フォーマルハウト
鉄と火薬と篝火の臭いが、湿り気を帯びた土に被さり、
また岩壁に弾かれたように篭もった穴蔵に満ちている。
住めば都とは言い難いものの、馴染み深くはなったこの穴蔵での臭いだが、
炭坑の出入口から通気孔へと吹き抜けていく風に運ばれ、血と脂のそれが塗り重ねられていく。
喊声や悲鳴、呻き、断末魔をも加えたそれらは、鼻と耳のみを持ってして、
近付きつつある惨状を思い描くに十分だった。
次々と届けられるは敗走、壊滅の報せ。視界に入るは戦慄と覚悟を浮かべる見知った顔。
この者達までもを彼岸へ渡らせるかと思えば流石に胸を突かれる心地だが、
退けの命も逃げろの請いにも否と首を振るばかりで名ばかりの将の立つ瀬はない。
地に這い蹲り頭を擦り付ける程で叶うならば安いもの、腹を切って済むならば甲斐もあるが、
仇討ちに占められ憎悪に塗られた敵方の心に投じる一石たりえるには些か心許ない。
期待もせずに、もう一度だけ逃げろと声を掛け、予想通りの否の答えに官兵衛は微かに笑みを零した。
時をかけ手をかけ作り上げた自慢の機巧も破壊されたと、つい先程報せがあった。
角土竜の位置から本陣まではさほどの距離もない。
いよいよ大きくなる鬨の声に、暗い坑道の先にある扉へと視線をやってから、
官兵衛は前髪に隠されたその目を束の間閉じる。
そこに広がる暗闇の中、鮮明に浮かび上がったのは己が手で壊滅させた彼の地。
瓦礫と屍の山、潮風に吹かれ、たなびく折れた旗。
立場を替え位置を変え、遠からず見えるであろう再来。
じきに、この目を開けても閉じても変わらなくなる光景だ。
それに思い至り、官兵衛はようやっと目を開いた。
再び見知った者達の顔が視界に入り、嘆息する。
やはり、このまま死なせるには忍びない。
己が死ぬまでにも、まだ間はあろう。ならばもう少しだけ、足掻いてみるか。
扉を抜けた先にちらりと影が見えた。
それが見る間に大きくなり、人の姿を形取ると認識するやいなや、
怒鳴り声と共に西海が真っ直ぐに突っ込んでくる。
この怒りに満ちた西海に聞く耳を期待できようか。
振り上げた腕に引かれ、填められた枷に繋がれた鉄球が地面に跡をつけた後、宙へと浮かび上がる。
胸を過ぎ頭を越え鈍く重い鉄の球が昇りゆく。枷と鉄球とを繋ぐ鎖も宙を舞う。
そうして両の腕を自ら振り下ろし、官兵衛は突進してくる長曽我部元親を迎え撃った。
いつかこの日が来る事は分かっていた。
話に聞く西海の鬼・長曽我部元親とは、身分の上下も国の内外にも頓着することなく、
陸にすら拘らぬような器の男だ。
部下に慕われ、国を捨てざるを得なかった他国の民すら受け入れ、他国の者を友と呼び信を置く程の仁の者だ。
この男は、自身を鬼と称するくせに、情に脆く情に厚い。優しすぎる。
だからその情の心は、その広さや深さに応じて至極容易に恨みと憎しみへ翻る。
元親の碇を模した槍の一撃は、彼の怒りと憎悪を加え更に重くなる。
受け止めた衝撃は枷を伝って腕に響き、その勢いに官兵衛の身体が軋みを上げる。
そして何より、自身を苛み続ける後悔が官兵衛の動きを鈍らせる。
鉄球が起こす風は、元親の槍が宿す炎をより激しく燃え上がらせ、じりじりと官兵衛の身体を焼いていく。
見知った者達が、官兵衛へ助太刀しようと立ち向かい、
それに家康が友とその仇の対決の邪魔はさせまいと食い止めている。
見知った者たちが屍へと姿を変えていく様が篝火に照らされ、
自分の名を呼びながら息絶えていくその声が官兵衛の胸を締め付けた。
こうならぬよう、他に術があったかも知れない。このような光景を望む者などいるものか。
ああだが、あの男ならばこれを見て、息を引き攣らせ悦び嗤うかもしれない。
そしてもう一人は、あの能面を微かにも歪めることなく、些末とばかりに次の策を講じるだろう。
その者共に都合良く使われ、利用され、そして最期は。そこまで考え、官兵衛は首を振った。
「それを知ったら、お前さんはどうするだろうな」
呟いた後、詮無いことだと自嘲する。
聞こうと聞くまいと、死んだ仲間はかえってこねえ。
耳に届いていたらしく、西海がそう怒鳴り返す。
そうだろう。悔やんだところで、四国を壊滅させた事実は変わらぬし、
今ここで彼岸へと渡る者達の足を留め置くこともできはしない。
その無常は、どう足掻こうとも人の身では至れない。
あまねく不幸の訪れを望む者も、自国の安寧のみを望む者も、それは同様だ。
ならばせめて、西海がこのまま気付かなければいい。
これで西海は己を殺すが、権現は殺さない。
半ばまでとはいえ、刑部と毛利の思惑通りに事は運ばない。
溜飲までは下がらぬが、多少は小気味いいというものだ。
枷の軋む音にふと手元へ目を落とす。
あれだけ攻撃を食らったというのに、何だこの枷は。
あのな、小生これで最期なんだ。
外れてくれたって罰は当たらんだろう。なぜじゃ親友。
止めの一撃に盛大に吹っ飛ばされ地面に叩き付けられるが、不思議なことに痛みは感じない。
あれ程に熱く苦しく辛かったものが、波が引くようにすっと失せてしまった。
緩慢に流れる時の中、視界に映る天井の暗闇をただぼんやりと眺めていると、頭にどっと何かが流れ込んできた。
なるほどな、これが末期に見ると噂のあれか。
それらは、見知った者達を映し出し、矢のように過ぎて行く。
穴蔵の者達、北条殿、風切羽、三成、刑部、毛利、秀吉、半兵衛、
権現、西海、第五天、鬼島津、立花、孫市、若虎。そして、独眼竜。
そこで何故か流れが止まり、それに驚き戸惑った。
会ったことはある。話したこともある。城に招かれはした。持て成しを受け、多少は語らった。
だが、それだけだ。今まで出てきた者程には親しくはないし、恨みや負い目がある訳でもない。
だというのに、独眼竜が見えた。最後の最後に、独眼竜を見ることができた。
ただそれだけのことが、何やら嬉しく、同時に哀しくも思う。
それで漸く気が付いて、官兵衛はまた少しだけ後悔した。
口が何かの言の葉を紡ぐが、もはや音にはなり得なかった。
月は見えぬが雲も無い深青の夜空の下、奥州へ戻る途中の伊達軍は小高い丘に陣を張り、今宵の宿所としていた。
故郷はもう目の前だ。長旅の疲れは見えるものの、皆の顔は一様に明るい。
気付けば一部で酒盛りまで始まったが、政宗も小十郎もある程度は好きにさせ、
丘の上からその様子を眺めるに留めていた。
しかし、床几に座っていた政宗が不意に空を仰ぐ。
主君の突然の行動に、側で控えていた小十郎は眉を寄せ声を掛けた。
「政宗様、如何為された?」
政宗は黙したまま、南の空をただじっと見つめている。
眉間の皺を深くして、小十郎がもう一度呼び掛けると、漸くその顔を夜空から小十郎へと向けた。
「……今夜は、月が見えねえな」
政宗は月見を好む。城ではよく月を肴に一人酒を楽しむ程だ。
さては丘の裾で行われている騒ぎに誘われたかと思い、小十郎は今宵は朔の日だと告げる。
「ですが、雲も無い晴天です。今宵は星々がよく見えましょう」
「……そうだな」
頷いた政宗に、酒を持ってくると言い置いて、小十郎はその場を下がっていった。
それを見送った後、政宗は再度夜空を見上げる。
南の方角、名は知らぬが一際輝きを見せる星に、一人の男が思い出される。
数度顔を合わせ、言葉を交わした程度の男の姿が唐突に思い浮かんだ理由が分からず、政宗は首を傾げる。
だがまあ、思い浮かべたついでだ。城に戻ったら文でも出してみるかと思い、
その思いつきに何故か顔が綻び、政宗は忍び笑った。
少し知っただけの男を思い浮かべた理由に至らぬまま、
文を持たせた者が南の地へ辿り着くか否かという頃に、政宗は思わぬ人物からその者の名を聞いた。
いや、豊臣が権勢を振るっていた時代、あの竹中半兵衛と共に二兵衛と並び称された男だ。
大坂に程近い四国を治める長曽我部元親が知っていても何ら不思議はない。
政宗が驚いたのは元親が話す内容の方だった。
四国壊滅のことではない。文を送った相手がそれを行ったことでもない。
長曽我部元親に黒田官兵衛が討ち取られたということが、政宗の胸を突き、彼の心をひどく乱した。
死んだ。死んでしまった。
もう会えない。文も届かない。話せない。
この世のどこにも、もういない。
強張った表情の政宗に気付いて、元親が眉を寄せる。
取り繕うことも忘れ、その隻眼を見開いたまま、政宗は黙して動かない。
普段は見せることの少ない、政宗の動揺したその様に驚きながらも、
暫し辺りを満たしていた静寂を解くように、元親は躊躇いがちに口を開いた。
「……あんたの、知り合いだったのか?」
沈黙を破ったその音で、虚空にその視線を漂わせていた政宗の竜の瞳が、元親をちらと捉える。
しかし、束の間に受け止めるには過ぎた衝撃が、政宗の思考を鈍らせていた。
耳から入ってきた元親の言葉を何度か頭で繰り返し、その意味を緩慢に探っていく。
知り合い。そう、知り合いだった。深くは知らぬが、少しは知っている。
だが、それだけだ。
「……」
嗚呼、そうか、それだけだったのか。
止まりがちだった思考がまた巡り始め、それで漸く気が付いた。
詮無いことを僅かに思った後、政宗は自嘲した。
「……参ったな……」
口が紡いだ言の葉は、音にはなり得たものの誰の耳にも届かなかった。