青薔薇を散らすその日まで

 昏々と眠り続けるマルスの寝顔をじっと見つめながら、青年はもう何度目かもわからない溜息を吐いた。一体、今日で何日目だろう。どれほどの朝が来て、夜が来て、いくつの日を刻んだのか、もう数えることも止めてしまった。
 南向きの窓のすぐ下。大きな白いベッドに仰向けになって、マルスは眠っている。手を伸ばせば届く距離。けれど、けっして声は掛けない。名前も呼ばない。肩を揺すったりもしない。そんなことはまったくの無意味であることを、青年はすっかり学習してしまったからだ。
 と、言うことは、それだけの時間はそれなりに経っているようだ。……だからと言って安堵できるわけも無く、青年は再び溜息を吐いた。
 マルスは一体、いつから眠り始めたのだろう。そして一体、いつ目覚めるのだろう。
 ゆっくりと流れる時間の中、青年の思考を支配するのは、とっくに答えの出ている疑問ばかりだった。
 眠り始めたのは、マルスが彼との約束を守ろうと決めた、あの日からだ。
 だから目覚めるのは、彼が、マルスとの約束を果たす日に決まっている。

 ああ、何だ、やっぱりわかっているのでは無いか。言葉になる前に飲み込んで、青年はマルスの安らかな寝顔を見つめ続ける。

 マルスの頭の横、腹部の上で緩やかに組まれた手のひらの中、揃えられた足の周り。汚れの無いまっさらなシーツの至るところに、色とりどりの花が添えてある。マルスのために飾られたそれらは、マルスの青い髪、透きとおるような白い肌を、より美しく魅せていた。長い睫毛に縁取られた瞳が開けば、きっともっと美しいものが見れるのだろう。しかしそれはありえないことだ。なぜならマルスは、眠っているからだ。彼が、マルスとの約束を果たす日まで、マルスはけっして目覚めないからだ。
 それでも、青年はそこにいる。ただじっと、マルスの顔を見つめ続ける。
 守ろうと思っているわけではない。それは彼だけに与えられた特権だ。見届けようと思っているわけでもない。それは彼とマルスの親友の願いだ。
 青年は、ただ、いるだけだ。どれほどの光を浴び、闇を抱き、いくつの時を口ずさんでも。
 青年は、ただ、そこにいる。
 昏々と眠り続けるマルスの寝顔をじっと見つめることが、ただ、ただ、嬉しいから。
 そしてそれが、とても苦しいから。

   本当は青年は、どうすればマルスが目覚めるのか知っていた。あれは一体、いつのことだったか。マルスにいくつめかの花を届けにきた子ども達が、ひそひそと囁き合っていたのだ。
 それはマルスの眠りを嘆く声と、彼に希望を託す言葉。そしてマルスのまわりにひとり残った青年の、実直な愚かさを哀れむ歌。
 知らないんだ、知らないんだよ、お姫さまは、口づけで目を覚ますのに。
 知らないんじゃないよ、知っているんだよ、口づけするのは、王子さまだと。
 知っているんだよ、にせものの王子さまでは、お姫さまは目が覚めないと。

 そう、青年は、知っていた。目の前に横たわるマルスの眠りを覚ます方法を。約束はただの約束で、約束が果たされたその日に、彼がその方法でマルスを目覚めさせるだけだ。方法はとても簡単で、だから誰でも知っている。魔法をかけられた鳥の枷を、はずしてやる方法を。
 しかし、青年は、やはり知っていた。その方法を知っていても、けっして実行にはうつせない。
 なぜならば、鳥の眠りに破幻の術を用いても。
 翼に自由を与えられるのは、マルスの恋人だけだ。それを、青年は、知っていた。

 青年は、嬉しかった。マルスを思うと、とてもあたたかい気持ちになることが。
 だからこそ青年は、苦しかった。マルスには、彼がいるからだ。いつまでも、いつまでも。

 青年は、怖いのだ。
 たとえば、歌を歌わないその唇に口づけをして、マルスが目覚めなかったら。
 青年は、怖いのだ。
 たとえば、何かの間違いで、マルスが目を覚ましたら。
 目を覚ましても、目の前にいるのは、彼ではなく、自分だ。
 青年は、怖いのだ。そんなことが、どうしようもなく。

 だからただ、青年は、そこにいる。
 やすらかな寝顔を見ていれば、穏やかな寝息を聴いていれば。……それだけなら、とても、幸せだから。

 昏々と眠り続けるマルスの寝顔をじっと見つめながら、青年はもう何度目かもわからない溜息を吐いた。どれほどの陽が昇り、月が昇り、いくつの星が死んだのか、もう数えることも忘れてしまった。

 彼は、マルスを置き去りにしたのだ。
 彼の“世界”で、何かとても大変な戦いがあったから。彼はあの日も、いつものように明るく笑って、そして。
 彼を見ることはもう無いだろうと、青年はそう思った。きっと、マルスだってそう思っていた。彼には黒い影が見えていたのだ。赤く、紅く、緋く。彼はきっと戦って、闘って、大切なものを守って、護って、そして。
 それなのに、彼は言った。
 ひどく馬鹿げたことだった。
 しかし、マルスはそれを信じた。
 必ず。   必ずここに帰ってきて、その時は、あんたを抱きしめたいと。

 彼は戻ってこない。いつまでも、いつまでも。
 しかしマルスは眠り続けている。昏々と、延々と。彼との約束を守るために。彼が約束を果たすために、必ず帰ってくると信じて。
 花を飾った子どもたちも、彼とマルスの親友も、長い長い時間に耐え切れず、みんなみんな死んでしまった。
 死んでは約束を守れないから。
 マルスは、眠り続けているのだ。

 マルスは、眠り続けている。
 そして青年は、そこにいる。
 何日も、何百か月も、何億年も。
 いつか誰かがその残酷な両手で、青薔薇を散らすその日まで。


元ネタは人魚姫。

SmaBro's text INDEX