風に頬を撫でられ、政宗は閉じていた目を開く。
天井を眺めながら、少しの間記憶を辿り、それからゆっくりと半身を起こした。
右手で頭を抱え、髪を掻き上げる。
右目を覆ういつもと同様の鉄の感触に、知らず政宗は微かに安堵した。
鎖が立てた音に、顔を隣へと向けると、官兵衛が横になったまま政宗を見上げていた。
「……どれぐらい、意識が飛んでいた?」
やや掠れた声で、政宗は官兵衛へそう尋ねる。
確か二回、中に出されたところまでは覚えている気がするが、その辺りからどうも記憶が曖昧だ。
「……半刻ぐらいだな。大して経っちゃあいない」
ちらりと月に目を遣って、生欠伸をしながらそう答えた後、
官兵衛は腕を前へと伸ばし、指を動かして政宗を手招きする。
眉を寄せつつも、政宗がそちらへ身体を傾けると、
そのまま引っ張られ、官兵衛に抱えられてしまう。
舌打ちしたものの、官兵衛の胸板に顔を押し付けるだけで、
政宗からそれ以外の抵抗はなかった。
風に流され、叢雲はない。開け放した障子に遮られることなく、
月影が部屋の中の二人を淡く照らしている。葉擦れや風以外に音もなく、誰かが来る様子もない。
「……お互い様って、何のことだ?」
その心地良い静寂をかえって持て余したのか、政宗が不意に口を開く。
格好はつかないが、分からないままである方が癪だ。つまりは、そういう結論に達したのだ。
「いつの話だ?」
「さっきのだ」
そうした政宗の葛藤を知るはずもなく、何の話だと尋ね返す官兵衛に、政宗は不機嫌そうにそれだけ言い捨てた。
しかし、官兵衛も政宗の気性は十分に承知している。
「……ああ」
思い至り、意外と気にする男だな、と言いかけた言葉を、官兵衛は辛うじて呑み込んだ。
独眼竜曰くの弱点は、以前に能島の女巫を訪ねた際に、官兵衛も多少は自覚するようになったのだ。
「ん、そうだなあ……」
とはいえ、官兵衛にしては珍しく、すぐには代わりが思い付かず、言葉を濁した。
正直なところ、困った。お互い様だからこそかわせた訳で、改めて持ち出されるとは思わなかったのだ。
「……お前さん、後ろからされるのは苦手だろう?」
「……ああ?」
暫し呻った後での官兵衛の返しに、政宗は眉を寄せ、官兵衛を見上げる。
その政宗を官兵衛も覗き込み、微かに意地の悪い笑みを浮かべた。
「後ろからだと、お前さんの動きが少し固い」
「……」
政宗の眉間の皺が深くなる。
「背中を晒すんだ。当然と言えばそれまでだが、どうもそれだけじゃあないような気がしてな」
「……何が言いたい」
そう問いかける政宗の声は先程よりも低く、官兵衛を見上げるその眼光も幾らか鋭くなっている。
余計なことを言えば、すぐにも殺されてしまいそうな程の迫力だった。
「いいや、何も言わないさ。だから、お互い様だ」
だが、官兵衛は怯まず、笑みを浮かべたまま、そう答える。
だから政宗は気付く。
コイツは、このまま何も言わずに、煙に巻くつもりだ。
秘密や隠しごとがあるのは互いに同じ。
ならば、体位のことも、眼帯のことも、何も聞かぬ。
聞かぬから、何も聞いてくれるなと、つまりはそう言いたいわけだ。
「……」
そんなこと分かっている。どうせ戯れだ。それだけの関係だ。
心をさらけ出して、何になる。深みに嵌るなど、ただの愚か者だ。
信用していないだろう。できるはずがない。
そうだ、お互い様だ。分かっている。
だったら、どうして、わざわざこんな所まで訪ねてきたんだ。
そう言いかけた言葉を呑み込み、政宗は持て余した感情を抑え込もうとした。
少しでも気を緩めれば弾けてしまいそうなそれを、言ったところで詮もない。
お互い様だと線引いて、この男も、己も、拒絶しているのだから。
「……」
拒絶だと。そんなこと、そんなもの。
――ふざけるな!
唇を噛み締め、政宗は半身を起こし、官兵衛を睨み付けた。
その竜の眼差しで、己のはぐらかしが逆効果だったことと、政宗の意図に気が付き、
それを遮ろうと官兵衛も身体を起こし、手を伸ばす。
しかし、口を塞ごうとする官兵衛の手よりも政宗の口の方が速かった。
「ガキの頃まわされた。その時の体勢だから好きじゃねえ」
政宗の告白に一瞬だけ絶句し、すぐに官兵衛が口を開く。
「ば――っ!」
が、叫びかけたそれを堪え、呑み込み、代わりの言葉を探し、
官兵衛は引っ込めた手で自身の頭をがしがしと掻きむしりながら低く呻った。
「……そういうことは、わざわざ言わんでいい……」
どうにかそれだけ呟き、こちらを睨んだままの政宗を宥めようと官兵衛は手を伸ばす。
それを政宗は払いのけた。
「バカはてめえだろうが」
そうして、またもや官兵衛が止める間もなく、
今度は右目を覆う鍔に手を掛け、政宗は眼帯を剥ぎ取った。
唖然とする官兵衛に、ずいと顔を近付け、政宗は醜く爛れた病の痕を晒す。
「ああ、確かに胸糞悪ぃさ。ムカつく思い出だ。
だが、こんなの、わざわざ、隠すようなもんでもねえんだよ!」
そのまま官兵衛を押し倒すと、上にのしかかり、官兵衛の両肩を掴む。
「逆なんだよ、この程度だ!」
官兵衛は肩に食い込む爪に目を遣り、それからこちらを見下ろしている政宗の瞳を見つめ返す。
荒い呼吸、苦しげに歪められた表情、ほんの微かではあるが震えている身体。
あまりにも拙い虚勢だ。当然だ、この程度のはずがない。
上に跨っている政宗に、官兵衛は徐に手を伸ばした。
両の手で顔を挟み、頬を撫でながらそっと政宗を引き寄せる。
「……若いな、お前さん」
だが、その若さゆえの強がりは、いかにもこの竜らしく、好ましい。
「……参ったな」
そんなことを思ってしまう自分に呆れ、そう独りごちてから、政宗を引き寄せ、口付ける。
拍子に官兵衛は最初の衝動と感情を漸く思い出し、苦笑する。
これでは、この竜のことは言えない。
「……やはり、お互い様だな」
その言葉を聞いて、また険しい顔になる政宗に、官兵衛は少し慌てて、今度はそれじゃあないと言い繕う。
「お前さん、小生に惚れているだろう?」
「ほ、惚れっ……!」
指摘され、反射的に否定しかける政宗を遮り、官兵衛はにやりと笑う。
「そういう意味でのお互い様だ」
「っ!」
途端に頬を染め、耳まで赤くなった政宗を、自身の照れ隠しも含め官兵衛は抱え込んだ。
良かった。自惚れじゃあない。
己が此処まで足を運んだのも、この小憎らしい竜をこうして抱くのも、
そしてこの竜が利害を除いて本心を伝えるのも、
全て、互いに惚れ込んでいるからなのだ。
それはむずがゆいが、何より温かく、嬉しかった。
同時に官兵衛は思い、政宗を抱きかかえるその力を強め、彼へと語りかける。
「だがな、だからこそ、無理はしてくれるな」
「……」
政宗が微かに身動ぐが、官兵衛は力を緩めない。
「煽ったのは小生だ。それはすまんかった。だがお前さんも、簡単に乗せられるな」
「……」
「この程度だとお前さんは言うが、そんなはずないだろう。易々と割り切れるもんじゃあない」
小さく舌打ちしたり、呻ったりはしていたが、政宗はおとなしく官兵衛の話を聞いていた。
少し経ってから、胸に埋めていた顔を上げ、官兵衛の顔を窺い見る。
その政宗を引き寄せて、官兵衛は改めて政宗の右目に口付けた。
少し眉を寄せはしたものの、政宗はぎこちなく苦笑を返す。
しかし、くすぐったさを隠すつもりか、再び顔を伏せてしまった。
両腕を頭の方へと動かし、やや不器用に政宗の頭を撫でながら、官兵衛が口を開く。
このままで終わりたいが、それでは不公平だろう。
「さっきのは、他にも話したことはあるのか?」
「……気付いている奴はいるだろうが……そういや話したことはなかったな」
程度を確かめようと問うと、少しの間を置いてから政宗がそう返す。
「そうか……」
本当に、よくもまあこの程度と言えたものだ。
だが、ならば尚更。
「……気になるか?」
官兵衛が黙り込んでしまったので、今度は政宗が口を開いた。
政宗の問いに、官兵衛は咄嗟に首を振る。
「いいや、生憎とそれに見合うような話は持ち合わせちゃいないんでね」
口をついて出てしまった官兵衛の誤魔化しに、咎めるような口調で政宗は言い返す。
「それが目的で話したわけじゃねえよ」
それから、すぐに声音を和らげ、幾分の気まずさも含め、付け加えた。
「……それに、本当にこの程度の事なんだぜ?
前でも後ろでもイイことに変わりねえしな。
強がりは、その……まあ多少はあるかもしれねえが、
どのみちもう終わっちまったことだ、いつまでも引き摺っていたって仕方ねえ」
自身に言い聞かせているところの大きいその正論は、意外にも官兵衛の耳にすんなりと入っていった。
いや、身の内に押し込めたままのものを言葉にする行為が、それができる政宗が、
己の胸を打ち、心を揺らすのだろう。
官兵衛は再度、此処を訪れるに至った最初の衝動と感情を思い出す。
逢いたかった。触れたかった。死ぬ前に?
好きだから。殺されてもいい。誰に?
愛しい。この男にならば。
様々な思いが交差し、せめぎ合い、駆け巡る。
「独眼竜」
不意に呼ばれ、政宗が顔だけ上げて生返事をするが、続く言葉は官兵衛から紡がれない。
眉を寄せ、だるい身体を持ち上げ、ゆるゆると動いて、政宗は官兵衛の顔を上から覗き込んだ。
「どうした?」
何か言いたげな目を見つめ返し、政宗は続きを促した。
「……サイカイ」
迷った末にそう呟き、官兵衛は暫し沈黙する。
促すのを止め、政宗は官兵衛が言葉を継ぐのを待っている。
「……知り合いだろう?」
「うん? ああ……」
次の一言で、先程の言葉は"西海"であり、四国の長曽我部元親のことを指していると分かったが、
その人物を話題に出される理由までは思い至れずに、政宗はただ頷くに留める。
「……」
唇を引き結び、瞳を揺らし、官兵衛が政宗を見つめている。
覚悟、躊躇、打算、諦観、懇願。
彼の瞳の中にそういった光が見えた気もしたが、政宗は何も言わない。促さない。
竜の瞳で、官兵衛が自ら言い出す瞬間をひたすらに見つめている。
政宗を上に乗せたまま、官兵衛は再び半身を起こした。
「……お前さんに、聞いてほしいことがある……」
引き結ばれた唇が、躊躇いながらもゆっくりと、言の葉を紡ぐ。
そうして官兵衛は、遂に、懺悔を口にした。