...s w e e t i e...
おそらく亭主関白であろうとすっかり思い込んでいたそのヒトは、
どうやら本命には意外と尽くすタイプであったらしい。真に惚れた相手に、であるならば。
そろそろ日常となりつつある目の前の光景を他人事のように眺めながらそんなことを考え、
ピカチュウはローテーブルの上に座ったまま、マグカップの中の砂糖水をひとくち飲んだ。
「……すまん。本当に大丈夫か?」
「ああ。もう大丈夫」
「どこか、他に痛むところは無いか?」
「大丈夫。ここだけ」
「というか、そこもまだ痛むんだろう」
「うん。……でも、本当にここだけで」
「……。……すまん……」
先ほどから繰り返される会話は、同じ名前の、だけど全然違う色を持つ、二人の青年のものだ。
三人掛けのソファーの一番左に座るマルスと、その前に立ち、マルスを見下ろしているアイク。
マルスはズボンの裾の右側だけを捲り上げており、そこからは白い足首が覗いている。
日に焼けていないそこには、今はやわらかそうな包帯が、不器用に、丁寧に巻かれていた。
「だから、別にアイクが悪いんじゃないだろ。そんなに謝らなくても」
「いや……、俺の配慮が足りなかったせいだ。すまん」
「アイク。……あの、僕なら本当に大丈夫だから……」
「あんたの身体に傷がつくなんて、あってはならんことだ。悪かった」
「…………いや…………」
ピカチュウは、思い出す。つい先ほどまで、二人は庭で手合いをしていた。
二人は相変わらず同じくらいの腕前で、つまり勝負は接戦だった。
そして、何度目かの読み合いの後。アイクの腕力にマルスが押し負け、細身の体が後ろに傾いた。
バランスを崩したマルスは、そのまま芝生に倒れ込んで 、
「……あそこで俺が、余計なことをしなきゃ……」
「そんな顔しなくても……。どうしようもないよ」
マルスは別に、足を挫いたりはしなかった。
さまざまな戦闘や窮地に備えて訓練はしてあるし、マルスはもともと体もやわらかい。
事件は、しりもちをついたマルスに手を貸そうと、アイクが手を伸ばしたその時に起きた。
何をしていたのか、どういう状況なのか知らないが。
カービィが、四階の窓から、降ってきたのだ。マルスめがけて。
「アイクは、僕を助けようとしてくれたんだろ?」
いち早くそのことに気づいたアイクは、危ない、と怒鳴るように叫んで。
引っ張り起こしかけていたマルスの身体を突き飛ばした。
自分が馬鹿力であることと、マルスがとても軽いこと。アイクは、すっかり忘れていたのだ。
と、いうわけで。
不意打ちで、とんだ馬鹿力で突き飛ばされたマルスは、見事に受け身に失敗して。
このとおり、足を挫いた。というわけである。
「だから、アイクは謝らなくて良いと思う」
「……いや。それでも、俺が悪い。すまん」
こういうの、なんて言うんだっけ。
そうそう、堂々廻り。
このヒトもたいがい苦労するなあ、と冷静に分析して、ピカチュウはマグカップをことんと置いた。
「何か、俺に出来ることは無いか?」
「手当てを手伝ってくれただろ? それだけで十分ありがたいから」
「俺の気が済まない」
「……。……うーん……。……それじゃあ……」
言うとおりにしないと引かない、とようやく理解したらしい。
マルスはリビングのドアに目を向ける。
「部屋に戻りたいから……肩を貸してもらってもいい?
……それと……、」
「ああ。何だ?」
リビングのドアを見ていた目を、今度はカウンターの向こう側の、キッチンへと向ける。
「何か、甘いものが飲みたいんだ。僕の代わりに作ってくれる?」
「……。作るのか」
「あ……、大丈夫……。僕でも出来るくらいだから……。
この間、風邪をひいたときに、ロイが作ってくれたんだけど」
何を思い出したのか、マルスは少しおかしそうに笑う。
それを見た瞬間、アイクの眉間に皺が増えたのを、ピカチュウは見逃さなかった。
それはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの無愛想に戻ってしまったのだけれど。
「マグカップに、お湯を入れて……」
「ああ」
「冷蔵庫の、一番上の段に、柚子蜜が入ってるんだ。
それをスプーンでひとさじカップに入れて、おわり」
「……。それだけか?」
「うん。あ、だけど、ポットのお湯が切れてて、」
「そうか。わかった」
己のやることはわかった、とでも言うように、アイクは真っ直ぐキッチンに向かった。
その辺の適当なミルクパンを引っ掴んで火にかける姿を見て、マルスはため息を吐く。
「あ、アイクさんは、コンロ使えるんだね」
「……ピカチュウ」
「リンク、未だにコンロ使えないもんね」
自分の大きな親友のことを思いながら言うピカチュウに、マルスが苦笑をこぼす。
アイクは必要なことはすぐ覚えるよ、と、小さな子どもを見るような視線をアイクに向けるマルスに、
今度はピカチュウがため息を吐いた。
「ところで、マルスさん。足、ほんとにだいじょうぶ?」
「え? ああ……、大丈夫だよ。アイクがずいぶん心配してくれてるけど……。
本当に、少し痛むだけだから。すぐに良くなるよ」
「そう? なら、いいけどね」
「ああ。……ああ、でも、困ったことは、あるかな……」
「ん?」
こくん、と首をかしげるピカチュウに、マルスが苦笑しながら続ける。
「怪我をしたことを、その……あいつに見られたら。
……また、うるさく言われるだろうなと思って」
「…………」
とても困った様子で。
だけどマルスは。
安心に満ちた顔で、微笑んでいて。
はかなく滅んでいく花を思い出しながら、ピカチュウはいつもの調子で答えた。
「……そうだね。ロイさん、本当に過保護だもんねえ」
「ああ。……どうせすぐばれると思うけど、一応、内緒にしておいてくれるか?」
「アイクさんと一緒にいるときの怪我だ、ってこと?」
「うん、そう。アイクは悪くなくても、突っかかって行きそうだから」
「……うーん。あれは、アイクさんが悪かったと思うけどね……」
カービィみたいに小さなものが激突したところで、大したことにはならないだろう。
アイクだって、それは重々承知していたはずだ。
それでも自然に体がマルスをかばうように動いた、という事実の方が、
本当は問題のような気もするが。ロイにとって。
そんなことにまで、きっと考えは至らないのだろう。
マルスは自分の知らない残酷さで、笑って言った。
「そんなことないよ。……、……?」
「マルス」
ふと、マルスが振り向く。どうしたのだろうと視線で追うと、そこにはアイクが立っていた。
ミルクパンは火にかけっぱなしで、危ないだろうと言おうかどうか迷って、何となくやめた。
「湯が沸くまで時間がかかるが、どうする」
「……?」
「先に部屋に戻るか?」
「あ……。じゃあ、そうしようかな」
「そうか」
「えっ、……っわ、ちょっと、アイク……!」
マルスが答えるなり、アイクはマルスの身体を軽々と抱き上げた。
背中と脚の裏に両の腕を回して。マルスが思わず、アイクの肩にしがみつく。
それはどう見ても、いわゆる“お姫さまだっこ”だった。
「アイク、下ろし……」
「あまり歩かない方が良いだろう。……おい、ねずみ」
ねずみと呼ばれ、ピカチュウは一瞬むっとしたが、顔には出さずなあにと答えた。
「俺が帰るまで、鍋を見ておいてもらえるか?」
「うん、わかった。いってらっしゃい」
「頼んだぞ。……マルス、大丈夫か?」
「……う、うん……でも……」
今、あの赤い髪の少年は、屋敷にはいない。ファルコと共に、夕飯の買い出しへ出かけたからだ。
だから見つかることは無いし、アイクはマルスにはとても親切だから、心配することは何も無い。
男の自分が楽に抱え上げられていることに対して思うところはあるだろうが、
マルスは自分が華奢であることは自覚があるし、アイクの腕力は知っている。
じゃあ行ってくる、と背中を向けたアイクの肩越しに、マルスはピカチュウをじっと見つめる。
落ち着きの無い慌てた瞳に込められたお願いをきちんと理解して、
ピカチュウはにっこり笑った。
「言わないよ」
声が届いたかどうかはわからないが、ピカチュウが笑ったのは見えただろう。
マルスは安心したように息を吐いて、ピカチュウに軽く手を振った。
そして二人はリビングから出て行き、この場はいきなり静かになった。
「よいしょっと」
砂糖水の入ったマグカップをそこに置き、ピカチュウはローテーブルから飛び降りた。
たたたたっ、と軽く走り、勢いをつけて跳躍して、コンロの隣のスペースに着地する。
ミルクパンの中では、小さな泡が、ちょっとずつ浮かんで消えていた。
「…………」
「……ああ、ピカチュウ。ここにいたのか」
「! リンク。おかえりなさい」
ふいに、閉められたはずのドアが開いて、よく耳に馴染んだ声が届いた。
見れば大好きな親友が、両手に小さなビンを二つ持って、微笑んでいる。
ピカチュウもまた微笑んで、ぱたぱたとしっぽを振った。
「ああ、ただいま。
はい。おみやげ」
そう言ってリンクは、手の中のビンを片方、ピカチュウに差し出す。
その中には、カラフルな金平糖が詰まっていた。
まるで宝石みたいなそれに、ピカチュウは真っ黒の瞳をきらきら輝かせる。
「わあ。ありがとう」
「どうしたしまして」
もう片方のビンの行き先は、ピカチュウにはわかっていたので、特に何も聞かなかった。
「……ところで、何やってるんだ?」
リンクはビンを軽く揺らせながら、火にかけられているミルクパンに目をやった。
ピカチュウは料理をしない……というか出来ないので、疑問に思うのは当然だろう。
あのね、と言いかけたところで、ピカチュウはふ、と言葉を止めた。
小首を傾げて、リンクはピカチュウを覗き込む。
「ピカチュウ?」
「……。……あなたに、こんなことを言うのも、悪いんだけど……」
そういえばこの湯は、アイクがマルスのために使うものだ。
アイクはマルスを送りに行ったまま、戻ってくるにはまだ早い。
リビングを出て行く直前の、マルスの顔を頭に浮かべながら。
ピカチュウは、ぽつりと言った。
「……あのひと、望み、無いなあ」
「……?」
「……何をしてても、誰と話してても……誰かと、一緒にいても」
レシピを彼に教えたのは、どうやらあの少年であるらしい。
誰が原因でどんな怪我をしても、行き着くところはあの少年のことであるようだ。
内緒の話が多いのも、綺麗に優しく、微笑むのも。
ぜんぶ、ぜんぶ。
「マルスさんは……いつも、ロイさんのこと、考えているんだね」
「……。
……そうだな。……まあ、でも」
リンクは、何か言いたげに見上げてくるピカチュウの頭を撫でる。
「それでマルスが幸せなんだったら、それで良いんじゃないか?」
本心に限りなく近い、強がり。
なんとなくそれがわかったピカチュウは、それ以上何も言わない。
その後、ミルクパンの湯が沸騰し、コンロってどう使うんだ、とリンクがひとしきり慌てたころ、
アイクがリビングに戻ってきた。
このひともいつかはこんな思いに捕らわれるのだろうかと考えたけれど、
結局、ピカチュウは何も言えず、早く持っていってあげてねと代わりに言った。
想いが届いていない、というのがどういうことなのか、わからないままというのも居た堪れない。
わかっているのに想うというのも、また、とても幸福で不幸ですね。
お付き合いいただきまして、ありがとうございました。