水鏡






 それを言の葉として外へ出すことは、彼にとって憚られることだった。
堪えきれずに漏らされたそれは、彼自身を成す根幹を揺るがしかねないからだ。
しかし、だからこそ、彼は思わずにはいられぬのだろう。
「忘れてくれ」
自身の失言に気づき、うなだれたまま、片倉小十郎はどうにか声を絞り出した。
対して、真田幸村は返す言の葉に思い当たらず、ただその表情を翳らせた。








 とある噂が、甲斐武田の元へ伝わった。
奥州の独眼竜が倒れた。
それも、実の母と弟に謀られ、毒を盛られたらしい。
疾うに命を落としただとか、未だ高熱と激痛に苦しんでいるだとか、
作為的なものも含めて様々な風聞が飛び交っている。
武田信玄は、偵察も兼ねた見舞いとして、真田幸村を遣わすことにした。
真田に仕える草の者に偵察をさせるためでもあったが、何より幸村が信玄に願い出たからだ。
身分や立場を越え、互いに好敵手と認め合う二人であったので、
それを自身と越後の軍神に重ねたのか、信玄は幸村の願いを聞き届け、快く送り出してくれた。
 その道中で、独眼竜の意識が戻ったという噂を聞いた。
それと共に、独眼竜が弟である伊達小次郎政道を手討ちにしたという話も聞いた。
急く感情を抑えることなく、幸村は奥州へと向かった。
近づくにつれ、独眼竜の凄惨とも言える所業が次々に伝わってきた。
毒殺の企てに関わりありと見た者を、一族郎党皆殺しにしているという。
伊達政宗の居城のある会津へ入る前日に、政宗が実母である保春院までも手に掛けたと伝えられた。




「Hey、よく来たな。歓迎するぜ、真田幸村」
伊達とは同盟こそ結んではいたが、現在の奥州の状況に加え、
やはり突然の来訪のせいだろう、
取り次ぎの者は明らかに戸惑った様子であったが、幸村は政宗の前へ通された。
しかし、家中の者とは裏腹に、政宗は幸村の顔を見るなりそう声を掛けてきた。
やはり本調子ではないらしく、遠目から見ても明らかに顔色が悪かったが、
政宗は生来の意地か普段通りに振る舞っているようだった。
「この度は、突然の申し出にも拘わらず、快くお受け下さり、
 こうしてお目通りが叶いましたこと、まずは御礼申し上げます」
平伏したまま口上を述べる幸村を遮るように、笑い声が掛かる。
「何だ、相変わらず堅っ苦しい奴だな」
口ではそう言いつつ、政宗は上機嫌なようだった。
その笑みに屈託は無く、ただ単純に幸村の訪問を喜んでいる。
しかしそれはまた、無理にそう振る舞っているようにも見え、
やつれた彼の姿は、ただただ痛々しくもあった。
 次いで用向きを尋ねられ、
風の便りに独眼竜が病に倒れたと聞いた、
宿敵だからこそ、この目で無事な姿を確かめたかった、と幸村は答えた。
主君の思惑を孕んでいるとしても、それは紛れもなく幸村の本心であったのだが、
政宗はそうとは捉えなかったらしく、
さほど気にした様子もなく、幸村の見舞いに対して簡単に礼を述べただけだった。
「…その、具合は如何でしょうか…?」
「何、大したことねぇよ。周りが騒ぎすぎてるってだけだ」
傍らに控えている小十郎を横目で見遣り、事も無げに政宗はそう言い放つが、
竜の右目は押し黙ったまま何も応えなかった。
「それならば良いのですが…」
噂に尾鰭はつきものだが、それでも火のない所に煙は立つまい。
政宗は間違いなく以前よりもやつれているし、
口こそ開かぬものの、小十郎は緊張した面持ちで幸村と政宗のやりとりを聞いている。
いや、どちらかと言えば幸村が過ぎたことを言わぬように監視しているようだった。
 とりとめもない会話は続く。
政宗は親しげに甲斐・信濃の、特に幸村の様子を聞いてくる。
戦時に見せる苛烈さや猛々しさとかけ離れた政宗の様子に若干戸惑いながらも、
己に向けてくれる政宗の好意は純粋に嬉しかった。
まさかあの独眼竜と、こんな会話をすることになるとは、
と内心で驚きと喜びを抱きながら、しかし幸村はふと思う。
ならば、今目の前にいるこの政宗からは想像し難い、あの凄惨な噂は何であろうか。
「…どうした、真田?」
不意に口を閉ざした幸村に、政宗は眉を寄せる。
「あ、いえ…」
我に返り、幸村は慌ててそう返すが、政宗は怪訝そうに幸村を見ている。
その様子を見つめる小十郎の目つきも、幾分鋭くなった。
「…道中、様々な噂を耳にしながら参った故、
 失礼ながら、その…独眼竜殿の無事な御姿を、こうして拝見していることが、
 未だ信じ難く……いえ、嬉しくもあるのだが……」
幾ばくかの本心は含まれていたのだが、咄嗟にそう誤魔化した幸村を、政宗は暫く見遣っていた。
小十郎が更に緊張しているようだったが、政宗は不意に表情を弛めた。
「何だ、アンタ一体どんな噂聞いてきたんだよ」
「……いえ、言の葉にするには憚られます……」
「Hum…そりゃあすごそうだ」
察した様子で、しかし気にする風もなく、
むしろそれを楽しんでいるようで、政宗はニヤリと笑った。
「なあ、他にはどんな噂があるんだ?」
まるで己のこととは認識していないように、政宗は興味津々といった様子だ。
促されるままに答えかけるが、ふとその内容が頭を過ぎる。


――実の弟と母親を…
――毎夜のごとく家臣を…


「……真田?」
声を掛けられ我に返るが、溢れ出した記憶は止まらない。


――伊達のお殿様は、ご乱心あそばされた。


 幸村は、言の葉を一つ一つ確かめるように、ゆっくりと声を絞り出す。
「…ご存知、ない、のですか…?」
例えばそれが、彼の目的の元に故意に流されたものであるならば、
こうして幸村に尋ねてくることはあるまい。
しかしそれが戸の閉まらぬ口から漏れたものであったとして、
甲斐や信濃にまで伝わる程の風聞を、機微に鋭い彼が耳にしていないなど、果たしてありえるのか。
「……」
この時、幸村は一抹の不安と違和感を抱いた。
しかしそれは彼の意識に上ることなく、彼自身の思考の海に沈んでいく。
幸村は、抱いたそれよりも、今この場で確かめるかを逡巡していた。
 再び押し黙った幸村の様子に、政宗もまた訝しげに幸村を見ていたが、
心を決めたらしく、今度は幸村が先に口を開いた。
「……どの程度まで、信ずるに足るかは判りませぬが、独眼竜殿が、その――」
「真田幸村!」
突然、今まで政宗の傍らで押し黙ったまま控えていた小十郎が、幸村の言葉をその音声で遮った。
幸村も政宗も思わず小十郎を凝視する。
「……失礼致した、真田殿。が、政宗様もお疲れのご様子故、此度はお引き取り願いたい」
「何だ、俺は別に疲れちゃいねぇよ」
それに対し、即座に政宗がそう反論するが、小十郎は引き下がらない。
政宗には聞く耳持たずに、幸村を睨んでいる。
「真田殿、聞き届けてはもらえねぇか」
「……」
突然の申し出に戸惑う幸村だったが、
小十郎のどことなく必死にも見える様子に気づき、政宗に頭を下げた。
「申し訳ござらぬ。つい長居をしてしまい、御身にご負担を掛け申した。
 此度はこれにて」
「おい、待てって。だから俺は別に――」
「独眼竜殿」
己を差し置き、話が進んでいくことに政宗が抗議の声を上げるが、
幸村がやんわりと声を掛けた。
「自身の意識の及ばぬ内に、気力を奪っていくのが病というもの。
 他ならぬ右目殿の御気遣い、ここはどうかお受け下さいませぬか?
 某、あと七日程はこちらに留まる故、宜しければその時また…可能であればお手合わせも」
政宗は眉を顰めていたが、幸村のその言葉にまた笑みを零した。
「へぇ、気遣うかと思えば手合わせしたいってか。
 アンタ、ホント面白い奴だなぁ」
どうやら損ねていた機嫌も戻ったらしい。
小十郎も心なしか安堵しているようだ。
「まあ、アンタも暫くはゆっくりしていけばいいさ。
 持て成すぜ、客人」
ただし政宗のその一言により、幸村は草の者たちの待つ城下の宿ではなく、この城に留まることになる。
城から出して好き勝手に嗅ぎ回られるのを警戒したのか、
先程と同じく幸村への好意なのか、
今度は幸村にも判らなかった。








 侍女に部屋まで案内され、彼女が立ち去るのを見送った後、
幸村は何故かついてきた小十郎に振り返る。
「……」
小十郎は沈黙したまま、幸村をその鋭い視線で睨んでいる。
殺気すら放っているような、その気を行動に移すべきかを決めかねているような、
物騒な視線ではあったが、幸村はその視線を真っ向から受け止める。
「……」
暫く後、小十郎は殺気を収め、同時に幸村から視線を外し、彼に背を向けた。
「……悪いことは言わねぇ、早々にここから立ち去れ。そして二度と来るな」
やはり、この男は主の意向には異論があったらしい。
「…それは、何故でしょうか?」
しかしその異論は、幸村を敵と見なす故ではないようだ。
だから幸村は率直に尋ねる。
「死ぬぞ」
それに対する小十郎の答えも、簡潔なものだった。
やはり、忠告の方か。
「……貴殿は、甲斐信濃にまで届く、かの凄惨な噂を当然ご存知のはず」
だが幸村も引き下がるわけにはいかなかった。
先程は止められたそれを、再び口にする。
小十郎は眉を顰め、吐き捨てた。
「……所詮ただの噂だ、真実じゃねぇ」
対して、幸村が微かに顔を歪めた。
小十郎の言葉の意味するところは、幸村にとって信じ難く、信じたくもないものであるからだ。
しかし、それを確かめることが、幸村が彼の主君から命じられたことなのだ。
「……事実、ではあるのですか…?」
「……」
小十郎は押し黙ったままだ。
彼にとっても、彼であるからこそ、口にしたくないことでもあるのだ。
しかしやがて、小十郎は口を開く。
「…………そうだ……」
立ち去っていく小十郎に目を遣りながら、
幸村は意識の奥に沈んでいた言い知れぬ不安を、今度は確かに自覚した。








 黴と埃の臭いが充満するその牢で、ひときわ鼻孔を刺してくるのは、
肉の、人が生きたまま焼かれる臭いだった。
焼けた鉄を容赦なく押しつけられ、
目を潰され耳と鼻を削がれたその男は彼が出しうる限りの悲鳴を上げる。
耳を塞ぎたくなる程の叫びを聞きながら、政宗は無表情にその様子を眺めている。
 しかし、唐突に立ち上がり、興味も関心も無くした様子で、
男に最早目を留めることなく、牢の出口へ足を向ける。
「……もういい。始末しておけ」
その一言で、政宗には些事であり、男にとっては耐え難い程の拷問は、
彼の命と共に漸く終わりを迎えた。

























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