三歩進んで

「……ッうるさい、いい加減にしろ、寄るなさわるな、離れろ、このバカ!」
「ちょ、ま、ごめんごめんごめん悪かった調子のった!
 ああでも怒った顔もかわいいなあ、って、だから剣だけは勘弁ッ   

火に油。そんな言葉がロイの頭の中を過ぎった。
意外と冷静だなあ、と自分で自分に感心するが、どう考えてもそんな事態ではない。
しかし目の前の人物は、もう止まらないだろう。
後はその剣が叩き込まれるだけだ。それ以外、何も思いつかなかった。
そして、

「……おわあああぁぁぁぁーーーーーーっ!」

予想通り、剣が振り下ろされた。
ものすごい速さで、見た目の華奢さとは、到底結びつかないほどの威力で。

その場で倒れて気を失ったので。
一体マルスがどんな顔をしていたのか、ロイにはわかるはずもないのだが。


   ***


「はあ。ほんっと手加減しねーなぁ、あの人」

リビングのソファーの端に腰掛け、こぶのできた額を冷やしながら、ロイは溜息を吐いた。

マルスにしばき倒されたロイは、その後結局、同じ場所で目を覚ました。
額がやたら痛かったので、どうやら剣を叩き込まれたのはそこであるらしい、と、
すぐに考えも至った。
鞘に収まったままでよかったなあ、刃だったら死んでたなあ、と笑ってみたが、
背中が寒かったのは気のせいだったのだろうか。

そんなわけで、キッチンから氷を拝借して、患部に当ててみているのである。
袋を持ち上げっぱなしの右手がそろそろ疲れてきたが、寝転ぶよりは遥かにマシだ。
しかし、ただ座っているのも落ち着かない。

仕方ないから辺りに視線を巡らせてみたが、リビングには誰もいなかった。
窓の外、庭のベンチで、リンクとピカチュウが眠っているのが見えただけで。
日向ぼっこをしているうちに落ちたのだろうということが容易に想像できて、
なんだかロイは微笑ましくなった。

ベンチの背にもたれ座るリンクの膝の上に、まるくなっているピカチュウ。
なんと平和な光景だろうか。
微笑ましいと思っていたはずなのに、だんだんと羨ましくなってくる。
あんな生意気なねずみにこんなことを思うのもなんだかなあ、と呆れたが、
ロイの願望は、自然と口から漏れていた。

「……マルスも、あんなふうに懐いてくれたらなー……」

ぽつりと呟く。
それは誰に聞かせるためでもない、独り言だったのに。

「冗談じゃない。誰がお前なんかに」
「!!」

なぜか返事をされて、ロイはぎくりとした。なんだろう、聞き間違いだろうか。
頭を打たれたショックで、幻聴でも聞こえたのだろうか。
気のせいでありますようにと祈りながら、おそるおそる振り返ってみる。
そこにいた人物に、そこにあった表情に、ロイは思わず身構えた。

「……あはははははは。やっほーマルス」
「笑っても無駄だぞ。ちゃんと聞こえた」
「…………」
「隣、いいか?」
「……。は?」

思わず聞き返してしまったことを、すぐに後悔する。
隣とは、隣だろう。今座っているソファーは、三人掛けだ。
マルスを見上げてみれば、彼は案の定、怪訝そうな顔をしていた。

「だから、隣。
 ……嫌なら、別に、いいけど」
「え、あ、いや。別に、全然」
「…………」

ロイは落ち着かない様子で返事をした。変に思われてるだろうなあ、と思いながら。
しかし、

「……そんなに身構えなくても、殴ったりしないから」
「……あー。ハイ」

悟られていたようだ。
なんだかとても居た堪れないロイの隣、正確には反対側に、マルスは座る。
三人掛けのソファー。
左端にロイ、右端にマルス。間に、ヒト一人分のスペースを空けて。

ふと疑問に思う。
ガラスのローテーブルを挟んで向かい側にも同じソファーがあるのだが、
マルスは何故、あえて隣を、などと言い出したのだろうか。
訊いてみようかと思ったけれど。

「……何の本?」
「誰かの“世界”の神話だよ」

マルスは読書を始めてしまったから、口を噤むしかなかった。
何か下手なことでも言おうものなら、先の宣言を反故にされて、殴られるかもしれない。
ハードカバーの威力を、ロイはその身を以って理解していた。






「…………」

針が時を刻む音を聞き続けて、一体どれほど過ぎただろうか。
ずいぶん長い時間が経ったような気もするし、数分しか変わっていないような気もする。
やることがない時というのは、時の経過を遅く感じるものだ。
つまり、ロイは暇だった。

元より、じっとしているのは性に合わない。
だが、せっかくマルスが隣にいるのに、この場を去ってしまうのはもったいない気がした。
じろじろ見るとまた怒らせてしまいそうなので、頑張って正面を向いているのだが。
顔が見えなくても、気配だけでも。嬉しいものは、嬉しいのだ。
ただ、近くにいるだけなのに。

というかそもそも、自分は暇を持て余していたのだ。
じんじんと痛む額を冷やすために。そんなことを、ロイはようやく思い出した。

透明な袋に入れた手の中の氷を、指でそうっと弄んでみる。
氷はほとんど溶けてしまったらしく、僅かに輪郭を残すのみであった。
取り替えた方が良いだろうか。

そんな時。
隣から視線を感じたような気がして、ロイはそちらへ顔を向けてみた。

「!」
「え、」

マルスは確かに、ロイを見ていた。
しかし。
ロイが目を合わせた瞬間、マルスは顔を逸らしてしまった。

「……何?」
「……氷、」
「ん?」
「溶けてる……だろ。……替えなくて、いいのか?」
「え? ああ……」

今、正に考えていたことである。
それだけなら、普通に尋ねればよいだろうに。
そんなに、不可解な行動を取らなくても。

怪訝に思いつつも、ロイは続けた。
マルスは揃えた膝の上に本を載せたまま、うろうろと視線をさ迷わせている。

「べつに、そろそろ痛みも引いてきたけど」
「……そう、なのか?」
「でも、もう少し冷やしておくのもアリかな。念には念を、って言うし」

本音は、もう少しこのままでいたい、と、そういうことである。
蹴られ殴られる可能性があろうと、やはりマルスの傍は心地良い。
そんなことを感じる自分に、惚れた弱みって怖いなと、ロイは改めて自覚した。

ロイの胸中なんか、きっと考えようとも思っていないだろう。
マルスは本を閉じて、立ち上がった。
そして。

「……それ」
「あ?」
「その袋、貸せ。……取り替えるんだろ?」
「は?」

予想だにしなかった言葉に、ロイは思わずマルスを凝視してしまった。
冷たく、しかし複雑そうに歪められた、よく整った顔があった。

「は? じゃないだろ。……何だ、その顔は」
「え……いや」
「いいから、貸せ」
「……ハイ。どーぞ」

選択肢など与える気のない声に、ロイは大人しく氷入り袋を差し出す。
水の重みで垂れ下がったそれを受け取ると、
マルスは何も言わずに、キッチンへと向かってしまった。
その姿を、ロイの碧色の瞳が追う。
それに気づいたマルスは、やはり複雑な顔をして。

「……。……べつに、何もしないから」
「え? ああ、そんなこと思ってねーよ」
「……じゃあ、何でそんなに見るんだ?」
「いや。どういう風の吹き回しかなあと思って」

少し前の呟きに関係することだが、マルスはとにかくロイに手厳しい。
近づけば警戒され、手がふれれば叩(はた)かれ、
抱きつこうものなら鳩尾にストレート一発、おまけの回し蹴りがついてくる。
結局今回もそのパターンでこんなことになったわけなのだが。

ちなみにそれらの仕打ちに対するロイの見解は、照れ隠し、の一言に集約されている。
前向き思考にもほどがあるが、それはさておき。

どんなことがあっても、こんなふうに世話を焼かれたことはなかった。
だから驚いたのだ。
あのマルスが、どんな理由があって、自分の怪我の面倒を見よう、なんて?

ソファーに乗り上げ、背凭れに両腕を組む。
袋の中の水を捨て、新しい氷を入れる手つきは、たどたどしく不器用だ。
あの長く細い指は何をするにも向いていそうだと感じていたので、ロイには意外だった。

口をしばって、マルスはリビングへと戻ってくる。
ソファーの側に立ち、ロイをじっと見下ろして。

「……その……。
 ……少し、やりすぎたかと、思ったから」
「え」
「本当に……大丈夫、なのか?」
「……。……マルス」

マルスは、そんなことを言った。
ロイにはやっと理由がわかった。

ようするに、つまり……。

「……それって、心配してくれてんの?」
「え、……な、……べ、べつに、そういうわけじゃ……っ」
「本を持ってきたのは口実で、俺の様子、見にきてくれてたのか。
 なんだよー、だったらはじめからそう言えよー!」
「違う! だからべつに、そういうわけじゃないっ!
 ……リビングにきたら、たまたまお前がいたから、だから……!」

マルスは思いきり否定したが、頬が僅かに赤くなっていた。ということは、図星だろう。
素直じゃない。
ロイは既ににやにやしながら、実に楽しそうにマルスを見た。

「俺、マルスに心配してもらったら、すげー嬉しいけどなあ」
「だから、別に心配なんか……っ!」
「はいはい、わかったわかった。あーもう、かわいいなあ!」
「ッ、かわいくない! ……って、近寄るな!」

体の奥から湧き出る感情に従い行動すれば、マルスはやはり抵抗した。
若干引けているように見えるのは、ロイの怪我を気づかっているからだろうか。
とりあえずそう思っておこう、と勝手に解釈して、ロイはマルスに抱きついた。
この後何が起こるのか、よくよく理解していながら。

マルスが腕を振り上げる。その手に、幾度もロイを沈めた凶器を持って。
そして。

「〜〜ッ、調子にのるな! ……離れろ、このバカ!」

ロイの後頭部に、ハードカバーが炸裂した。



二歩下がるロイ様と王子
基本的にはこういうロイマルが好きです。

読んでいただいた方、ありがとうございました。

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