郎ですら読み取ることが出来ない。
「……お会いに、なるのですか……?」
「会いたいと言っているんだろう?」
戸惑いながらも何とか声を絞り出す小十郎に、政宗はそう応えた。