「グリードのケチ!猫1匹くらいいいじゃない!」 あまりに力を込めて叫んだせいで、は危うく腕の中にいる黒猫を抱きつぶしそうになった。 苦しげにニャアと声を上げるそれを慌てて抱きなおすと、顎をグッと引いて、 仕切り直しとばかりに目の前の恋人を睨みつける。 「何で飼っちゃだめなのよ!理由!」 「だめなものはだめなんだよ。」 グリードは躊躇いもなくスパッとそう言いきった。 の怒声をいくら浴びても、その涼しげ・・・というよりはだるそうな表情は崩れない。 そういう態度に余計に腹が立ってきて、の頭に昇っている血は沸点を越えそうだった。 「自分で全部世話するし、お店の方にはいかせないようにするってば!」 「だめだ。捨てて来い。」 「グリードのバカ!威張りや!変なクツ!」 そう叫びながらグリードのすねを蹴りつけようと足を振り上げても、やはり彼は平然としていた。 「硬化すっから、蹴ってもお前の足が痛いだけだぞ。」 「〜〜〜うるさい!」 力の限り蹴りつけたグリードの足は、言葉と裏腹に硬化されておらず、 人間の柔らかな感触そのままがの足に伝わった。 それに一瞬ひるんだものの、すぐにぷいと顔を背けると、は部屋を飛び出した。 グリードを蹴った足がじんじんと痛んだ。 「・・・・・マーテル。」 「何?・・・アラ、可愛い猫。飼うの?」 店で使うグラスを拭いているマーテルの隣に、 は小さな子供のようにぺたりと座り込んだ。 潤んだ瞳と、頬や耳の赤さに、今しがたまで何か興奮していたことが見て取れて、 マーテルは小さく微笑む。 はそのイノセントゆえに、どこか幼いところがある。 「床、まだ掃除してないから汚いよ。」 「いいの。床に座りたい気分なのよ。」 「ふーん。・・・で?」 綺麗に磨かれたグラスは、照明の光を浴びてキラキラと輝いている。 もうすぐ日が暮れて、デビルズネストの開店時間になる。 そうしてマーテルが磨いたグラスたちに、色とりどりのアルコールが注がれ、 店内に濃厚な香りが立ち込める。 は細い指で猫の頭をぐいぐいと撫でた。 撫で方が乱暴だったので、猫は迷惑そうに目を細めた。 「グリードに、この猫飼っちゃだめって言われた。」 「じゃあだめね。」 「・・・・・。」 マーテルがあまりにきっぱりと言い切るので、は怒りを越えてうんざりとした。 本当はにだって分かっている。 デビルズネストで生活する者にとって、グリードは『絶対』だ。 それはにとっても勿論そうで。 彼の側で生きるとはそういうことなのだ。 「そんなの分かってる・・・けど、理由ぐらい言ってくれてもいいのに。」 猫はの手をすり抜けて軽やかに床に降り立つと、 マーテルの足元にほてほてと寄っていった。 マーテルはは切れ長の瞳を細めて微笑むと、すっとしゃがみこみ、猫の喉元をくすぐった。 ゴロゴロとこもった声がする。 「アタシには理由、分かるよ。 アンタにも絶対わかるはず・・・アタシなんかよりずっとね。」 「分かんないわ、全然。」 「それは分かろうとしないからでしょ。」 ・・・分からない。 いつもの生活に、これから黒くて小さな生き物が1匹加わる。 それの何がいけないのか。 きっと小さな喜びを、毎日与えてくれるはずなのに。 「あれ、、右手の甲に血がにじんでる。」 「え?あ、ホントだ。コイツ捕まえるときにいっぱいひっかかれたのよねー。」 「よくそれで拾う気になったわね・・・。 消毒してあげるからちょっと待ってなよ。奥の部屋から道具持ってくる。」 「ありが――うわあっ!?」 突然体を後から抱き上げられて、は目を白黒とさせた。 けれど、体にまわされた腕が見覚えのあるものであることにすぐに気がついて、 宙に浮いている足をばたつかせて必死で抵抗する。 「いっや〜〜〜!放してよ、グリード!」 「マーテル、手当ては俺がするから部屋から出てろ。」 「分かりました。」 「やだマーテル!置いてかないで!」 さっさと部屋から出て行くマーテルに、 は無駄な足掻きと分かっていながら手を伸ばした。 しかしマーテルは振り返ることなく、手だけを軽くひらひらと振って、部屋を後にした。 「マーテルの人でなしー!」 「いや、あいつ蛇だし。」 「そんなこと誰もきいちゃないわよ!離して!触んないで! 猫飼うの許してくれるまでキスだってしてやんないんだからねっ!」 「お前がしてくれなくても俺が勝手にする。」 「は!? っん――!!」 いつの間にか足は床に着いていた。 慣れた仕草で身体の向きを変えられ、唇を乱暴に塞がれていた。 怒りのために瞳に涙がにじむ。 ぼやけた視界の隅で、グリードのもう片方の手が猫を掴んでいるのが見える。 首を掴まれて宙ぶらりんになった黒猫は、ついさっきまでののように暴れていた。 それを見て、やっぱりこの猫は自分が飼うべきだと思った。 動物は飼い主に似るもの。 もう自分は、あの黒猫の立派な飼い主なのだ。 グリードの膝の上に座らされたは、さっきと同じように瞳を潤ませ、 頬と耳を赤くしていた。 さらにその膝の上で、猫が呑気に丸まって大あくびをしていた。 のふてくされた顔をやはりだるそうに眺めながら、 グリードは手元の救急箱から消毒液を探り出す。 「おい、手ェ出せ。」 「・・・・・。」 「俺様が直々に手当てしてやるんだぞ。出せっつーの。」 「・・・・・。」 「だんまりかよ、このバカ。いい加減にしねえとこの場でヤるぞ。」 「バカはどっちよ!下品っ!!」 勢いよくとんできた右手を、グリードはすかさずぱっと掴む。 そしてその白い手をまじまじと見つめて、ため息混じりに呟いた。 「なんだよ、たいしたことないじゃねえか。 こんなの舐めときゃ治るだろ。」 そう言うや否や、グリードは当然のように赤い血の筋を舐めた。 はびくっと肩を震わせた。 頬が熱くなる。 「なっ、なんでグリードが舐めるのよっ!」 「何言ってんだ、俺に舐めて欲しい女なんていくらでもいるんだぞ。」 「どうしてそっちに話を持っていこうとするかなあ! あー・・・そうじゃなくて・・・ねえ、理由言ってよ。 どうして飼っちゃダメなのか、納得できたら、元の所に戻してく・・・るかもよ?」 気持ちを落ち着け、真剣な口調で語りかけながら、 はグリードの真っ赤な瞳を覗きこんだ。 それを受け、グリードもまっすぐに視線を返す。 しばらく無言で見詰め合った。 見詰め合うというよりは、睨み合うという感じかもしれなかった。 はグリードの瞳の奥にあるものを見極めようとし、 グリードはの何かを探り当てようとしていた。 「・・・すぐ死んじまうだろ、小動物は。」 「え?」 先に口を開いたのはグリードだった。 諦めたかのように、息をつく。 グリードの意図することがよく分からず、は眉根を寄せて首をかしげた。 それをちらっと見てから、グリードはどこか遠いところを見るような瞳をして、気まずそうに言葉を吐き出す。 「丁度情がわいてきた頃に、あっけなく死ぬだろうが、こういうやつらは。」 「・・・・・グリード。」 「可愛がった分だけ、死んじまったときの後味が悪くなる。」 「ねえグリード、聞いて。」 その声にはっとしたように、グリードはのほうを見た。 はグリードと目が合うと、自分から呼びかけたくせに困ったような表情を浮かべ、僅かに俯いた。 けれどすぐに、しっかりと彼を見据えた。 「・・・グリードの言うとおりだよね。愛情を注いだら注いだだけ、お別れのとき辛いもんね。 大切なものが目の前であったかさをなくしていくのを見るのは、苦しいよね。 でもね、だからって愛するのをやめちゃうことって、もっと悲しいことだよ。寂しいよ。 ――一人で生きていくのは、辛いよ。」 そこまで言って、突然、さっきのマーテルの言葉の意味を急速に理解した。 グリードは、一人だ。 これまで長い時間を生きてきて、恐らくはこの先も、さらに長い時間を生きる。 永遠だ。永遠に出口はない。 出口のない迷路を、グリードは歩き続けている。 その迷路に道連れはない。 途中で誰かと出会って一緒に歩くことはあるけれど、途方もない時間を歩く彼にとって、それはほんの一瞬だ。 だからこそ、別れの辛さをよく知っているのだ。 一瞬の、切ないほどに儚い出会い。 けれど永遠を望まずにもいられない。 なぜなら彼は、『強欲』だから。 「・・・ねえグリード、やっぱりこの猫飼うよ。」 「お前なあ、俺様の話を聞いてねえのか。」 「違うよ・・・ちゃんと聞いてるよ・・・・・。」 膝の上の猫は寝入ってしまったらしく、黒い体が呼吸の度に上下している。 引っかかれても噛み付かれても、この猫を拾ってきたのは、グリードに似ていたから。 ふてぶてしくて、気ままで、どこか偉そうで、凛とした雰囲気で、 そして本当は誰よりも人を求めるているのに、近づかれると差し出された手を拒もうとする。 それでも最後にはその手をとった。 強烈に人を求める『欲』を、抑えられるはずがない。 どれだけ別れの辛さを知っていても。 「私は生きてる限りずっとグリードの側にいるよ。 でも、グリードが私のこといらなくなったら、出て行くから。」 「おま・・・何泣いてんの?」 「わ、私・・・すぐ死んじゃう人間でごめんね。」 ぼろぼろとの目から涙が零れ落ちていた。 「しわしわのおばあちゃんになっちゃっても、私グリードのこときっと好きだから。 その事実だけを、長い旅の道連れにしてくれたらいいよ。 愛された思い出があれば、1人で歩くのは辛いけど、幸せだったとも思えるはずだから。 だから・・・いらなくなったら、私のこと、捨てて。」 どうしようもなく切なかった。 自分もまた、『一瞬の人間』であることが悲しかった。 だから、ずっと側においてなんて残酷なことを、言えるはずがない。 最期の瞬間をつきつけて、わざわざ寂しがらせる必要なんてない。 そんなのエゴイスティックだ。 一方的な愛情なんて、嫌だ。 「お前が何考えてんだか知らねえがな、言っておくが今のところお前を手放すつもりは全くないからな。」 「わっ!」 は額をコンと小突かれて、その勢いで睫毛にくっついていた涙の粒がぽろぽろと零れた。 水滴は猫の頭や背中に落ちて、漆黒を少しだけ潤ませた。 グリードの軽い口調と仕草に、の噛み締められていた唇は緩む。 「ね、この猫飼おうよね。いいでしょう?」 「――。」 グリードはさっきまで酒を飲んでいたらしく、アルコールの香りを含んだ深いため息をつくと、 ポンとの頭に手を乗せた。 「・・・コイツが死んだときは、お前、力の限り俺をなぐさめろよ。」 相変わらず、猫は呑気に眠ったままだった。 南部独特の鋭い陽射しの降る午後。 デビルズネストの裏口を出るとある、お世辞にも清潔とは言い難い状況の裏庭。 朽ち始めている木箱や酒樽、乱雑に転がる瓶の隙間をぬって、明るい声が響く。 「グリードっ、ぐ〜りちゃん、ご飯だよー。」 まるで歩き始めたばかりの赤ん坊を呼び寄せるように、 は猫にむかってパンパンと手をたたく。 足元にはキャットフードの盛られた、真新しい赤色の餌入れが置いてある。 それを見ていたグリードはさすがに声を荒げた。 「おま・・・妙な名前つけんじゃねえよ!そいつメスなんだろうが!」 「漢気溢れるメス猫なのよ。数ある修羅場を乗り越えてきたのよ。 歯向かうやつはばっさばっさと切り倒し、こいつが歩いた後には常に血溜まりができたのよ。」 「じゃあコイツの名前はだろ、おい。」 寄ってきた猫の頭を乱暴に撫でるグリードに、今度はが甲高い声を上げる。 「じゃあって何よ!私の歩いた後は血じゃなくて、甘くて魅惑的な香りが残るのよ!」 「・・・誰の話だ?」 「私だって言ってんでしょ!」 犬も食わないような喧嘩は猫も食わないらしく、 いまだ名前の定まらない黒猫は2人を無視してキャットフードに口をつけている。 ふっさりとしたしっぽが、の足に当たった。 その途端、それまでしかめっ面をしていたにもかかわらず、の頬は緩む。 「あとで、マーテルやロアやドルチェットにも、名前考えてもらおうか。」 「ドルチェットは嫌がるんじゃねえのか?」 「いいねー、猫ちゃん対ドルチェット、血湧き肉踊るわね!」 「・・・やっぱコイツの名前だろ。」 「グリードだってば。」 ループする会話に、苛立ちなど覚えるはずがない。 穏やかな時間に交わされる、無駄であり、意味のある言葉達。 永遠の中を、光の速さで駆け抜けていく一瞬。 元野良猫らしく豪快に餌を頬張る猫の首根っこをつかみ、グリードは目の高さまで持ち上げた。 食事を中断されて、猫は足をばたつかせる。 「――俺は絶対に、永遠の命を手に入れるけどな。」 「んー?」 グリードは突然、の腕へと猫を放り投げた。 とっさにキャッチしたものの、も猫も驚きで目が丸くなる。 「わわっ!何すんのよ!」 「俺を望むんなら、、お前が『永遠の出口』になれ。」 「・・・・・。」 なりたい。 なれるだろうか。 彼の悠久の時の終着点に。 は猫をそっと地面に下ろすと、グリードへと歩み寄った。 その瞳を真っ直ぐに見つめて、ごく自然に微笑む。 陽射しが眩しい。 露出した肌がじりじりと焼けてゆく。 「貴方が好きよ、グリード。」 「そうか。」 ――出口を探して、終わらない旅へ出かけよう。 |