それは、少女の名前だった。 黒い服で悲しみをかくしながら、 赤い靴を愛で続けた、 小さな娘。 「……」 「ああ。……やっぱり。そろそろ来る頃だと思った」 部屋の扉を開けたところで立ち尽くしているマルスに、リンクはやわらかな笑顔を向けた。 そんな表情、かけられた声に、マルスは腹立たしげに顔をしかめたけれど、 反論できる言葉さえ考えつかなかったのか、やがてゆっくりとリンクの元へやってきた。 ベッドに腰掛けて座るリンクの目の前で、マルスは立ち止まる。 落ちる前髪に隠れて見えない彼の目を見上げ、リンクは森の静けさを宿した瞳で、笑った。 「ドアの向こうから、声が、聞こえてたからさ」 「……」 「だから、そろそろ来る頃だと思って。……座れば?」 「……ありがとう」 ぽん、と示された隣。 マルスは押し殺したような声で、それでも心からのお礼を述べた。 示された隣の位置ではなく、マルスはベッドを背もたれに、床へ腰を下ろす。 木製の寝台が、きし、と音をたてたのに混ざって、ここでいい、と届く呟く。 子供みたいな意地を知っていたから、リンクは何も言わなかった。 「……」 「……」 膝を抱えてうずくまったマルスを、リンクは見下ろしている。 先刻、廊下から聞こえてきた声。 要するに、いつもの喧嘩だ。 お互い大事に思っているくせに、大切に思いすぎて、から回るような。 こんな喧嘩は何度もあったことで、つまりは全く成長していないということだが、 そんなところも微笑ましい ただ、マルスは、彼の小さな恋人と揉めると、自分のところへ逃げてくる。 だったらその時は、ただ待っていればいい、と自己完結している自分にふと気づいて、 リンクは少し困ったような顔で溜息をついた。 そして。 「相変わらず、あいつには素直じゃないんだな。 ……マルスらしいと言えば、らしいけどさ」 「……」 結局、いつもの声を、リンクはかけている。 膝を抱えた腕に顔をうずめて、マルスがそれを聞いている。 あくまでも軽い調子で告げられる言葉。穏やかな声。 「言葉にしないと、伝わらないことだって、あるんだぞ」 「……うん。……わかってる……、」 わかっている、という返事通り、マルスはちゃんとわかっている。 ……だけどどうにもならないから、こういう事態になるのだけれど。 不器用だな、と人のことは言えない一言を呟いて、リンクは苦笑した。 マルスがロイに秘密主義を崩さないのは、頼りすぎるのが怖いからだ。 あんまり寄りかかって、重荷と思われて、嫌われはしないか。 そのロイはと言えば、そんな考え方が常であるマルスを見ていられないから、 何でも話してほしいし、もっと何でも頼ってほしい、と思う。 結局いつもここでずれが生じて、意地の張り合いになって、喧嘩になって。 マルスは逃げてくる。リンクのところへ、リンクを頼りに。 恋人ではない、親友だから。 「……」 「……いいじゃないか。別に……、もう少し、甘えても」 リンクのあたたかな手のひらが髪を撫でて、マルスはふと顔を上げた。 藍色の瞳が戸惑いに揺れて、リンクをじっと見上げていた。 言葉にしない想いを胸にかくしながら、ぽつりと、声が続いた。 「自分が一番大切に思っている相手が、自分を一番大切に思っている、って。 ……すごい幸運なんだからさ。もっと、大切にしてやらなきゃ」 「……。……リンク、」 揺れる瞳に、木洩れ日のような青年がうつる。 思わず口にした名前が、呟きが耳に届いたほんの一瞬、見せた顔。 髪に触れる体温。 「……あの、」 リンクを見つめて、マルスは唇を開く。 何か、とても悪いことをしているかのように。 「……うん?」 「……。あの……。……リンク、」 言葉にしなければ、伝わらない。 ふたつの意味を持つ、ひとつのことば。 「……リンクは……。」 あたたかな季節。 息が詰まる程の静寂が、部屋に落ちる。 言いかけた何かが掻き消えた、 「マルス!」 「!」 閉じられていた部屋の扉が、派手な音をたてて開かれた。 二人が思わずそちらに目をやれば、想像できても予想できなかった少年が、 部屋の空気を引っ繰り返すような存在感で、そこにいる。 常ならば、丸一日は拗ねてマルスを避けるだろうロイは、 真っ直ぐにマルスだけを見て、つかつかと歩き、そして目の前で立ち止まった。 不機嫌そうな顔で、ほんの一瞬、リンクに目を向けて、 ロイは、ベッドに寄りかかり座ったまま、呆然としているマルスを見下ろす。 「マルス」 「……ロ、イ」 名前を呼ばれ我に返ったのか、マルスは慌てた様子で立ち上がった。 ロイより高い身長で見下ろせば、やはり不機嫌そうな視線が返って。 ロイは表情を変えることも無く、無造作に手を伸ばした。 発展途上の手はマルスの細い手首を掴み、無遠慮に引く。 「っ、……わ、何っ……ロイ!?」 そして、そのまま。 ロイはマルスに、まるで甘えるように抱きついた。 一瞬抵抗しかけたマルスは、後ろを覗いてリンクを気にしたが、 リンクは既に、大して驚いた様子も無く、 いつもと同じ、少し困ったような顔で、二人を見ていた。 「ロイ」 「……何で、」 拗ねた顔でマルスの肩に顔をうずめたまま、ロイは呟く。 擦れるような、誰にも聞かせたくないような声で。 「……何で、こんなとこ、来るんだよ……。」 「……え?」 その時、瞳の碧が鋭い光を帯びて、肩越しにこの場の傍観者を睨みつけたが、 リンクは微笑んで肩を竦めただけだったし、マルスは気づかなかった。 行き場の無い手が、おろおろと背中の辺りを彷徨う。 ロイは、マルスを抱きしめる腕に力を込めて、今度こそ彼に言った。 「ごめん」 「……え」 「俺が、悪かった。……でも、あんたも悪いんだからな」 「……」 どっちも悪いから、両成敗で文句は無い。 そう言いたげに、ロイはマルスの肩に額を寄せる。 困惑気味に視線の所在をも彷徨わせたいたマルスは、やがて小さく息を吐くと、 拒絶にならないように注意深く、ロイの肩を両手で押し返した。 「……ああ。……ごめん、なさい」 「……。」 深い藍色を見つめて、ロイは絡めていた腕をそっと離す。 どこか幼さが見え隠れする、淡い微笑み。 そして、 「ッ!! 何するっ、……っのバカ!!」 「ってぇッ!!」 背伸びをして、マルスの頬に軽く口づけたロイを、 マルスは全力でぶん殴った。 「何すんだよ!?」 「お前ッ、……ここが、どこだか、わかって……!」 「……え。ああ、そうか」 赤く腫れてきそうな頬を押さえながら、ロイはようやくリンクのことを思い出す。 リンクはと言えば、痛そうだな、と笑うだけで、特に何も思うところは無いようだ。 無いと言っても、いつも通りのバカップル、くらいは考えているだろうけど。 暗い影を落とす、瞳。 振り切るようにロイは、マルスの肩にじゃれつく。 「ごめんごめん。機嫌直せよー。な〜? あ、そうだ、マルス!」 「……何だ?」 「ああ、そんな顔もかわいいなあ! あのな、ちょっと出かけないか、って」 「出かける?」 「中央区に、新しいお菓子屋さんが出来たんだよ。 何か、アメとか金平糖とか、色々ビンに入ってて可愛かったからさ。 行こうぜ、な?」 「……。……別に、いいけど」 お前、そんなところばっかり、女の子みたいな趣味、してるんだな。 呆れるようにそう言ったマルスの背中を、ロイはぽん、と軽く押した。 遠ざかる背中。 ロイが開けっ放しにした扉の前で振り返り、マルスはリンクに視線を向けた。 どこか、ぎこちない微笑みと共に。 「あの、リンク。……ありがとう」 「え? ……いや、別に。オレは、何もしてないし」 「……。……ごめんなさい」 ぽつり、と落とされた、謝罪。 返事を貰う前に廊下へと消えたマルスを視線で追いかけて、 ロイは、くるりと振り返る。 ベッドに腰掛けて、少し困ったように笑っている、リンクへと。 「……」 「何だよ」 「……」 「早く行かないと、マルスに、置いていかれるぞ?」 いつだって、そう言って、ロイとマルスの間にできた亀裂を、器用に埋める。 優しくて、強くて、あたたかくて、どうしようもないお人好し。 「……、お前……。」 「……何だよ?」 そして、嘘を言わないかわりに、本当のことも言わない。 卑怯者。 「……いや……」 悪いことだと、知っている。 本当のことを知りながら、その優しさに寄りかかって、知らないふりを繰り返す。 胸の奥に、何か鈍い痛みを感じるけれど。 その棘が、優しさの色を佩いているから。 手から離すことが、出来ないでいる。 「……何でも、ねーよ」 「そっか。なら、いいんだけど」 ささやかな復讐。分け合えなかった幸福への。 やがて、ロイが部屋の外へと消えれば。 部屋には一人、優しく笑うリンクが、残された。 それは、少女の名前だった。 悪いことだとわかっていながら、 赤い靴を履き続けた、 小さな娘。 いけないと言われた赤い靴を履いた娘。 足を斬り落として、真の幸福を手に入れた娘。 斬り落とせない足に、潰れた赤い靴を履く。 いつまでも、いつまでも、踊り続ける。 いつまでも。 |
私はこんな感じで解釈しています。あのお話。