うつろい

「雨ってさ、嫌いなんだよな」
 左隣を歩いていたロイが突然そんなことを言ったので、マルスはきょとんとした顔で振り向いてしまった。あじさい色の自分の傘が、オレンジ色のロイの傘にぶつかってしまい、慌てて腕を引っ込める。
 ロイはぼんやりと前を向いたまま、なんだか気だるそうだ。確かにロイは、雨が嫌いだけれど。
「……何をいまさら」
「ん? ああいや。……うん、まあ、そうなんだけど、そうじゃなくて」
 こちらに目を向け肩を竦めたロイは、至っていつも通りだ。その笑顔にどこか陰りが見えたのは、マルスの気のせいだったのだろうか。
 軽く首を振る。ロイが普通にしているので、マルスも気にしないことにした。
「それじゃあ、どうしたんだ。いきなり」
「んー……いや」
 碧色の瞳がマルスをじっと見つめる。妙にもったいぶった視線を訝しく思っていると、ロイは一度視線を下げた後、傘の向こう側に空を見上げながら、大げさに溜め息をついた。
「手」
「て?」
「傘」
「かさ?」
 細い柄を持つ自分の手をちらりと見やり、マルスは首を傾げる。
 あんたも相変わらずだよな、と呟き、ロイはそのまま続けた。
「二人で傘差してると、手、つなげないだろ」
「……は?」
「は、ってなんだよ。だって、無理だろ」
「……それは、そうだけど」
「だから、早く止まねーかなーって」
 せっかく二人っきりなのに。さめざめとそう言ったロイは、うっかり立ち止まってしまったマルスには気づかず歩き続ける。タイル舗装された道はすっかり濡れて、表面が少年の姿をぼんやりと映して揺れていた。
 手持ち無沙汰に下ろされた左手を、遠ざかる背中を見つめる。
「…………」
 走り出す。水のはねる足音、紫陽花通りの真ん中を、同じ色の傘を差したまま、マルスは追いかける。
 現在を、未来を変えていくのは、生きている人間に出来ることだ。自分の行動でなにか変えられるなら、マルスは今、少年のなにかを変えたかった。
 手を伸ばす。指先が、からっぽの手にふれた。
「ロイ、」
「え」
「傘、閉じろ」
 マルスはロイの後ろに並んで、傘を前に傾けた。左手で左手をとり、指を絡める。案の定、傷だらけだった。しかし、ロイの手はいつもどおりにあたたかく、雨で冷えた体温を癒してくれた。
「マルス?」
「前、向いてろ。それから、傘」
「え、あ、はい。
 ……なに、なんだよ、珍しいな。すっげーびっくりした」
「お前が言ったんだろ」
 振り向こうとしたところを制止されたロイは、右手だけで器用に傘を閉じた。しずくが落ち、道に波紋を生む。肩が濡れていることに気づいたが、マルス自身も両手がふさがっているのでどうしようもない。
「……いやなら、やめる」
「そんなこと言ってねーだろ。むしろ毎日してくれてもいいんだけど」
「それは……、……ロイ、だから、前、向いてろ。
 ……こっち、向くな」
「ん?」
 ほんの一瞬かいま見た横顔は、憂鬱な雨の日にしてはずいぶん明るい気がした。自分がそれを望んだからそう見えたのかもしれない、と考えはしたが、不思議と後ろ向きな気分にはならなかった。
 絡めた指が、強く握り返される。笑いたいのを堪えている様子が伝わってくる。
 ロイが、笑っている。
 想いは、伝わったのだろうか。伝わっていなくても、すれ違っていても、少なくとも自分の望みが叶った。そのことを、マルスは嬉しく思った。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいだろ」
「……いつものことだろ」
 自覚できるほど熱く、赤くなっている顔を隠すための言葉は、やはりその意図まではっきりと見透かされていた。ならば、こちらの思惑もちゃんと伝わっているかもしれない。
 本当は、それだって口に出来れば良いと思ってはみても、マルスは未だ、そこまでの勇気が出ないのだった。
「屋敷の門が見えるまでだからな」
「え、なんでだよ。いいじゃん今さら誰に見られても」
「絶対に嫌だ」
「なんだよー照れなくても。かわいいなあ」
「かわいくない!」
 ロイの軽口、本人に言わせれば愛情表現が、マルスの耳をくすぐる。
 灰色の空の下、雨音の中にささやかな笑顔を見せながら、二人は紫陽花通りをいつまでも歩いた。


ゆっくり進行。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。

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