叶わないと知っているから、夢なのだと知っていた。
開かれることの無い扉。奥に眠るのは、遥か遠く愛していた追憶。
揺れる水面の向こう側。楽園という名前で呼ばれた、最初の記憶。
それは、知らない私の名前を呼ぶ、最後の記憶……。















「……ルス、おーい、マルス!」
「!!」

遠くから自分を呼ぶ声で、マルスは思わず飛び起きた。
瞳を大きく見開いて、辺りを見渡す。そこは、見慣れない部屋だった。
高い天井。本がぎっしり詰まった本棚が二つ。その傍に、金縁の赤い絵画。
知らない花が飾ってある円テーブル。銀の水差し。細工が美しいオルゴール。

そして自分がいるのは、ふわふわのベッドの上だ。
すぐ近くにある窓が開いていて、穏やかな風が気持ち良い。
外を見れば、当たり前のように空が広がっている。
夕焼けの少し前、淡い色合いを帯びた風景。

「……」
「マルス? おーい、どうしたんだ?」
「……ロ、イ……?」

声に呼ばれてそちらを向くと、そこにはロイがいた。
いつものように、はねた赤い髪を子供のように揺らせて、笑っていた。

ロイはひらひらとマルスの目の前で手を振って、碧色の瞳を細める。
手の中からサイドテーブルに、救急箱らしき木箱を移動させて。

「おはよう。もう、怪我、大丈夫か?」
「……けが? ……だいじょう、ぶ……? ……ッ、」

言われた瞬間、右肩が引きつった気がして、マルスはそこに目を向けた。
右腕の付け根に、ガーゼが貼ってあり、上から包帯が巻いてある。
少し血が滲んでいたが、もうほとんど痛くはない。

「反乱に、巻き込まれて。怪我、したんだろ」
「……。っ、反乱……!?」

ガーゼと包帯を替える為に伸ばされたロイの腕を、マルスはぱん、と払った。
それは、ほとんど、無意識に。

「マルス?」

びっくり顔で目をまるくするロイ。その目の前でマルスは、慌てた様子で言う。
何か、とても大切なことを。

「反乱……、反乱は……どう、なったんだ!?」
「は? ……マルス? どうしたんだ?」
「行かなくちゃ……! 僕のせいで、みんな……!」
「おい、何言ってんだよ。……落ち着けって、」

ベッドから出ようとしたマルスの肩を、ロイは両腕で押さえつけた。
元々、ロイの方がマルスより力があるので、身体はあっさりとベッドに押し戻される。
不安げに揺れるマルスの瞳を見ながら、ロイは優しく微笑んだ。青い髪を、指で梳く。

「反乱なら、終わったよ。
 もう、こんなことしないって、父上が約束も取り付けさせた。
 巻き込まれて、大変だったな」
「……え……?」

さらさらと、ロイの指の間を、髪は水のように流れていく。
発展途上の大きな手。体温に癒されながら、マルスは弱弱しく言った。
独り言のように。

「だって……。
 ……あの反乱は、……僕が、聖王国を継いだから……。
 ……だから、彼が……」
「……? 何言ってんだ? マルス」

そんなマルスの言い分は、ロイが一瞬にして、否定した。

「そんな、どっかの物語の王子様じゃあるまいし。
 今回は、ほら……、あっちの砦。あそこを山賊に占領されたから、
 そこを取り返しに行っただけだろ? 迷惑な話だよな」
「……」
「たまたま通りがかったところに、巻き込まれて、怪我したんだよな。
 ……怖かっただろ? あんた、武器使えないもんな」
「……。」

困惑に満ちたマルスの顔。ロイは苦笑して、ふわりと腕を伸ばす。
華奢な身体を抱きしめて、耳元で、ごめんな、と呟いた。
こんなことになるなら、ついて行けば良かったと言って。

ロイの腕の中で、マルスはその肩に、こつん、と額を寄せる。
いつもと同じ、マルスのものより少し高い体温は、確かにロイのものだ。
……そうだ、何を勘違いしていたのだろう。変な夢を見ていたらしい。
マルスは思わず、苦笑する。

「せっかく皆、俺達のことを、認めてくれたんだからさ。
 ……早く怪我治して、元気なとこ、見せないとな」
「……。うん。……ありがとう、ロイ」

自分は、この家に拾われたのだ。
戦争で両親を無くして、姉を失って、この家の主に拾われた。
人を殺せない、力の無い青年だったけれど、一員になれた。

男同士で、ロイの方が年下で、だけど皆、ロイとマルスのことをわかってくれた。
ずっと一緒にいられるのだ。この場所で。


戦争のことはよくわからない。
だけどもう、戦争は終わった。とても平和な世界になった。
窓の外、最後の西日が、真っ白なベッドを淡く染める。

何か、大切なことを忘れている気がする。
だけどこんなにも満ち足りているなら、きっと気のせい。



腕の中で、瞳を閉じた。
遠くから、誰かが、自分を呼んでいるような気がしたけれど。
気のせいだろうと思い込む。
夢のような幸福に包まれて。



   ***



澄み渡る空。白い雲。風が穏やかで、気持ちいい。
城の庭で初夏の空気をいっぱいに吸い込んで、マルスは洗濯物を干していた。
木の枝に渡したロープに、真っ白なシャツをかけていく。

ロイとマルスの関係が認められた時点で、こんなことは本当は下働きの仕事なのだろうが、
マルスは身の回りのことくらいは自分でやるし、屋敷の仕事も手伝うと言った。
結果、ロイと、マルスを拾ってきたロイの父親の多方面への説得のお陰で、
マルスは台所以外の仕事は、自分の手でやっていいと認められたのだった。

洗濯は好きだ。真っ白なシャツが、風にはためくのが好きだから。
陽の光をいっぱいに浴びた、あたたかなシーツの匂いも。

「……と。……よし、終わり」

最後の一つを干して、マルスは満足そうに一息吐いた。
目を細めて、洗濯物越しに太陽を見る。
きらきらと、初夏の光にきらめく風景。

「……」

規模はけっして大きくは無いが、のどかな風景によく馴染んだ城。
聞けばロイの父親は、地方一の騎士と謳われる人物らしい。
強く、自分に厳しく、民に優しい領主に恵まれたこの土地の人は、皆とても優しかった。
その中で育ったロイもまた、とても強く、そして優しい。
傍にいると、炎みたいにあたたかい。

ここでの暮らしにも、だいぶ慣れた。穏やかな気候。
これから自分はずっとここで過ごしていく。
何かに怯えることも、失うことも、
人を殺すこともない。


「……?」


そう思う、ということは。
自分は何かに怯え、失い、
……人を、殺したことがある?


「……」


だけど。
そんな記憶がどこにもない。まっしろな手のひら。
自分には、特別なことが何も無い。
だから、人を殺したことなんかない。

「……僕、……」

知らない。
特別な命が持っている祝いも、決められた呪いを守るものだって。
そんな残酷なものは知らない。
だって自分は、ただの、ごく普通の、ありふれた人間だから。

無いはずの記憶に、マルスは戸惑う。一体、誰? これは、何?

だけど当然、返事は無い。

「マルス! マルス、こっち!」
「え?」

ふいに自分を呼ぶ声が降ってきて、マルスは辺りをきょろきょろと見回した。
何気なく視線を上にやって見れば、ロイが自室から、マルスに手を振っている。

「ロイ」

大切な名前を呼んで、マルスは華奢な手のひらを振りかえす。
晴れ渡る青空の下で、太陽の光を受けながら。
風が頬を撫でる感触。空をゆく鳥、歌う花。風景を美しいと思う胸。
赤い髪が揺れて、碧色の瞳がマルスに笑いかける。

瞳に映る全てを、愛しいと感じながら。



マルスは耳の奥に、自分を呼ぶ声を聞く。
絶えず、耳障りな程に、名前を呼んでいる声を。
誰の声だか知っている気がするけれど。
理解から、そっと目を逸らして。



   ***



昼を過ぎ、お茶の時間より少し早い時間、この城の中庭では、兵士の訓練が行われる。
日当たりの良い芝生の上、各々の武器を握り締め鍛錬を積んでいる様子を、
マルスは離れた窓に寄りかかり、ぼんやりと見つめていた。
はじめはすぐ傍、それこそ中庭その場所で見学していたのだが、
ロイの従者だという騎士に、止められたのだ。
万が一、何かが起きた時、貴方に傷を負わせるわけにはいかないから、と。
それは戦う術を持たない青年に向けての至極当然の言葉だったから、マルスは素直に従った。

「……」

時間を積み重ね身体を悪くした領主と、発展途上の、時折器の大きさを垣間見せる少年。
人々を守る彼ら。彼らを守るために振るわれる剣。音をたてる槍、弓と戦闘斧。
……その守るべき小さな主は、今日も今日とてその中に混ざって剣を振り回しているわけだが。
槍を相手に剣で向かって、しっかり返り討ちにもあっているけれど。

だから何でロイ様がここにいるんですか、うるせえ別にいいだろ、と聞こえる会話。
仲が良いかは解りかねるが、信頼でつながれた輪。
微笑ましく思い、マルスの頬が、幸せそうにゆるむ。

懐かしい風景だ。
誓いを捧げた騎士達。
そして、
騎士の守る、たった一人の……。


「……   っ!」


ふいに。
マルスは目を見開き、そして苦しそうに額をおさえた。
瞳にうつした場景が、耳に届く金属音が、肩に走った痛みが、

何か   大切なものに、似ている気がして。

「……何、」

うつした情景は、真っ赤な風景。
焼かれた空、大地を叩く雨、手足を汚す泥、緋が落ちる銀。
戦場だ。
肩に伝う痛みに耐えかねて、マルスはその場に崩れ落ちる。

焼かれた城、大地を叩く蹄、手足を汚す赤、命が落ちる剣。
頭の中を、たくさんの情景がめぐっていく。
西日の中で目を覚ましてから、ずっと目を逸らしていた記憶。
青空も、当たり前のような平穏も、傍にいる彼も、
本当は。

「……違う、……違う、僕は……っ」

何の変哲も無い、一般市民。戦争に巻き込まれて、色々なものを失った。
剣なんて知らない。肩の怪我だって、特別なことは何も無い。
たくさんの人に守られるべき、そんな特別な命ではないから。
普通に生まれて、普通に暮らして、普通に死んでいく、ただの命の一つ。
だから。
だから   ……。

「……   っ、」

誰かが、呼んでいる。
マルス、マルス、と、執拗な程に、自分の名前を。
耳の奥に響く声を、マルスは知っている。
これは。   この声は。


手の中の、穏やかな毎日。
綺麗な青空、頬を撫でる風、彼の隣にいることが、当たり前であるということ。
抱きしめる腕も、思っているよりもずっと大きな手の、子供みたいな体温も。
愛しい風景も、二度と訪れない戦争も、真っ白な手のひらも。


「…………!!」

知っている。
知っている。本当は。



   本当は……。















   ***



涼やかな水のせせらぎが光のようにまばゆい、そんな季節に生まれた。
戦いの神様の名前を戴いて、城の中庭の空だけで育った。
やがて世界には戦争が訪れて、たくさんの人が死んでいった。
彼を守ると言ったたくさんの人を殺し、彼を殺すと言ったたくさんの人を殺し、
戦争は時を越え肥大した。

失った家族。
たくさんの騎士と、民と、戦友達。
人殺しの指導者。
英雄王。

失ったものの名前だって、全部覚えている。
この手を染めた色の名前だって、全部全部覚えている。


わかっている。
知っている。
本当は、

本当は……。






「……マルス?」

闇に落ちかかった意識を、その声は呼び止めた。
それに気づいて視線を上げれば、そこには赤い髪が揺れている。
碧色の瞳が覗いている。まぶしい程に真っ直ぐな意志。
潔い程身勝手で、悲しくなる程優しい彼の心に、
惹かれたことを、思い出した。

「……マルス」
「……うん」

いたわるような声が、マルスを手前で引き上げる。
藍色の瞳を取り戻して、倒れていた身体をゆっくりと起こした。
上半身だけを起こしたマルスの目の前に、彼は立っている。
炎のように、確かで、危うい存在感を、その身に宿して。

「……驚いたよ。……倒れてて……、どうしたんだ?」
「……うん。……なあ。ロイ」

居住まいを正して、マルスは少年を見上げ、真っ直ぐに彼を見つめた。
真っ暗な部屋。部屋というよりは、空間。
どこだろうと疑問に思うことも無い。マルスにはもう、名前がわかっていたから。
巡る情景に彩られた、美しい場所の本当のことだって。

「……ここにいれば、いいだろ?」

マルスが続けて口を開く前に、少年の声がそれを遮った。
唇に指を軽く押し当てられて、ほんの僅か、止まる思考。
誘惑のような声が風のように、マルスの耳をくすぐる。

「ここにいれば……、いいじゃないか。
 あんたを怖がらせるものは無いから、もう、怯えなくていい。
 俺は絶対いなくならないから、失うことを怖がらなくていい」
「……」
「もう剣を持たなくていいから、あんたは人を殺さなくていい。
 ……悪いことなんか、一つも無いだろ?」
「……ああ。そうだな」

それが本当ならば、どんなに良かっただろう。
もしも自分が、あの世界の、あの国の、あの場所に生まれていなければ。

追われることは無く、失うことも無く、そして手を汚すことも無かった。
誰にも言ったことは無いけれど、どんなに焦がれたことだろう。
後悔だってしたことは無いけれど、それでも。
この身に迫る、言い様の無い自責の念も、確かに自分のものだったから。

「何度も考えた。……考えては、いけないことなんだろうな、本当は。
 僕は、僕が望んで、僕に生まれたわけではないんだ。
 呪いたかったことも、怒りたかったことも。……僕は、本当は……」

目の前の少年は、マルスの声を聞いている。
留まらずに流れていくだけの、ゆるやかな水のような言葉を。
開かれた扉。行けるはずの無い、水面の向こう側。
知らないものに満ちていた世界で得た、たくさんの気持ちを。
知っている、忘れたことはない。
この先何が起こっても、きっと。

「……だけど、」

だけど。

「……僕の守りたいものは、僕の世界にしか無いんだ。
 ……僕は……、お前の手を、取るわけにはいかない」

花の儚い表情によく似た顔で、マルスは微笑む。
何事も無いような錯覚に陥るほどに、当たり前となった日々の中で、
愛しいものは増えて、守りたい思いも強くなって、
それはいつか、揺ぎ無い願いになって。

夢のような幸福の、いちばんの証は。
唇を開いて、呟く。

「……元の居場所へ帰れば……、あんたは、王子様だ」
「ああ。わかってる」
「……どういうことだか、わかってる?」
「わかってるよ。
 色々なことに怯えるだろうし、失うものもあるんだろう。
 今までと、おんなじように。剣を、取って……、」

そこまで答えてから、マルスは大きく息を吸い込んだ。
後悔をしないと決めたから、いつだって足元にはたくさんのものが散らばっている。

そうだ、自分は。
たくさんのものを守るために生まれてきた、水の王国の子ども。
大切なものを失って、失い続けて、立ち止まることも出来ない。
守りたい思いだけが、ずっと昔から一つだけ、変わらないものだから。

「……絶対、楽しいことばっかりじゃない。
 ……絶対、つらいことの方が多いはずだ。
 ……それでも?」
「ああ。それでも、だ。……だって、僕は」

芽生えた思いを、捨てられない。

「……思ってくれたのは、お前の方だろ?」

救われた想いを、裏切らない。
愛しいと感じるこの心の重たさを、知ることが出来たのは、彼がいたからだ。
一度は捨てた選択肢を拾い上げ、一体いつから考えるようになったのだろう。
彼が笑うまま、望むまま、祈るままに、


幸せになりたいと、願うようになったのは。

「ロイが言ったんだ。
 ……僕がどれだけ苦しくても、全部僕のものだから。
 ……だから、僕を、愛している、って」

マルスは少し照れくさそうに、頬を赤く染めて笑う。
いつか必ず、終わりは来ると知りながら。

「だから、僕は、帰るよ。……ロイのいるところに」
「……。……うん。そっか。わかった」

遠くから、誰かが呼んでいる。
意識を掬い上げるように、何度も何度も、繰り返し。
声の持ち主を、目の前の幻の名前を、知っている。
自分の思い描くそれに、いつのまにか、彼が存在していたなんて。
思ってもみなかったのだけれど。

「じゃあ、いいよ。帰してやる」
「うん。ありがとう。さよなら」

自分の腕を支えに立ち上がり、くるん、と踵を返して。
一度だけ振り返り、マルスは言った。

「……こんなことを言うなんて、卑怯かな。
 ……嘘は無いんだけど、でも、僕は……、」

この足で、どこまで歩いていくのだろう。


この手で抱えきれないほどの星のかけらを、いとおしいと感じながら。


      ……」



それだけを言い残して、マルスは走り出す。
先の見えない闇の中、どこへ向かうのか、一片の迷いも見せずに。
走って、走って、走り続けて、







      そして。


















   ***


「……ルス、おい、マルス! ……マルスっ!」
「……ッ。……、……ん……、」

頭の奥まで響くような呼び声に、マルスは重いまぶたをゆっくりと上げた。
焦点が定まらない視界の中で白い天井がぶれて、ここはどこだろうとぼんやり思う。
背中に当たる布団のやわらかさに意識を押し上げられながら、首を僅かに傾けると、
途端に右腕の付け根が引き攣れた。突如襲う痛みに、開いた瞳を閉じてしまう。

「痛っ……!」
「マルス! ……、マルス……!」
「え……、……っ、」

次に身体を襲ったのは、上半身に何か、重いものが圧し掛かる感覚だった。
痛みに続くそれの衝撃に助けられながら、頭の中がはっきりと覚醒してゆく。
窓の外に広がるのは、目に刺さるようにまぶしい、晴れ渡る青い色。
そして、自分の一番近く。首に腕を回して、しがみつくようにくっついている、それ。

「……、……ロ、……イ……?」
「マルス、……マルスだよな!」
「……? うん、そうだけど……」

しつこい程に名前を呼んでいる、確かにそれは、ロイだった。
はねた赤い髪が顎をくすぐる感触に、なぜか懐かしさを感じながら、
マルスはそれを引き剥がそうと、軽く身じろぎながら彼を呼ぶ。

「ロイ……? ……、……重い、んだけど……」
「良か……、……起き、な……かと、思……っ」
「……? ……ロイ……?」

こちらの声が届いていないのだろうか、ロイはマルスにしがみついたまま、
マルスの与り知らないことを呟くだけで、どうしても離れようとはしなかった。
困ったように首を傾げながら、視線を窓の反対側、部屋の扉に向けてみる。

すると。

「……ああ。おはよう。目が覚めたのか、マルス?」
「おはよう、マルスさん。ひさしぶり」
「リンク、……ピカチュウ。
 ……おは、よう……? ……うん、久しぶり……」

扉が小さな音をたてて開いて、現れたのは、リンクとピカチュウだった。
返す台詞の内容に多少の違和感を感じながらも、マルスはとりあえず微笑んでみる。
つられるように笑ったリンクの手には、お盆と、その上に水とお粥があった。
リンクが作ったんじゃないから大丈夫だよ、と、さりげなくピカチュウがフォローを入れて、
どうせオレじゃあ無理だよ、と、リンクが少し拗ねたように返して。

「気分は? あんまり、動くなよ。……って、それじゃ動けないだろうけど」
「……。……僕……?」
「覚えてないのか? ……えっとな、右肩と、左の脇腹の辺り……、」

サイドテーブルにお盆を置いて、リンクは指で順番に示す。
目立つのはそれくらいだけど、細かい傷はもっといっぱいある、と言いながら。
リンクの頭の上からピカチュウは枕元へ跳び下りて、鼻先をマルスの頬へ軽く押しつけた。
するとその部分が僅かに痛み、何か、怪我をしているのだ、と理解できた。

「お前が、自分の“世界”に帰ってて。それで、三日前に帰ってきたんだ。
 だけどお前、体が、……ひどい、状態で。それで、ずっと寝てたんだよ」
「……ずっと……?」
「うん、そうだよ。後一日目が覚めなければ、駄目かもって   

ピカチュウは甘えるように、マルスの髪にころころと懐いている。
ふかふかの毛並みを撫でてやりながら、それでも瞳が大きく見開かれていた。
言われてみれば身体中に、痛いところがあるような気もしてくる。
駄目かも、って。
それは、つまり……。

「……ごめん。……心配……かけた、……よな?」
「血塗れで帰ってきて、心配しない奴がいたら、ちょっと驚くぞ。
 ……オレとピカチュウは、ちゃんと信じてたから。それよりも、」

リンクは苦笑しながら、未だマルスに抱きついたままのロイを指差した。
藍色の瞳がそちらへ移るが、ロイは顔を上げなかった。
圧し掛かる身体が、僅かに震えているような気がしたけれど、
気づかないふりをして。

「オレ達はいいから、そいつに謝っておけよ。
 ……わかるだろ、言わなくても?」
「……」
「マルスさんが眠ってる間、ずーっと傍で、マルスさんのこと、呼んでたよ。
 マルスさんもそうだけどさ、ロイさんも、休んだ方がいいと思うよ?」

ね、と言ってピカチュウはマルスから離れ、再びリンクの頭の上に跳び乗った。
それをきちんと受け止めてから、リンクもマルスの髪を、子供にするように撫でてやる。
子供扱いするなという反論さえも出てこず、仕方ないから素直にお礼を述べてみると、
早く元気になれよ、という言葉が返ってきてしまった。

離れた手のひら、そんなやり取りの最中でさえ、動こうとしない赤い子供。
マルスは助けを求める視線をリンクに送ってみたが、
残念なことに、それに対する答えは返ってはこなかった。

代わりのように溜息を吐いた後で、リンクは笑う。

「じゃあ、オレ達は行くな。ちゃんと休めよ」
「また後でね、マルスさん。ロイさんも」
「ああ。……ありがとう」

手を振り遠ざかる大きな背中。緑色の頭の上で、ピカチュウのしっぽが揺れている。

やがて扉は閉じられ、部屋の静寂に残されたのは、ロイとマルスの二人だけ。

「……」
「……」
あたたかな子供体温に癒されながら、マルスはそっと息を吐く。
右腕は動かしたくないので左手を持ち上げて、小さな背中をぽん、と叩いてやった。
こんな行為は彼を怒らせるとわかっていたが、こうする他には無かったのだ。
リンクとピカチュウがいたから、絶対に口には出来なかったけれど。

「……」
「……ロイ」

言葉の無い空気に、僅かに響いたのは、喉の奥が引きつったような微かな声。

マルスは、困ったように微笑む。

「……ごめん。謝るから、泣くな」
「……ぃてなんか、ねえよっ……」

挑発に乗ってくれたのか、少年の意地だったのか。
マルスの言葉に、ロイはようやく顔を上げた。
手の甲で拭った瞼。涙こそ見えなかったけれど、目の端が、鼻の頭が、
僅かに赤みがかっているのを、マルスはちゃんとわかっていた。

目を覚ましてから初めて、ようやく見ることが出来た。
大嫌いだと言った赤い色の髪。遠い昔を思い出すような、碧色の瞳。
ロイはどこか悔しそうな、怒っているような、なによりも悲しそうな顔で。
真っ直ぐに、マルスを見ている。

「……ごめん。心配してくれて、ありがとう」
「……心配、なんて、もんじゃねえよ……!
 ……俺も、信じ、てた……けど、でも……」

ぎこちない呼吸を隠すように、ロイは再び腕を伸ばし、マルスを抱きしめる。
伝わる鼓動が、聞こえる吐息が、全てこの身体の近くにあること。
はねた髪を指で梳いてやりながら、マルスはぼんやりと思い出す。
闇の底のことを、眠っていたらしい間のことを、自分を呼ぶ声のことを、
走ってきた道のことを、
目の前で確かに感じられる、たった一人のことを。

「……マルスが、ちゃんと、起きて……良かった」
「うん。……なあ、ロイ。僕は……」

そう、あれは夢だったのだろう。そして確かに、触れられない現実だった。
繰り返し、繰り返し、何度だって、自分の名前を呼んでいた。
闇の向こうに落ちていきそうな意識を、手前で何度も引き上げた。

知っていたことは、確信に変わる。
ここにある言葉と、現実によって。

だから。

「お前の世界に生まれて、お前のお嫁さんになって、ずっと一緒にいるのも。
 ……きっとおなじくらい幸せになれるだろうって。思うのも、本当なんだ」
「…………。
 …………は?」

怪訝そうに聞き返したロイに返事はせず、マルスは満足そうに目を閉じる。
窓の外。
あたたかな光と、手の中の小さな炎に、いつかは終わる幸福を確かめながら。

知っている。
自分を現実に引き戻そうと、何度も自分を呼んでいた声。
持ち主の、名前を。

「……何だよ、それ」
「……なんでもない」

はじめから、きっと終わりまで、きっと傍にいて、助けてくれるのだろう。
いつか、そう遠くは無い未来。
終わりが、別れが、この身におとずれるのは、怖いけど。

「……助けてくれて、ありがとう」
「……」

ロイの理解を置き去りに、それでもマルスは微笑んだ。
ロイが望んだ、花のような祝福に満ちた顔で。





見るだけの夢。叶わない願い。遠い追憶。恋した記憶。
一度は手に入れかけて、そして自分で放棄した。

閉められた扉、揺れる水面のこちら側。
手を伸ばし、忘れかけた、最後の情景。


二度と夢見ることの無い、世界の名前   ……。

- Eden -


思いきり夢見がち少女漫画ですみません。

王子の楽園にロイ様がいることよりも、
ロイ様の世界に王子がいる=王子の世界に王子がいない、ということの方が、
どちらかと言えば……重要……なのか……? ……みたいな。(何)

お付き合いいただいた方、ありがとうございました。

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