アンダンテ

リビングのドアを開けると中はしんと静まり返り、
ちょっとしたお喋りや談笑は何も聞こえてこなかった。
誰もいない。この屋敷には大勢の住人がいるくせに、
なぜこんなことが起こるのか、少年は不思議に思う。
しかしそんな疑問は、屋敷自体の広さと、
それすらも自身の一部として内包する街の大きさを思い出すことで、
あっさりと解決するのであった。

「んーと……」

ロイは部屋の真ん中まで歩くと、辺りをきょろきょろと見回す。
何かを捜しているらしい碧色の瞳は、やがて目的のものを捉えると、
ほっとしたように緩んだ。
ソファーを飛び越え、ローテーブルを跨いでそちらへ向かう。
行儀が悪いと怒られそうだが、どうせ誰も見ていないので気にしない。

目標は、壁際に置いてある大きな本棚。
見つけたものは、白い救急箱。

ロイはその前に立ち、手を伸ばした。
そして。

「…………」

指は、僅かに届かない。   少年は思いきり顔をしかめた。

「……ッ、くそっ」

ロイは苛立った様子で舌打ちし、棚に手をかけ背伸びをする。
つま先で立つと、指が目的のものにやっと触れた。
一瞬、嬉しそうな顔をするが、表情はすぐに正反対のものになる。
これでは、箱をこちらに寄せることができない。

誰でも使うものをなんでこんなところに置きやがったんだと呟く。
真っ当なことを言っているはずなのだが、その声その表情では、
ただの八つ当たりにしか聞こえなかった。

悪態をついてみたところで、届かないものは届かない。
さて、どうするか。
棚を登ってみるかと考え、片足を上げようとした、その時だった。

「ほら」
「え、」

頭の後ろから華奢な腕が伸びてきた。
ロイの目の前で救急箱がひょいと下ろされ、今度はやわらかい声が降ってくる。

「これだろ。はい」
「……マルス」

慌てて振り向くと、そこには。
淡白な様子でロイに救急箱を差し出す、マルスの姿があった。

「……ありがとう」
「ん? ……うん」

素直に受け取り礼を述べるが、ロイの表情は妙に暗い。
それをどうとったのか、マルスはこくりと首を傾げた。

「どこか、怪我でもしたのか?」
「ん、ああ……俺じゃないけど」
「じゃあ、誰が?」
「えっとな……っと、ごめん、これ持って外行かなきゃいけないんだ。
 後でいい?」
「一緒に行くよ。図書館に行こうと思ってたから」
「そっか」

ロイの行き先は東の公園だから、途中までは同じ道だ。
二人は玄関から外に出て、歩き始めた。


季節は夏の始まり。道沿いに咲く紫陽花は、今日の快晴には不似合いだ。
美しい色彩を楽しそうに眺めているマルスに、
ロイはまだどこか沈んだ表情のまま話しはじめた。

「あのな、リンクが、足捻ったみたいでさ」
「リンクが?」
「うん。ピカチュウと一緒に木登りしてたんだけど。
 ピカチュウが落ちて、で、それを助けようとして……」

そこまで聞くと、マルスは驚きに見開いていた目を細めた。
どうやらなにか勘付いたらしい。
はあ、と軽い溜息をつき、ロイの言葉の続きを紡ぐ。

「追いかけて落ちて、ピカチュウは無傷だったけど、着地に失敗したのか。
 リンクらしいな」
「当たり。あいつ本当、ピカチュウのことになると、らしくなくなるよなあ」
「それが、らしいんだと思ってるけど」
「それもそうか」

顔を見合わせて、二人は苦笑する。

「リンクは平気だって言ってたんだけどさ。ピカチュウがすっげー剣幕でさー」
「それを持ってきて、って?」
「うん。ちょっと恐かった」
「……らしくないのは、むしろピカチュウの方だな」
「あー。そうかもな」

相変わらずあの二人は仲が良いなとマルスは言う。
自分達も同じことを言われているのは知らないんだろうなとロイは思ったが、
特に告げたりはしなかった。

「それで、リンクは大丈夫なのか?」
「ん? ああ。ちょっと見てきたけど、あれならすぐ治ると思う。
 鍛え方が違うな、やっぱ」
「うん。……それなら、よかった」

ロイの返事を聞くと、マルスは今度は、安堵からくる溜息を吐く。
よく整った横顔に見惚れていると、ふいに、彼がぽつりと尋ねた。

「それはそれとして、お前はどうしたんだ?」
「は?」
「何だか、元気、ないだろ」
「…………」

ロイは自分の表情の豊かさ、感情の素直さを、今この時ほど呪ったことはなかった。

痛いところを突かれて、少年は簡単なでまかせも思いつかず、口を噤む。

「……えーと」
「何か、あったのか?」
「……あったといえば、まあ……」

マルスはやはり、気づいていないらしい。
この青年は普段いろんなことによく気がつくくせに、
自分に向けられる他者の感情、特に好意となると、まるで別人のように鈍い。
おまけに、向けられている、ということだけはしっかり気づくのだから、
余計に始末が悪い。

長い睫毛に縁取られた瞳が、ロイを心配そうに見つめてくる。
その視線は心地好いし、とても嬉しいのだけれど、なんだか居た堪れなくなった。

「言いたくないんなら、いいけど……」
「……あー、いや……」

このまま黙っていても、マルスはロイを嫌ったり、呆れたりはしない。
しかし教えなければ、彼に不要な負担をかけてしまうような気がしてならなかった。
普段はまったく素直ではないマルスが、本当はどれだけ心配性なのかを、
ロイはきちんと理解している。
だからマルスが気にすることは、ロイはできるだけ知らせようとしているのだが。

「…………」

今回のことは、自分の意地に関わることだ。
どうしても、言うのを躊躇ってしまう。

年頃の少年らしい悩みと、マルスへの想いとの間で。
ロイはたっぷりと五秒ほど、いつになく真剣に葛藤した。
そして。

「…………さっき」
「さっき?」

結局はいつも通り、惚れた弱み、という魔法の言葉の通り。
マルスへの想いが、勝ったのであった。

手の中の救急箱をぽんと叩きながら、ロイはぼそっと呟く。

「マルス、これ、とってくれただろ」
「え? ああ……だって、なんだか大変そうだったから」
「…………だから…………その」
「……?」

マルスは頭に疑問符を浮かべて、不思議そうにロイを見下ろしている。
悟ってくれと願ったが、残念ながらマルスには、
ロイの切実な悩み事なんか、まったく見えてはいなかった。

こんなことを自分から言うのは、ものすごく嫌なのだが、どうしようもない。
ロイは観念して口を開いた。

「……マルスは、嫌じゃねーのかなー、とか……」
「何が?」
「……俺、…………背、低いから」
「……うん?」
「だから! ……恋人が、背低いの、嫌じゃねーのかな、と思って!」
「……え……」

一気に捲くし立て、ロイはふいと顔を逸らした。
顔が赤くなっていることに、少年の憂鬱の理由に、マルスもいい加減気づいただろう。
マルスが起こした、ささやかな親切心のようなもの。
そんななんでもないものが、ロイにとっては、とても重要であったことに。

マルスの視線を感じながら、ロイは内心、しまった、と思っていた。
   これは、どう見てもかっこ悪い。大人気ない、子どもっぽい。
きっとこの場に自分の父親がいたならば、そんな言葉が山のように届いたことだろう。

どうしよう。
平静を装うことも忘れていたロイが、いよいよ焦りだした、その時だった。

「……そのままで、いいじゃないか」

ゆっくりと、はっきりと、聞かせるための声が、ロイの耳をかすめた。

思わず振り向くと。
マルスは、ふわりと微笑んで。

「人にはいろんなことを言うくせに、自分のことは全然わからないんだな」
「……え」
「お前が、僕に言ってくれたんだろ。
 僕の弱いところも、僕のことが嫌いな僕も、全部合わせて好きだ、って」

手が伸ばされ、はねた赤い髪をそっと撫でる。
子ども扱いは、嫌いなのに。
マルスに同じことをされたら、嫌なことなんて一つもなかった。

「僕も、同じだよ」
「…………」
「ロイが、ロイでいるんだったら……そういうロイが、好き」

思わず、言葉を失った。
どこか花に似た藍色の瞳を、じっと見つめる。

「……そんなことを気にするのも、お前らしいのかもしれないけどな」

そう言って笑うマルスは、その後、そっと視線を外してしまった。


気づけばいつの間にか、分かれ道に差し掛かっていた。
公園は東に、図書館は西にある。

「じゃあ、僕はこっちに行くから」
「え……あ、ああ」
「リンクとピカチュウに、よろしくな」
「……おう」

マルスはロイに軽く手を振ると、そのまま走り去ってしまった。
急ぐ理由など、何もないだろうに。
いなくなってからそんなことに気づいてしまって、ロイは自分の口を手で覆った。

「…………。……あー、もう」

紫陽花が可哀想になるくらい、青空から注ぐ日射しは眩しい。
それでも今、まだ顔が熱いのは、この気候のせいではないだろう。
先ほどからずっと気分を沈ませていた出来事が、どこかへ吹っ飛んでしまうくらいには。
マルスの告白らしきものは、破壊力があった。

「…………馬鹿か、俺は……」

複雑そうに溜息を吐く。とにかく今は、他にやることがいくらでもあるだろう。

ロイは救急箱を抱えなおすと、いろんなものを断ち切るように、
怪我人とその親友が待つ、公園へ向かって駆け出した。



ロイ様と王子・その2
まあそれとこれとは話が別だとは思いますが<背

お付き合いいただいた方、ありがとうございました。

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