犬と猫
同盟を結んだ武田と伊達の関係は良好だった。
書状のやり取りが増えていき、非公式な他愛もない文が交わされ、人や物の甲斐・信濃と奥州間の行き来も頻繁になっていった。
真田幸村が武田の使者として主からの書状を携え、奥州へと訪ねる機会も増えた。
長い冬を終え、春の息吹は奥州にも届いた。
雪に阻まれ、流石に書状のやり取りも久しくならざるを得なかったが、幸村は信玄からの書状を携え、数ヶ月ぶりに奥州を訪れた。
しかし生憎、政宗の方が多忙であるということで、幸村は客間に通され、暫く待たされることになった。
良好な同盟関係に加え、今までにも訪れたことがある幸村を伊達側も無下には扱わない。
気が荒い伊達の兵士たちだが、絵に描いた熱血のような幸村を気に入っているらしく、待っている間も客間に現れては親しげに話しかけてくる。
おかげで退屈せずには済んでいたのだが、ふと視界の片隅に薄紅色が映った。
庭の端で木が淡い空間を創り上げていた。
「桃にござるか?」
唐突な問いに眉を寄せたのは政宗の従兄弟である伊達成実だ。
似たもの同士故か、彼は特に幸村を気に入っている。
成実は幸村が見つめる方向へと目を向けた。
「うん? ああ、あれは桜だ」
政宗が気に入り居城まで持ち帰らせたというその山桜は、幸村が上田で見慣れている桜よりも紅が強かった。
だから桃かと思ったのだが、その枝振りは確かに桜のそれだ。
「桜にござったか。まっこと見事にござるなぁ」
感嘆する幸村に成実は感心した。
「へぇ、風情ってやつも分かるのか。梵が気に入ってるわけだぜ」
「へ? いや、そんなことは……」
あのように立派な桜を見ながら食す団子はきっと格別だろう。
などと風情とは程遠いというか、
正に花より団子のことを考えていたというのに勘違いされてしまい、幸村は返答につまる。
しかし、良い機会もしれぬ。
「成実殿、すまぬが暫く庭を散策しても宜しいか?
あれ程に立派な桜、是非とももっと間近で見とうござる」
やはり己には部屋で大人しく待っているのは性に合わない。
気晴らしに外を歩きたかったのだ。
他意も無しに率直にそう頼んできた幸村に、成実は少し考え込んでいたが、
「ま、いいさ。その代わり、あまり遠くまでは行くんじゃねぇぞ」
深く考えずに承諾したが、流石に忠告は忘れなかった。
しかし、うわ、何俺おかんみたいなこと言ってんの!?
と自分でツッコミを入れる。
確かに佐助が言いそうだな、と幸村は呑気にそう思った。
庭を一人歩いていると、先程の賑やかさが嘘のように静かだった。
淡く静寂に包まれた空間にいると、何やら見知らぬ世界に迷い込んだようだ、
と柄にもなく思っていた幸村だったが、背後から吹いてきた風に乗って薄紅色の花びらが辺りに舞い、彼の頬を撫でた。
振り返ったが、近くに桜の姿はない。
一瞬首を傾げたが、奥の方に微かな薄紅色が見えた。
幸村は誘われるようにそちらへと向かっていく。
先程の成実からの忠告も既に記憶の隅に追いやられていた。
辿り着いた桜はそこだけ日当たりが良いのか満開とまではいかないが他の桜よりも多くの花を咲かせていた。
その側には梅と桃がまだその花を残していて、風が濃淡様々な花びらを散らせていく様は、ひどく幻想的で、
正に桃源郷だな、とやはり珍しくも幸村はそんな感想を抱いた。
何気なく視線を下に向け、その桜の根元に人がいたのにふと気付き、幸村は微かに目を見開いたのだが、
すぐにその目は更に大きく開かれ、彼は仰天した。
「ま、政――!!」
口から飛び出しかけた言葉を、口を塞いで慌てて押し込んだのはその人が余りにも穏やかで安らかな寝顔を見せていたからだ。
普段の人を食った笑みや尊大な顔は影も形もない。
幸村が思わず見惚れる程に、伊達政宗が和らいだ雰囲気を纏って眠っていた。
「……あれ?」
普段と余りにも違う表情に意識を取られていた幸村だが、漸くに表情どころか全体的に普段と違いすぎる姿に気が付いた。
蒼竜と字されるにふさわしく、確か彼は青い装束を好むはずなのだが、
目の前の政宗は、派手とまではいかないが華やかな柄のある赤い着物を身に纏っていた。
珍しいな、と色だけ見てそう思った幸村だが、それは男の着る衣装ではなく、女性が纏うに相応しい着物であることに気が付く。
よく見れば、長くはない髪ではあるが細工の細かな櫛で珍しくも結い上げられ、
右の目は無骨な鍔ではなく、着物と同じ赤い布で覆われているではないか。
目の前にいるのは伊達政宗であるはずだが、明らかに女性の装いをしているのだ。
衣装だけではない、桜の儚い雰囲気も手伝ったのか、線が一回り細く見えた。
「…って、えええぇぇぇっっ!?」
政宗の普段と違う様に気付いていくに従って、次第に鼓動を早め動揺していった幸村は、
ここでついに堪えきれずに間の抜けた叫び声を上げた。
無駄に声量のある幸村だ。
当然近くにいた政宗にも聞こえるはずで、微かに眉を寄せて眠りを妨げられたことに対してか気怠げな吐息を漏らしながら、
政宗はゆっくりと目蓋を開いた。
「……」
まだ少し寝ぼけているのか、政宗はぼんやりと幸村を見つめていたが、不意に形の良い唇が言の葉を紡いだ。
「真田幸村…?」
聞き慣れたはずの声はいつもより調子が高い気もするが、
そんなことより紡がれた言葉が己の名前であることに、幸村の胸が高鳴った。
「は、はい!」
無意識に出た言葉にも律儀に返す幸村の大声に、漸く状況を飲み込んだ。
「……」
まずい。
とそればかりが頭に浮かんでくる。
人前では寝ないのが信条なのに熟睡している姿を見られてしまったこともあるが、
よりにもよって、こんな格好をしている時にだなんて。
バレた、と思った。
「……」
大体、何でこの男がこんなところにいるのか、
と己の失態は置いておいて、次第に腹が立ってきた。
それが視線に表れてしまったのかは分からないが、
突然呆けていた幸村が地面に膝を付いた。
「申し訳ござらぬ! 桜の見事な様に誘われ、つい奥の方にまで…
成実殿にも忠告されていたというのに……誠に申し訳ござらぬ!」
いきなりの土下座に、流石にどう対処すればいいか逡巡した。
「……あ、まあ次から気をつければ……」
故に珍しくも優しい言葉をかけてしまったのだが、そんな政宗へ向けて、幸村は恐る恐る顔を上げた。
困ったような顔をしている政宗は、普段の彼からは考えられぬ程、幸村へ柔らかな印象を与える。
それは信じがたいので、格好と桜のせいだと思うことにした。
幸村はしどろもどろになりながらも口を開く。
「……その…某、他人の嗜好に口を挟む気は毛頭ござらぬ……
ひ、姫わ…長曽我部殿の例もありますし……」
「……へ?」
いきなり何を言い出すのだ、この男は。と、二の句が継げない。
構わず幸村は続けた。
「ま、政宗殿に女装の趣味があるなどとは、某身命に誓って口外せぬ故、その、ご安心下され!」
「……」
愕然とした。
明らかに身体の線からして違うというのに、この男は政宗が女装していると思い込んでいるのだ。
「ア、アホか! 俺は女だ!!」
予想を180度裏切った幸村の発言に、思わず身を起こし、そう口走ってしまった。
女とバレるよりかは、女装趣味と思われた方がこの際都合がいい気もするが、
何となく彼女のプライドが許さなかった。
「へ…女……?」
勢いでしてしまった彼女の告白に、幸村はまじまじと目の前の政宗を見つめた。
「女をじろじろと見るもんじゃない」
しかし、その彼女からぴしゃりとそう言われ、慌てて顔を逸らした。
確かに女と思って見れば、身体の線は細いし、声も何となく高い気がする。
桜のせいでなかったことと、実は政宗が女だったという事実を今更認識した後、
唐突に幸村は青くなり、いや、それからすぐに赤くなった。
「お、おなごが戦とは! は、はれんちであるぞ!」
「……えぇぇぇ?」
この男の思考はよく分からない。
一瞬だけ途方にくれたが、すぐに我に返り、とりあえず突っ込んだ。
「待て、どうして俺がはれんちなんて言われなきゃいけないんだ。
何考えてるんだ、真田幸村?」
「な、某何も…!
うぉぉぉ…叱って下され、お館さぶぁぁ…!」
「いや、お館様って……」
本当に何を考えているのか、うなだれる幸村は人の話など聞いちゃいない。
仕方がないので、暫く観察でもしてみようか、とか思いつつ、
起こした腰を再び落とし、彼女はそのまま放っておくことにした。