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 景時の屋敷の裏手には小さな丘がある。今の季節、そこはススキがなみなみと揺れてまるで金色の海だった。
 ヒノエはそこを駆け抜ける。彼の赤い髪は一面の金色の中で、自分でも分かるほどに浮いていたけれど、気にもとめずにそのまま通り抜ける。
 この眩暈のしそうな一色の景色がヒノエは好きだった。まるで海のようだった。鎌倉の街も十分に、それこそ本宮大社などよりもよほど海沿いなのだから、本物を見に行けばよかったのかもしれないけれど、ヒノエにとっては何故かこちらの方が熊野を思い出すものだった。
 そのまま屋敷の裏手に辿りつくと、梶原家の生垣を行儀悪く乗り越え、庭に飛び込む。さっきまでの無造作な一面とは別の、手入れされた美が広がる。この境界を見るのも好きだったから、こんなことをするのかもしれなかった。
 だから、他の……たとえば今、眼前の、簡素にまとまった庭の中をひらひらと目立つ黒い衣を翻しながら叔父が通りかかったことなどは、ただの偶然。
「あ」
 だから、用があった訳でもないのに、ヒノエは思わず立ち止まってしまった。けれど叔父の方は、こちらに気付いた風もなく、遠くを見たままするすると立ち去ろうとする。
「……おい」
 その前に、呼びとめた。叔父は愚鈍じゃない、気配にも敏い。だからこちらに気付いているはずなのに、知らぬふりで立ち去ろうとする彼を……、少なくともヒノエは無視するなんて気持ち悪かったから声をかけた。でも相手はそうでもなかったようで、声をかけられてもなおこちらに全く構うことなく進んでゆく。
「ちょっと待てよ」
 育ちが疑われるってものだ。ヒノエはつっかかるように彼の肩を掴んだ。ただ彼を振り向かせたかっただけにしては大袈裟に、
すると刹那、ぐらり、と体が揺れる。
「あ」
 膝のあたりに何かが当たり、景色がくるりと反転。直後、闇。その上どすりと腰を打った。
 おまけに息吐く間もなく腹に衝撃。
「っく!」
「ヒノエ?」
 むせながら痛みに顔を歪ませると、目の前、もとい、ヒノエの上に黒と黄の叔父がいた。
 けれど一体なにか起こったのかさっぱり分からなくて、黙ったままヒノエはまずあたりを見回す。
 周囲にぐるり、一周分の壁。天を見ると、黒くそびえる視界の中、切り取られたような青色は、まるで丸い蓋のようにそこにあった。
 ……ああ、どうやらここは古井戸の中。
「落ちましたか」
「ああ」
 確かに少し腹を立てていたので、強めに引っ張りはしたものの……だからといって、まさかこんな、大の男ふたりですっぽりと古井戸に落ちる羽目になるとは。
「……困りましたね」
 挙句、よりにもよって今この屋敷には人気がない。九郎と景時は屋敷の人間ごとどこかに行ってしまったし、望美たちも久しぶりの鎌倉観光だとはしゃいで出かけていった。強いて言うなら景時の母やその侍女たちはいる筈だが、ここは屋敷の中でも相当端なので、気付いてくれると期待するもむなしい。
「ったく、どうしろっていうんだよ」
 悪態をついたところでようやく弁慶がゆっくりとヒノエの上から降りた。距離は離れ、腹への圧迫もなくなったが、それでも近い。この井戸は広い方で、だからこそ二人とも無事だったのだけれど……それでも直径半尺と幾許かの密室は息苦しさを呼ぶ。
 こんな距離感、今更なはずなのに。窮屈に、ヒノエは目を反らして上を見た。
 あった筈の屋根はもう朽ちてしまって、今はひとつ残った梁の向こうにまっすぐ薄雲かかった秋空が見える。距離はそんなに遠くない。
「あんた、肩貸せよ、昇れるんじゃね?」
「そうですね」
 もしかしたら断られるかもしれない、と思ったが、叔父上は意外な程あっさりとヒノエの言葉に従い立ち上がる。ヒノエもぱたぱたと土埃を払いながらならった。
 助走できればよかったがそれまでの距離はない。担がれる形から両肩の上に立ち、ヒノエは手を上に伸ばす、が、届かない。もう少し、思い、弁慶の肩を蹴り跳ねてもギリギリのところで届かずに、
代わりにずるずると壁に爪を立てながらヒノエは弁慶もろとも落下した。
「痛っ」
「いって……」
「駄目そうですね」
「ああ」
 ヒノエは体を起こそうとしたが、顔をしかめ動きを止めてしまった。打ったところも地味に痛いが、地面についた指先がひどく痛い。ちらりと見たら、血が出ていた。結構深刻に抉れている。
 どうしたものかと顔を上げたところで弁慶と目が合った。少し心配そうな顔をしているように見えた。とっさになんでもないふりをして、
「……姫君たちが帰ってくるの、夕暮れだろうな。それまでこのままってことか」
 わざとらしく溜息をつく。
「みなさんが気付いてくれればいいですけど」
「姫君なら探してくれるよ」
「どうでしょうか。君も僕も、日頃からよく姿を消してますからね。気付いてくれないかもしれない」
「……」
 叔父は軽口めいて言葉を乗せた。冗談だろうが、なまじ笑い飛ばせない妙な現実味がある。
 嫌な事を言う、思いつつ見れば、彼は声音と似たように笑っていたが、それは口元だけで、瞳の奥は刺すようにヒノエを見ていた。
「いつまで二人きりでいることになるのかな?」
「……やめろよ」
 乾いた印象。ヒノエもざっくりと返した。
 こんなときでも変わらない。自分も、叔父も。こんなに狭い場所にいるっていうのに、本心など見せぬと牽制しあうかの如く、互いにそれぞれの方向で溜息を殺す。

 さて、いつからこんな感じになったのか。陰湿そうな相手はどうだか知らないが、少なくともヒノエは覚えていない。
 最初はただの叔父だった。とはいえ向こうが幼い頃に比叡に預けられそれきり熊野に住んだことはなかったから、ヒノエともそう面識があったわけではない。けれどその妙な美貌や、なにより掴みどころのないこんな性格を、幼いヒノエは覚えていた。
 覚えていたからこそ、春に八葉として再会した時には驚いた。遊び半分で挑発してみたら、彼は乗ってきた。それから何度か体を重ねた。そんな関係。ヒノエにとってはありふれた遊び相手。
 『僕は君に束縛されませんよ』と最初に彼が宣言した言葉通りの、『オレだってあんたひとりにかまけるほど酔狂じゃないし?』と、強がりでもなんでもなく、本音でヒノエも言った、それだけの相手。そのはずだった。
 だから、
「ヒノエ」
「なに?」
と、彼が自分を呼び、その唇が言葉を紡ぐことなくヒノエの頬をかすめるなど、それこそ今にはじまることではないし、……動揺するなんてもっての他なのに、
「なっ」
何をこんなところで。不意打ちに、ヒノエは驚き思わず身を離したが、腹が痛んで顔をしかめてしまった。
「待てよ、」
 それを隠すよう顔を覆おうとするけれど、今度は風切る指先がしびれて、動きを止めてしまう。隙だらけの顔前に容易く叔父上は迫った。けれど彼は目と鼻の先で止まり、無駄に深刻な顔で、
「君の気を紛らわせようかと思って」
……と、言った。
 ヒノエは今度こそ、痛みを蹴散らし叔父を突き飛ばした。しらじらしいにも程がある。
「普通、そう思うなら口にしないんじゃねえの?」
「そうですね」
 睨むと、叔父はふいと上を向いて、それきり言葉を閉ざした。

 八葉の中では誰より近しい、けれど心まで近いと思ったことはなかった、最も、ヒノエはそれを気にする性格ではなかったが、
ぼんやりと、なおも上ばかりみている叔父を見る。……それこそ、解りやすい、随分彼らしくない振る舞いで、
「時間が惜しいの?」
しばらくの後、問えば、
「ええそうですね」
やはり彼はさらりと答えた。……そのくせ、言ってからはっとした顔でこちらを振り返り、挙句、形だけ申しわけなさそうに、
「……君といると、どうも本音がでてしまうようですね」
と、フォローにもならないことを口にした。むしろ突き放している。そもそも『そうですね』と言った彼の言葉が心ここにあらずなのからして、ヒノエにとっては明白な事実。
 彼はここにいたくない。
 ……オレは案外楽しいけどね。そんな本音を口にするのも悔しくて、飲み込んだ。
 叔父の行動は、裏さえ知らなければ……九郎や望美のように、見ることができぬほどに愚鈍、もしくは純真ならば、あんなに優しいのに、それは偽りだと白状されても、ヒノエは全く喜べなかった。
 膝を抱えて黙り込む。あくまで冷徹な叔父とは裏腹に、今このふたりきりの空間はヒノエに優しい。静かに天を仰ぎ続けている横顔は冷たいのに、かすかに差し込む光が鈍い髪色をきらきらと彩るからどうしもうもなく綺麗で、なんだか泣きそうになる。……止めどない痛みのせいで弱っているのかもしれない、拒絶されて、指先も痛んで仕方がないというのに、こうして二人きり、隔離された中で彼を見ていたいと、そんな感情が脳裏をかすめた。
「無力なものですね。源氏の軍師と熊野の別当がこんなところで飢え死になんてしたらとんだお笑い草だ」
 ふいに、叔父がこちらを振り返った。そうしてヒノエはずっと自分が彼を見つめていたことに気がついたけれど、今更目をそむけるのも白々しい。
「八葉も解散だね」
 だから跳ねのけるようににさらりと笑みを返すと、全くの無表情、淡々としたままで、けれど口元だけは微笑んだ彼が言った。
「別の可能性もありますよ」
「へえ、例えば?」
「今この瞬間、穢れが全てを覆い、外の世界が泥沼のように腐りおちていたとしても、僕たちは気付くことはできない」
 そうしたら、世界に二人きり。今更そんなことを言った。
 けれど、そんなたった一言でヒノエの心は浮き立った。
「そうしたら、僕たちも手を取り合っていくしかないのかな?」
 にこり、と綺麗に笑う。それだけで息が詰まった。
 あまりにバカげた仮定などどうでもいいと思ったし、そもそも彼の本心ではなく、ヒノエの喜びそうなことを口にしただけなんだろうなと思った。だというのに……違いないのに、こちらを見てくれる言葉に胸が詰まった。
「随分と物騒な事を言ってくれるね」
 ああ、とことん自分は彼に惚れている。最初はこんなつもりじゃなかったのに、いつの間にこんなにも、夢中になってしまったのだろう……それこそ今の状況に似ている。不意打ちで、うっかりと深い井戸の中に落ちてしまった現状に。
 けれど、目の前の黒い叔父はそんなヒノエの喉元に刃を突き刺すように、今までと裏腹、一転して気軽な声音で言った。
「ええ、言ってみただけですから」
「……」
 言葉と共に、彼はまた青を見上げる。
「君はそんなの嬉しくないでしょう?」
 うす暗い中で髪は淡い光を帯び、揺らぐことない表情は真冬の月。まるで手をのばしたら指が爛れそうなほどで、
代わりにヒノエの心が焼けた。
 たとえ本心じゃなくたって叔父が随分と夢うつつなことを言ってくれたのは嬉しかった、ヒノエに優しくしてくれたのも嬉しかった。けれど、そう、
まさにその通りだったのだ。そんなのちっちもヒノエの望む状況なんかじゃなく、
見透かされて、なのにこんなにも冷たい彼にいよいよヒノエは、ぎゅっと、痛む指を気にせず掌を握りしめる。
「……そう? たまにならいいんじゃない?」
「強がってみせても可愛くないですよ」
 だったら何故、そんなことを言ったんだ!? そのまま彼に掴みかかりたかった。
 けれど、ヒノエの予想と反して、さっきまでただ上を見ているだけだった叔父がいきなり立ち上がったから、伸ばしかけた腕が止まった。
 そして彼はやはり唐突に、いつも被っている黒の衣をするりと脱ぎ、
「……何?」
冷たいままの声で言う。
「ヒノエ、君の事だから、短刀の一本くらい持ってるでしょう? 貸してくれませんか? できるだけ大きなものを」
 罵りの言葉は未だ喉の奥でくすぶっていた。それでも、見下ろす姿に不覚にも気押されたヒノエは、無言で背中にさしていたものをひとつ弁慶に渡す。
 受け取った叔父は、それを握り、ためらいもなく黒衣を真ん中から裂いた。
「!」
 ふたつになったものを、更にもう半分。長さが四倍になった布を、弁慶はしっかりと結ぶと、その先にヒノエの短刀を結び付けて上に投げる。器用にもそれはくるりと、滑車がかかっていたのであろう梁の残骸の上を通り、またこちらに落ちてきた。
「君の方が軽いでしょうから」
 そこから短刀を外し、かわりに弁慶は勝手にヒノエの腰に結びつける。そしてもう一端をぐい、と下に引っ張った。両足が浮かぶ。危なげに上下しつつも、弁慶が衣を引っ張ると同時に、着実にヒノエの体は昇っていって、とうとう地面よりも上に辿りついた。
「止めて」
 言い、痛む指で梁を掴み、勢いつけてひょいと飛び降りた。井戸の底にいたのなんてほんの刹那だっただろうに、やけに陽の光がまぶしくて眩暈がした。けれどヒノエは目を細めつつも、懸命に弁慶の結んだ衣を解く。
「今度はあんたの番!」
 そして目についた、朽ちかけた柱にも衣をひっかけ、
「準備いい?」
「お願いします」
合図を聞いて、引っ張った。指のせいで思ったより力が入らなかったが、それでもなんとか、弁慶は井戸の淵から頭をのぞかせ這い上がってきた。
 見届けたと同時に力が抜けて、ヒノエはどかりと古井戸の隣に腰をおろしてしまった。
「……散々な目にあった」
 けれど、その手を、昇ってきたばかりの叔父がいきなり掴む。
「まだですよ」
 そのまま彼はぐいぐいとヒノエを引っ張ってゆく。
「離せよ」
 口答えしても弁慶は何も言わず、そうこうしているうちに着いた先は、彼の荷のある部屋だった。
「座って」
 言われたとおりにすると、弁慶はどこかへ消えたが、手桶と手拭いと共に直ぐに戻ってきた。
 ああ、やはり彼は知っていたんだ。こういう抜け目のなさがヒノエは時として憎たらしかった。上手だということを突きつけられるようだったからだ。
 弁慶は無言のままにヒノエの手を掴み、がしがしと洗いはじめた。
「痛っ」
 固まりかけていた血が落ちて、砂もおちる。丁寧に手拭いで水分を拭き取った後、薬を塗り込み包帯を巻いた。4本もの指に処置したというのにあっという間だった。
 手際のよさは本物だ。見とれていたら、彼はなおも言う。
「次は服を脱いでください」
「……」
 背中を打っていたのもお見通しだったのか。ヒノエは弁慶を見上げてしまった。
 彼は井戸の中と変わらずまっすぐに、睨むようにヒノエを見ていたけど、それはさっきまでと違って冷たさよりは悲しさを含んでいるように見えて、何故か胸が痛んだ。何故か罪悪を感じた。
 その視線を受けつつ、上着を脱いでゆく。自分と彼の間なら今更の行為、なのに今までになく寒々しかった。
 無言のヒノエを、無言で薬師も手当てした。やはりあっという間にそれは終わって、
「もういいですよ」
言葉に、ヒノエは立ち上がりながら服を纏い、全てが終わった。
 だったら言うべき言葉があった。礼を言わなければならなかった。
 けれどヒノエはどうしても口にできなかった。
「……」
 対する弁慶は、さっきまでよりは少し気が抜けた風にヒノエを見上げていた。
 言うなれば、傷ついたという顔をして。
「……あんたのせいじゃないだろ」
 多分、目の前の男はそんなことを考えている訳じゃない、分かっているのに口にしていた。
「あれは、オレのせいだ」
 なのに言うと、ますます傷ついたような顔をした。見てられなくて、ヒノエは今度こそその胸倉を掴んで引き上げる。
「なんでそんな顔するんだよ」
「傷ついているようにみえますか」
「ああ、見える」
「だったらそれは」
 さらりと風が通り抜ける。黒衣がないものだからむき出しの肩が寒々しく、鈍い色の髪が揺れる様はまるで通り抜けてきた庭のような、質素で、空虚な。
「…………ほら、ヒノエ、手を離しなさい。手当したのが無駄になってしまう」
 けれど弁慶はそうとだけしか言わなかった。かわりにゆっくりと、ヒノエの掴んだ指をひとつひとつはがしてゆく。
 それにヒノエはいよいよ立ち尽くした。
「……なんだよ」
 さっきまであれだけ散々、ぼろぼろと余計なことばかり言っていたくせに、つい本音を口にしてしまうって言っていた癖に、今更黙るのか? その上傷ついた顔までしてみせるのか……どうでもいいくせに!?
 もう強がってなどいられなかった。たまらずに、ヒノエは彼に背を向け駆けだした。
 心まで欲しくないなんて完全に過去の話だ、じゃなかったら彼の拒絶がこんなに憎々しいわけがなかった。

 躍り出た庭は綺麗で、外ではすすきが金色に揺れていた。
 その中に不釣り合いに揺れるは、井戸にひっかかったままの叔父の黒の衣。
 ヒノエはそれをひっぱった。途中、逆立った木目にひっかかったけど、夢中で引き寄せた。集めたそれを、井戸の中に放り込もうと思って、やめた。
 ずっと上ばかり見ていた叔父の姿が過ったからだ。
 ヒノエの怪我のことなどお見通しだった薬師が、ここから脱出する方法など、最初から気付いていたに違いない軍師が……それなのに、井戸の底で大人しく上だけを見ていた彼の姿がよぎってしまったからだ。
『君はそんなの嬉しくないでしょう?』
 ……本当、散々余計なことしか言ってなかった癖に、今更察しろって言われても、そんなの。
 衣を握りしめていた指先が痛んだ。
「……可愛げのない」
 つぶやいた言葉は闇深くに落ちた。
 反響をしばらく見送った後、ヒノエは唇を噛みしめながら、蓋がわりに使っていたのだろう、隣に転がっていた板を井戸の上にゆっくりと置き、
黒の衣は抱えたまま生垣を越え、また金のススキの海を通り街へと消えていった。






(15/07/2009-13/10/2009)



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