ヒノエがあっつんの現状をどこまで知ってるのかは願望
「そう、あなたは八葉、天の玄武」
と、敦盛のような者でも分かるほどに神々しい気を宿した子供が言った。
「私が……八葉?」
敦盛は驚いた、驚いて、それ以上の言葉が浮かんでこなかった。
「そうですよ、よろしくお願いしますね、敦盛さん」
八葉といえば伝説の、京を穢れから救うという、というところまで考えが至ったのも、目の前の神子と呼ばれた少女が、子供と同じように嬉しそうに微笑んでからで、
それに敦盛は再び言葉を失った。
彼女の笑顔は本当に眩しくて、まっすぐ見つめ返すことができたのは多分、敦盛があまりにも動転していたからだろう。
我に返り、無礼なことをしたと慌ててあたりを見回すと、彼女の仲間たちも皆一様に敦盛を見ていた。
神子の背後で弓を背負った少年と穏やかそうな女性は微笑んでいたし、その隣の、伝承に残る鬼のような風貌の人は全く表情を変えていなかった。
反対側には、戦に疎い敦盛でも名を知る源氏の重鎮、総大将と戦奉行が当然といえば当然、釈然としないといった面持ちでいた。敵である平家の貴族が仲間になるのだから仕方がないだろうが、彼らもまた、敦盛を仲間に、と言った神子や子供の言葉に反論することはなかった。
どうして自分が八葉なのだろう? 知らぬ面々に囲まれ敦盛の心はどんどんと疑念や不安で埋まってゆくようだったけれど、
「私で……あなたの役に立つのなら」
頷いて、最後にヒノエを見た。
ひどく狼狽した顔をしていた。
きっと案じてくれているのだろう、幼馴染であり、また、たくさんの烏を有する熊野の別当となったというヒノエは、敦盛が密かに彼の正体を知っているように、きっとこちらの正体も知っている。
敦盛はもうこの世のものではないということを。
こうして突如、敦盛は、昨日まで戦っていた筈の源氏側に与する形で、神子と共に京で暮らすこととなったが、それでもなお、敦盛は自分が八葉だと全く信じられずにいた。
神子や白龍だという子供を疑いたい訳ではない、けれど、八葉は神子を助けるものだ、そして神子とは怨霊を封印するものだ。彼女を守る中に怨霊自体がいるというのは、信じがたい。
それを知ったら、神子はどうするのだろう? 戸惑いつつも、敦盛は何も言えなかった。
ヒノエも彼らには何も言わなかったようだ。詳しい事も尋ねてこなかった、ただ、大丈夫なのか?とだけ心配そうに聞いてくれた。そういうところは昔から変わっておらず、懐かしく、胸が痛んだ。
……だが、敦盛が怨霊であることを知っているのは二人だけではない。
清盛に近いものならば知っている事だ、そして戦が続けば、間違いなく彼らとまみえるだろう、戦場で事実が知れたら混乱は必至、神子に、ヒノエに迷惑をかけるかもしれない。
するといよいよ敦盛は、ここにいてはいけないのではないかという気がしてきて、ただ、それこそ死人と何も変わらぬような虚ろさのまま、京の梶原邸の片隅で賑やかな神子たちを、入れ替わりやってくる源氏の武士たちを、空を行く鳥を、落ちる葉を眺めて過ごしていた。
けれど、本当は最初から、敦盛が怨霊であることが露呈するなど、時間の問題だったのだ。
怨霊は人の身と大きく異なる。人から離れた力を普段から有し、夜中突如苦しむこともある。なにより、行けない場所だってある。
だから、神子や九郎が熊野の本宮大社へ向かうと決めた時、敦盛は、その時が来たことを悟った。怨霊として短くはない時を過ごしてきた敦盛はそこへ入れないことを知っていた。
熊野への道中の景色はとても美しかった。初夏の山は緑に覆われて、時々、木々の向こうに青が見えた。福原でも海は見たけれど、熊野の海は特別で、とても青く、大きく見えた。
八葉は賑やかに熊野路を辿る。神子やヒノエの笑い声は絶えず、朔や譲もそれに加わり、呆れた風な九郎の声に、ますます神子は笑う。
清浄な地は敦盛を癒す。けれど、心は少しも晴れはしない。
途中で還内府である将臣と再会した。互いに秘密を持つ間柄である彼は、人影がない時などに敦盛に大丈夫だと屈託なく笑ってくれたから、随分と救われたが、不安が完全に消えることはなかった。
知れたら、きっと自分は封印されるのだろう。
幾度となく見た、平家の罪を清める神子の封印の光は、美しかった。
あれが浄土というものなのだろうか、この世の何にも勝る、例えるならば秋の満月のような優しく、遠い光だ。あれに包まれることは、今の敦盛にとって途方もない至福のように思えた。
ただ、自分のこの身のせいで八葉が欠け、神子が力を失い傷つくことや、敦盛たちのせいで傾いた京を救えないことばかりが気がかりだった。
知略に長けたわけでもない、剣が強いわけでもない。八葉としても何も出来ぬというのに、どうしてあんなに清らかな神子に対して自分は裏切るような真似をしているのだろう。
不安や罪悪はまるで、自分と似た怨霊によって荒らされていた熊野川のようにどんよりと敦盛の中で渦巻いて、怨霊を討ち倒しても敦盛の中で消えることはなかった。
川が晴れ、熊野に平穏が戻った事が敦盛は本当に嬉しかったのに、心の淀みは増す一方で、さあ明日はいよいよ本宮へ、となった夜はいよいよ寝付けなくなってしまった。
宿の部屋を一人抜け出し、長い長い廊下で、今は遠く感じる熊野の夜風を身に受けながら、遠く梟が鳴くのを聞いていたら、ひょいと闇の中からヒノエが現れた。
「敦盛、大丈夫か……?」
「ヒノエ……?」
ひょい、と、まるで鳥のように現れたヒノエは、音もなく敦盛の隣にひょいと腰を降ろすけれど、
「私は平気だ、ヒノエこそ」
敦盛は彼の事も心配だった。
皆には隠しているが、彼こそが九郎が今求めている熊野別当なのだから、憂う事柄だってあるのではないか?
けれど、ヒノエは昔と変わらぬ風に笑った。
「オレは大丈夫だと思う。こういうの何回かあったし、それに、……今回はどうやらあいつも熊野の意向を汲んでくれてるみたいだし」
「……弁慶殿のことか?」
「ああ、ここまで黙って着いてきたんだ、まさか、今更源氏につかなきゃどうこうって脅してくるほど、下手な手は打ってこないだろ、だったら後はオレが判断するだけさ」
「そうか」
ヒノエは軽く言ったけれど、複雑な顔をしていた。彼もまた、決めたのだろう。ならば敦盛も不安な顔ばかりしてはいられないだろう。
「……私は、明日、きっと結界の中に入れないと思う」
「そうか」
「だから、その手前で待っている。……それでいいか?」
思っていたことを口にすると、ヒノエは笑ってくれた。
「分かった。お前がそうしたいならそれでいい。あいつらは適当にごまかしておくよ、九郎と姫君さえ押さえちまえば残りの連中はどうにかなるだろ」
「ありがとう」
昔と変わらず接してくれる優しい彼を巻き込んでしまうことで心が痛んだけれど、言葉にしたら、少し楽になったように思えた。
朝が来た。
旅路は順調、相変わらず明るい神子と朔を先頭に、誰もが急ぎ足で本宮大社へと向かう。
昔、ヒノエとよく駆け巡った景色は記憶とあまり変わっていなかった。
「敦盛さん? どうしました?」
足をとめた敦盛に、神子が振り返った。
「すまない、少し懐かしくて」
「あっそういえば敦盛さん、熊野にいたことがあるって言ってましたもんね」
「へえ〜、じゃあヒノエくんとは幼馴染ってことになるのかな?」
「そうなる」
「意外ですね、全然似てないのに」
「お前と姫君だって全然似てないだろ」
天地の白虎に言葉を返しながらも、けれど敦盛の視線は一本の大木へ向かう。幼い頃の敦盛が力強さに憧憬を抱いた、御神木でもある樫の木だった。
それは、社を囲む結界の一端となっている。……ここまでだ、敦盛は意を決して口にした。
「神子、すまない、私はこれ以上進むことができない」
「えっ、いきなりどうしたんですか敦盛さん、昔木登りして怒られたから出入り禁止になっちゃったとか?」
「それは兄さんと先輩だけです」
「望美、お前そんなことをしていたのか!?」
「え、やだなあ昔のことですよ九郎さん! だから敦盛さんも気にせず一緒に行きましょうよ、ね!」
彼女は笑顔で敦盛を呼ぶ。……どうして自分が、こんな清らかな神子の八葉になってしまったのだろう。敦盛は一歩、二歩と大社の方に歩み寄り、虚空へ手を差し伸べる。
指先にばちり、と稲妻が走った。皆の視線が弾けるように敦盛に集まった。
「敦盛さん……?」
「私はもうここへ行くことができない汚れた存在だ。神子は私に構わず先に進んでくれ」
「敦盛、どうして……」
「大丈夫だ、私は静かなところが好きだし、熊野にも慣れている」
悲しそうな神子と共に、皆は一様に困った顔をして、立ち止まってしまった。
それを打破してくれたのはやはりヒノエだった。
「敦盛、だったら、昔登った海老岩の前で待ってろよ」
「分かった」
結局ヒノエに頼ってしまったが、彼の明るい言葉に、景時や弁慶も何も聞かずに笑ってくれた。
「ほんと、ごめんね敦盛くん」
「迷惑かけますが、行ってきますね。さあ、九郎……九郎?」
だというのに、
「……どうしても一緒にいけないの?」
神子はまっすぐ敦盛を見ていた。
「そうだ、どうにかできるかもしれないぞ?」
九郎までもが神子に習うと、譲たちまで声を合わせ言う。
「こんな山の中だからな、いくら慣れているとはいえ、夜になったら危ないし」
「ええ、怨霊や、獣が集まってきたら心配だわ」
「八葉は一緒にいた方がいいよ、敦盛」
敦盛はそれに困惑した。けれど思えば当然のことだった。彼女は優しい、闇雲に、仲間を置いていったりする筈がない。
けれどそれは敦盛を追いつめる。どうしたって彼が共にゆく事はできないのに。
……いよいよ全てを明かすしかないのだろうか?
「あのさあ九郎、お前急いで熊野の頭に会わなくていい訳?」
「さんざん足止めを食らったんだ、今更少しくらい遅れても、兄上は寛大だから許してくださるだろう」
「ふーん、でもさ、その間に平家の手の奴が熊野別当に会ってる、とか、少しは思わない訳?」
「そっ、それはそうだが……」
「その通りだ、だから私は置いていってほしい」
二人がそう言っても、九郎も、誰も動かない。
「それでも、敦盛さん一人だけおいてゆくわけにはいきません。何か方法を探しましょう」
あくまでも譲らないという態度の神子に、敦盛は本当に困り果ててしまう。こんな風に騒がせてしまうなど、やはり敦盛は八葉としてふさわしくないのだろう。
このままここで、誰の手を煩わせることなく消えてしまいたい。俯き、真実を口にしようとしたその時、
「なにか心当たりはないか?」
と九郎に問われた景時が、ふうと息を吐く気配がした。
「そうだね……敦盛くん、旅の途中で何か穢れにでもあたっちゃったのかな?」
言葉に、おずおずと顔をあげると、何故か彼は笑っていた。安心して、と言いたそうな表情で、
「だったらさ、先代の地の玄武がやった方法を試してみたらいいんじゃないかな?」
「先代、ですか?」
「そうだよ、望美ちゃん。先代は、京の気を探るとき、神子の力を借りたんだってさ。その時神子の手を握ることで清らかな気を分けて貰ったんだって」
「手を握ればいいんですね!」
ただ驚くことしかできない敦盛の前で、景時がすらすらと説明してしまうと、皆の顔が輝いた。特に真剣な顔で近づいてくる神子に、敦盛は慌ててしまう。
「いや、神子、私に触れては……」
神子に触れるなどあってはならないことだった。それに、恐らく敦盛の正体に気がついた、陰陽師であり源氏の戦奉行でもある景時が、敦盛に優しいことを言うのが分からなかったのだ。
「景時殿、どうして……」
「どうしてって、仲間だろう?」
片目をつぶって言う彼に、白龍も明るい声をあげる。
「そうだ敦盛、八葉は絆で結ばれている。それに、私の神子がいれば穢れなどすぐに清めることができるよ」
「そうなの? 白龍」
「そういえば、以前の龍神の神子は、触れただけで呪詛を払うこともできるって聞いたことがあるわ……私にはできなかったけれど、望美なら本当にできるかもしれない」
その話は敦盛も聞いたことがあった、けれど穢れと怨霊は全く違うと思う。だから、
「……敦盛さん、手、つないでみましょうよ」
神子がそう言ってその白く細い手をこちらに差し伸べてきても、敦盛は握り返すことはできなかった。
恐ろしかった。何が起こるかわからなかったからだ。
清らかな彼女に穢れが移るかもしれないことも、敦盛の本性が露呈してしまうことも、また……消えてしまうかもしれないことも。その全てが彼女をきっと悲しませるだろう、傷つけるだろう。なにもできない敦盛はせめて彼女に傷を負わせることだけはしたくなかった。
敦盛は、そのてのひらを、神子の笑顔をただ、見つめて、どうすれば神子を説得できるかを考えた。
そんな彼に静かな声でリズヴァーンが言う。
「敦盛……お前がここにいることには必ず意味がある、自信を持ちなさい」
「先生……」
彼は、リズヴァーンはいつも敦盛の背を後押ししてくれる。その彼の優しさに報いたい、それに神子の笑顔にも応えたい。
……構わないのだろうか? 敦盛はじっと神子の手を見つめる。すると今まで何も言わなかった弁慶が、神子の隣で穏やかに笑った。
「きっと大丈夫ですよ。では、こういうのはどうですか? 敦盛くんが望美さんの右手をとって、僕が望美さんの左手をとりましょう」
「弁慶さん!?」
「おい、どさくさにまぎれて何言ってんだよ」
「ヒノエには敦盛くんの右手があるじゃないですか」
言う弁慶はあっさりと神子の片手を頂いている。彼がやると自然な動作で、
「ほら、敦盛くんも」
その言葉に、つられるように敦盛も彼女の手をとった。
「敦盛さん」
恐る恐る触れた彼女の手は柔らかだった。以前行き倒れていたときに看病してもらったことを思い出す。あの時も今も、彼女はこんなにも優しく、暖かで、そして強い。
「……しょうがねえなあ!」
戸惑っていたら、ぐいとヒノエにもう片方の手をひかれた。
あ、と思った時にはもう、神子とヒノエは軽やかに、結界があったはず場所を超えてしまった。
もちろん敦盛も一緒に。
「……抜けた、な」
「……できましたね」
「弁慶、お前信じてなかったのか?」
「半々ってところですかね」
「それはいいですから、弁慶さんは早く先輩から手を離してください!」
「同感」
何も起きなかった。
賑やかな声に包まれながらも、敦盛はくるりと振り返った。
簡単に超えてしまった。
あんなに恐ろしかったのに、なんともなかった。神子も穢れていないし、熊野の結界も破れていない、なにもかも、当たり前のように超えてしまった。
「通って…しまった」
終わってみればたった刹那の出来事だった。それでも敦盛にとっては、ずっと不安だったことで、
林を通り抜ける風さえもが、敦盛を祝福してくれているような気さえするほど……嬉しい。
けれど、他の皆にとってはたったの数歩歩いただけの事でしかない筈だ、他の皆にとっては敦盛はただ八葉という役目を同じくするだけの存在の筈だ、なのに、
「うーん、よかったね、敦盛くん」
「さすが景時だな」
「本当だわ、やっぱり皆で一緒に行けるに越したことはないものね。兄上が役に立つなんて」
「朔〜、たまには素直に褒めてくれよ〜」
……なのに皆が、敦盛よりと同じくらいこの一瞬を喜んでいる。
「やりましたね、敦盛さん」
戸惑っていると、つないだままの手を優しく引かれて、眩い微笑みの神子と目があった。敦盛はいよいよついに、本当に困ってしまった。
どう伝えればいいのだろう、
「ありがとう」
そう言葉に口にするのが精いっぱいで、言葉にできないような想いが胸の奥から溢れてくる。
肩を叩かれ見ると、ヒノエも昔と変わらぬ笑顔でそこにいた。
「お前もいい加減姫君の手を放せよ、敦盛」
「……もう少しだけ」
当惑しながらも、二人に、彼らに習うように、敦盛も皆へ笑顔を返す。
きっと上手くできではいないだろう。けれど、役目だからだとか、平家の生みだした怨霊を鎮めるためだけではなく、
彼らのために自分も八葉でありたいと、敦盛はようやく心から望むことができた。
(07/01/09)