雪が降るほど寒い日
雪が降りそうなほど寒い日、ロイは屋敷の庭でぼんやりと灰色空を見上げていた。まもなく日も暮れようという時刻であるにも関わらず、空は分厚い雲に覆われ、夕焼けのあざやかな色彩はまるで目に映らない。これはきっと、しばらくはこの天気のままなのだろう。冬嫌いの寒がりにとっては、まったく嬉しくないことである。 「……はあ」 あたたかな陽のにおいに明日も触れられないらしいという己の予測に、ロイは深い溜息を吐いた。吐いた息の白さにうんざりするが、だからと言ってどうしようもない。ヒトの手の伸ばせる範囲は、限界以上に広がることは無いのだから。 「……寒ぃな、畜生」 そう言いながらも室内に戻ろうとしないのには、一応ちゃんとした理由がある。少年は、待っているのだ。ある目的のために、ある人を。 「……本当、寒ぃな。……雪でも降りそうだ」 肌を刺す冷たい空気に、背中がぶるっと震える。歯を食いしばってそれを堪えたロイは、ふと、屋敷の門の方から歩いてくる人影に気づいた。 ああ、ここからでもわかる。あの人影が、自分の待っていた人であることが。 ロイは嬉しそうに笑ってしまいそうなのを抑えながら、待ちわびたようにその人の名前を呼んだ。 「マルス!」 「! ……あ……、」 できるだけ、偶然、を装って。ロイは無理矢理繕った驚きの表情で、マルスに軽く手を振った。 それに気づいたマルスは、びっくり顔で一瞬、立ち止まった。玄関に向かっていた足をロイのいる庭へと向け、そしてそのままこちらへ歩いてくる。やった、と心の中だけで言いながら、しかしけっして表には出さなかった。 「ロイ。……何、してるんだ?」 「いや、何か、雪降りそうだなあ、って思ってさ。ちょっと見にきたんだ」 本当は庭でマルスの帰りを待っていたのだが、そんな正直なことはもちろん言わない。 「あんたは、どこか行ってたのか?」 「ああ、図書館に……でも、雪が降りそうだなと思ったから、帰ってきたんだ」 本当は偶然ではなく、ロイによってはかられた必然であるとは知らず、マルスは視線を面白みの無い灰色空へと上げた。 ああ。この人は相変わらず、何て冷たい表情をするのだろう。この“世界”へやって来て、この人と出会って。驚きや怒りを表に出すようになっただけ、まだマシと言えるかもしれないが。それでもロイは、目の前の人が、感情のあるものらしく顔を緩ませたことなんか、片手の指で数えられるほどにしか見たことがなかった。 しかも、そのうちの一度は、はじめてこの人を見かけたときのことだと言うのだから。満開の桜が降る中に立ち、ただそれをじっと見上げていた。 子どものように無心に、まるで花に恋をしているように。そんな姿にどういうわけだか惹かれて、様々な出来事を経てほとんど一目惚れだと気づいて、そして 「(……あれは夢か、夢じゃなけりゃ幻だったのか?)」 今となっては、こんなことまで考え出す始末である。それでも。それでも、ロイの名前をちゃんと呼び、ちゃんと会話をしているのだから、十分進歩はあったはずなのだ。近づくだけで殴られ、蹴られ、変質者を見るような目を向けられた、あの頃に比べれば。 「(……。何かむなしくなってきたぞ)」 走馬灯のように駆け巡った思い出に再び溜息をついてみて、ロイはちらりと隣のマルスを見た。目を細めてじっと空を見上げている横顔は、確かにあの日、花の下で見たそれとおんなじだ。まるでつくりもののように端整な、だけど。 マルスの周りの空気は、いつも張り詰めている。彼の“世界”の事情を思えば、それは仕方の無いことなのだけれど、ロイにはそれが悲しかった。 その時。微動だにしなかったマルスが、いきなりロイの視線に気づいた。 「……? ……何、じろじろ見てるんだ?」 「え? っあ、その、……いや。美人だなあ、と思って」 まさか気づかれると思っていなくて 「……僕は、女の子じゃない」 「知ってるよ、それくらい」 怒らせてしまった。それでも。 心が見えるそういう顔の方が好きだなと、ロイは思った。 「……もう、僕は戻るぞ」 「え、あ……」 すっかり不機嫌になってしまったらしいマルスは、そう言うなりさっさと踵を返して歩き出してしまった。物思いに耽っていたロイははっと我に返ると、慌ててその後を追おうとする。駄目だ、まだ。まだ、まだ、二人だけで、話していたいのに。 気持ちばかりが先走って、身体が追いついてこなかった。遠ざかってゆくマルスの背中へ向かおうとした足は、振り向いたところで絡まり、枯れた芝生の上を滑って。 「え、おわぁあっ!?」 「っ!?」 気づいたときには、声が出ていた。妙に間の抜けた叫びと、直後聞こえた音に驚き、マルスが何事かと弾かれたように振り向く。 「っ……。……いってー……」 マルスの視線の先には。つんのめって止まらず派手に転んだ、ロイの姿があった。 「……ロイ」 目を大きく見開いて、マルスは呆然とロイを見ている。ロイは打ちつけた顎を労わることも忘れ、身体を起こしかけた状態で動かずにいた。動けないわけではなく、単に、顔を上げられないだけである。……好きな人の前では、かっこ悪いところを見せたくなかったのに、という、年頃の少年らしい感情により。 「ロイ?」 ロイのそんな心中にはまったく気づく様子も無く、マルスはロイの名前を呼ぶ。さくさくと足音が聞こえるから、きっとこちらへ近づいてきているのだろう。嬉しいけれど、嬉しくない。ここにいてほしいような、どこかへ行ってほしいような。まったく逆の感情が、ロイの胸の中でぐるぐる回る。 芝生を踏む音が止み、動いていたマルスの気配が同時に止まる。顔を上げればきっと、目の前にマルスがいる。だけど、ロイは動かない。 「ロイ? ……どうしたんだ? どこか、打ったのか?」 「……。……いや、違……。……そんなんじゃ、なくて」 どう説明すれば良いのだろう。まさか、あっちへ行け、なんて、言えるはずがない。だからと言って、ずっと黙っているのも、まったく良くは無い。 観念したロイは、ぽつりと呟く。 「……………………かっこ悪ぃなー…………なんちゃって……」 「……は……、」 なんだか、気の抜けた反応だった。 それは、彼にしては、とても珍しいもので……。 「……何、言ってるんだよ。……バカだな」 くすくすくす、と。 かすかな、けれど確かな笑い声が、聞こえて。 ロイは、がばっ、と顔を上げた。 ああ。 ……笑った。 「…………」 「別に、転ぶくらい、何とも無いだろ。……ほら、大丈夫か?」 白い頬を緩ませて、唇の端をやわらかく上げて、穏やかな眼差しを向けて。マルスは確かに笑っている。ああ、なんて。 見たかったのは、この顔だ。この顔を、自分だけに向けてほしかった。 やっと、見えた。 「…………」 「……? ……どうしたんだ?」 「えっ、……あ、いや、うん、」 差し出されていた手を握り返すことも忘れていたロイは、マルスの問いかけに、慌てて声を上げた。何だか今日は、こんなことばっかりだ。だからロイには、わかっていた。自分がこの後ついつい言ってしまうことも。それによって、マルスが、どんな反応を返すかも。 だけど、もう、止まらない。 「……あんたさあ。 ……笑うと、かわいいなあ、と思って」 「…………。何……、っ!」 なぜかびくっ、と肩を竦めたマルスは、ロイの呟いたところを理解すると、かあっ、と頬を赤くした。そんな顔もかわいいなあ、とロイがのんびり思っていることは、もちろん知らない。 「っだから、僕は女の子じゃない!」 「あだっ」 べしっ、とロイの頭を叩いて、マルスは急いだ様子で立ち上がった。やっぱり怒らせてしまったらしい。今度は転ばないように、ロイはしっかりと地面に手のひらをついて、はねるように立ち上がる。たたたっ、と走り去ってしまうマルスを、ロイは追いかける。隠しても滲み出てくる幸せに彩られた、満面の笑みで。 「何だよ、待てよ! 思ったこと言っただけだろー!?」 「僕は男だ! 男に、かわいい、なんて言って、楽しいのか!?」 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、二人はテラスからリビングへと入ってゆく。お互いがお互いを見ているだけで精一杯だったから、二人は気づかなかった。 灰色空からふわりと、最初の雪が降りてきたことに。 雪が降るほど寒い日、ロイとマルスは就寝のために自室へと帰るまで、延々と口喧嘩をやめなかった。 やがて二人が、二人一緒、が当たり前となるのは。マルスがロイの願うまま、あかるく笑うのが当たり前となるのは。世界を覆すほどの憎しみを乗り越え、一つが二つへ再び分離するのは。そして、耐え難き別れを耐えなければならないと、繋いだ手を永遠に手放すことも。 すべてはまだ、未来の手の中。もう少し、先のことである。
ロイの思考回路が乙女なことになっていてすみません……。 |