弁慶は生まれこそ熊野であったけれど、物心ついた頃にはもう比叡に預けられていたものから、そこで過ごした時間はごく少なく、それゆえに、幼いころから自分はそこにいてはいけないのだろうと感じていた彼はますます熊野へ近づかなくなった。比叡を出てからも丁度いいと九郎にくっついて平泉にいったり鎌倉に行ったりしていたので、熊野出身だなんてただの形式でしかないと思っていた。
そんな彼が一番熊野に滞在していたのは、おそらく三年ほど前の、京の龍脈を呪詛した直後の事だろう。
大がかりな呪詛は体力を奪った。けれど、九郎には何も言わずに来ていた彼はそのまま鎌倉へ帰るわけにもいかなかったし、今までのように京に身を潜める訳にもいかなかった。
だったら気は進まなくも熊野に身をひそめるしかもう方法はなかった。
けれど彼が予期していた通り、熊野では全く歓迎されなかった。唯一兄とその家族だけが「こういう時だけ熊野を利用するのか」と、言葉は辛辣ながらも笑顔で彼を迎え入れた。
それは弁慶にはまるで、今まで追放していた分の補いのようにも感じられたけれど、弱り果てていた彼は素直にそれに感謝することにした。
そこでの時は穏やかだった。療養している間、ほとんど誰も弁慶の傍に近づかなかったからだ。
が、唯一彼の平穏を乱していたのが甥だった。
会うのは何度目だったろうか? 八つ下の彼に最後に会った時は弁慶の腹ほどの背丈だった記憶があるが、今はもう肩あたりまでに伸びていた。
ヒノエと呼ばれた彼は、姉ばかりに囲まれ育っていたせいと、それに大切な友人が京へ戻ってしまって以来、暇を持て余していたという話で、外からやってきたという叔父に興味を示し、弁慶のところによく転がり込んでくるようになった。それでも最初は弁慶もとりあうことはなかったけれど、随分と口が達者な子供だったから、つい手加減を忘れ言い負かしているうちに、ヒノエは無邪気に懐いた。
その様を見ていれば、彼がどんなに兄たちに愛され育てられたのか手に取るようだった。可愛い甥は、彼の友人を窮地に追いやってきたばかりの弁慶を疑うことなく、言葉を交わすのを楽しみ、彼の知識に興味を示した。
ヒノエはたくさんの物事を既に知っていたけれど、本を読んでいて疑問に思っていたことなどを片っぱしから弁慶に尋ねる。口も回るが頭の回転も速い子で、そんな彼に物事を教えるのは楽しくて、日替わりでどこかから本を持って来てはこれはなんだあれはなんだと問う彼に弁慶は色々な事を教えた。
特に教えたのは京の街の事だ。ヒノエは幼いながらに既に熊野の街にとても興味を示していて、熊野を一番の街にしたいんだとあちこちの街の話を弁慶にねだった。京や、鎌倉、奈良、平泉、北陸など、彼が見てきたあちこちを語って聞かせると、ヒノエは目を輝かせたものだった。
御仏についても、薬についても教えてみたが、ヒノエはそれらには一切見向きもしなかった。興味のあることとないことの判断が早い子で、兄には「あいつは口ばかりますます上手くなった」と批難されたが、ますます弁慶は彼に教えるのが楽しかった。
よく褒めもした。その時には大抵頭を撫でた。最初にそうしたのは無意識だったけれど、手をのばしてすぐにしまったと思った、子供扱いを叱られると思ったのだ。なのに予想に反してヒノエは何も言わなかった。彼の髪をくしゃりとするのは心地よかったから、弁慶もそれを言い訳にさせてもらうことにした。
驚くべきことに、ヒノエは教わるだけではとどまらず、お礼だからと弁慶にも熊野を案内してまわった。
熊野の事を何も知らない弁慶が、まるで熊野詣のようだったと礼を言うと、知らなかったヒノエはとても驚いた。そして「ここに住めばもっと案内してあげられるのに」と、大きな目で弁慶を見上げて言った。
「気持ちだけ受け取っておきますよ」と弁慶が笑って返すと、ヒノエはどうして、と言いたそうに表情を曇らせ、でも何もいうことはなく俯いた。
その後に始まったのがヒノエによる詮索だった。
もともと弁慶がどこでなにをしているのかということを気にしていた風だったけれど、弁慶は一切を彼には教えていなかった。兄には全て話してはあるが、源氏の御曹司の友人という立場は現状では熊野に利を生まない。ゆえにヒノエには教えたくはなくて、その度に流れの薬師なのだと嘘をついてきたが、彼はどうしてか誤魔化されなかった。知りすぎると足をとられるということを知っている子だけれど、それよりなおも自分に自信があるのだ、
だから、帰る時は本当に大変だった。
すっかり気に入られていた弁慶は、まず、行くな、とごねられた。とはいえあらゆる状況がそれを許さないのが現状、行かなければならない、と返せば今度は、熊野にいるのが辛いのかと、いつか街で見せた顔で問われた。
弁慶はにこりと微笑んで、そうです、と肯定した。するとヒノエは、そんなの俺がどうにかすると、胸を張って言いきった。僕は君に何もしてあげられません、と返しても、どうして何かを貰う必要があるのかと、何かをするのはオレの役割だろう? と、これまた当たり前のように返してきた。
必死な様子は健気で、こんな子に育てた兄を羨ましく思ったし、また、もしかしたら彼の熊野で過ごす運命があったのかもしれないと思えば、弁慶はおそらくはじめて、熊野との縁を断たれたこれまでのこと、幼くしてここを出た我が身を哀れとも思った。
それほどに、弁慶は彼の将来を気にかけた。きっと熊野を継ぐのだろう彼を横で見守ることができたならばどんなに楽しいだろうと思った。だってとうとう最後までヒノエは弁慶を諦めることはなかったのだ。
結局、ある曇った日の夜、弁慶はまるで逃げるようにひとりきり闇にまぎれそこを去った。
それからも熊野には数回行ったけれど、彼にまみえることはなかった。
なのに、今。
熊野へ向かうと九郎が言った時には嫌な予感はしたものの……まさか三年ぶりにヒノエと再会するとは、しかも八葉として行動を共にすることになろうとは、さすがの弁慶も予測していなかった。
「……君は」
絶句してしまった弁慶に、ヒノエは
「ああ、あんたもいたんだ……久しぶりだね」
と、勝気な笑顔でさらりと言った。
面影はあった、けれどそうしてみせる表情やどこか艶やかな言葉使い、それは弁慶の知っている子供では既にない。
あんなに行くなと駄々をこねたことなど忘れたのだろうか、素知らぬ振りでこちらと対等だと口を聞き、出会ったばかりの神子を口説いては悪戯に笑っている。
「ん、弁慶、どうかしたの〜?」
「ああ、いや……ちょっとした知り合いなんで、驚いただけですよ」
風の噂に熊野の新しい別当は先代に負けぬ程のやり手だと聞いていた。
そんな彼に弁慶は、なにも、本当に全く何も言えずに、ただ景時に微笑んで、少し遠巻きにヒノエを見つめた。
(15/02/2009-17/02/2009)