1. Respiration
「マルス」
沈黙が支配する部屋の中、ロイは愛しい名前を呼んだ。
本に向けられていた視線が、僅かに傾いてこちらを向く。
全てを透き通し、誰もつかめない藍の色を持つ瞳。
傍により、手を伸ばして、青い髪に触れた。
「……あのさ、……抱きしめても、いい?」
「……は?」
素直に問うと、驚きに目が見開かれる。無理もないだろう。
いつもは何も言わずとも抱きしめるし、口づけだって無許可でするくせに。
戸惑いながらもマルスが頷いたのを見ると、ロイは今度は腕を伸ばした。
正面から、優しく、包むように抱きしめる。
マルスが椅子に腰掛けている為に、ロイの方が視線が高い。
溶けるような部屋の温度。蜜を焚いたような甘い香り。
ロイは、マルスの髪に、そっと唇を押し付ける。
冷ややかな感触は、そのまま彼自身の心を表しているかのようで、
ほんの少し、寂しくなった。
「……ロイ?」
「……。……何」
「……どうしたんだ? ……何か、あったのか?」
「……別に、何も」
どうせ見破られる嘘をついて、ロイはマルスを抱きしめる腕に力を込めた。
中に血の流れる温もり。上下する肩。
どれほど捕まえようとしても、捕まえきれているのかわからない。
ずっと一緒にいると言っても、守れるかどうかわからない。
本当のことを言ってしまえば、マルスは怖がって離れていってしまうので、
ロイは何も言わない。いつもの調子を装って、見破られない嘘をつく。
真っ直ぐな言葉を手向けても、手折れとばかりに抱きしめても、
怖がりが治るなんて、きっと、一生、おとずれない。
何かに集中して喋らなくなれば、息さえ掻き消えてしまいそうな程に、
マルスは気配を無くす。
今この場で抱きしめなければ、消えてしまいそうで怖かった、なんて、
言えるわけもなかった。
2.Legislation
「僕は、人間を、許す気は無い」
風が吹きすさぶ草原の真ん中で、青い空を見上げながら、ピカチュウは言った。
いつもと変わらない、親友の頭の上に、しがみつくように乗って。
親友が人間であるとわかっている。わかっていながら、こんなことを言う。
リンクは少し悲しそうな顔をするが、ピカチュウは言葉を撤回しようとは思わない。
これは本心だ。
誰が何と言おうとも。
「僕は、大切なものを、人間に奪われた。
だから僕は、人間を許さない。
僕は、僕の大切なものを傷つけるものは、許さない」
空。
遠い、空。
一体、ピカチュウの瞳には、何が映っているのだろう。
「でも」
空に捕らわれたものは、もう戻ることは無い。
空のずっと高いところを飛んで、飛び続けて、疲れても休むこともない。
残したものに涙を残した、これが、運命への、罰だと思えば、
どれほどか楽だったが、けっして嬉しくはなかった。
「人間を憎めば、あなたが悲しむから」
厳しい声。それなのにどこか優しい。
ピカチュウはいつでも、本音を言う。
本音の中の、更に深いところに、もう一つの本心を隠す。
リンクはいつでも、それを探っている。
誰も、悲しい思いをしないために。誰よりも、自分が。
リンクがいなくなってしまえば、ピカチュウはきっと、人間を憎むだろうから。
憎しみというのは悲しいものだ。
悲しい思いを、誰にもさせたくはなかった。
「だから、許さないだけにしておく」
大切なものを傷つけるものは、許さない。
それは、自分すらも含めて。
ピカチュウはどこまでも純潔で、どこまでも純粋だった。
たった一つの信念以外、何も信じるものはない。
そんな、頑なな純粋ではあったけれど。
「……あなたを、悲しませたくはないから」
「……そうだな。……オレも、だよ」
そう言って歩く。風の吹く草原。
二人は一緒に笑った。
自分の中に定めた、たった一つのものを、守って、守り抜くこと。
かたちにならない絆を、二人はけっして忘れない。
3.Depredation
わかっていた。
わかっていた、知っていた。
わかっていた、知っていた、理解していた。
この行為が、どれだけ彼を泣かせるかということも。
この行為が、どれだけ己を喜ばせるかということも。
この行為が、どれだけの意味を持つのかも。
この行為が、どれだけの深い傷を残すかも。
わかっていた。
だけど止められなかった。
止めようと思って止められないふりをした。
この行為が、どれだけ彼を泣かせるかということも。
この行為が、どれだけ彼を苦しめるかということも。
わかっていた。
だけど止められなかった。
生まれた想いは溢れ、せめぎ合い、止まることを知らなかった。
炎のように高く、水のように無情な、想いの名前は、
たった一夜きりの、恋、と言った。
腕に縋る彼を抱きしめた。
揺れる瞳に口づけをした。
抱きしめて、抱きしめて、
それでも止まらなかった。
この行為が、どれほどの罪になるかも知っていた。
この行為が、どれほどの傷になるかも知っていた。
それでも止まらなかった。
夜は深く、朝は遠く、彼は近くて、己はわがままだった。
そして、
手の届かないところまで指を伸ばして、命の証明を浮かばせた。
爪を立てて牙を剥いて涙を暴いて泣くような悲鳴を上げさせた。
白い波に光が差すまで溺れ続けた。引き返せない、ところまで。
誰も知らない。知ることができない、知られてはいけない。
罪の代償がどれほどの重さなのかもわからず、後は泣いた。
この行為が、どれほど儚くどれほど確かなものだったのか。
彼を突き放すように背を向けて、知ったのはその後だった。
4.Station
「どうして、俺に構う」
ぽつり、と呟かれたその言葉を、けっして聞き逃さなかった。
髪を梳いていた手を止め、何も知らないふりをして瞳を覗き込む。
血のように真っ赤な瞳だ。
そして、赤い宝石のように綺麗でもある。
「何がだ?」
「お前が一番に見ているのは、俺ではないだろう」
その赤い瞳は、いつも何も見ていないようで、色々なことに気づいている。
感情が無い、わからないと言われた彼は、
その代わりに、自分以外の、色々なものを見ている。
普段、誰も気にしないような細かいところを見ることができる、その瞳は、
騙されやすいのに、とても厄介だった。
「…………」
「俺のところではなくて、その者の傍にいる方が、良いんじゃないのか」
「…………。……そうだな、でも、」
その代わりに彼は、人の気持ちがわからない。
感情と呼ばれる、人の溜まり場。
ふわりと微笑み、銀色の髪を撫でてやると、
彼は、少しくすぐったそうに、肩を竦めた。子供のような顔をして。
「私が誰よりも愛していたものは、この世界には、いないから」
誰にも言ったことのないような言葉を、彼に言い聞かせる。
彼がすべてを理解できないと知っていて。
構うのは、優しさからではなくて、寂しさからだ。
他の誰にも見せられない弱さを、彼が理解できないから。
「別に、お前を身代わりにしている、というわけでは、ないのだがな」
「……そういうことを、聞きたいんじゃない」
色々な思いが交錯して、迷い込みそうになる。
人形のような無表情の中に時折見せる、人間のような横顔に、
ふと、騙されてしまいそうになる。
彼は魔物で、人を好きになったり、愛したりは、しないから。
だから楽なのだ。大切なものにはなり得ないから。
どれだけ言葉を交わしても、どれだけ弱音を吐いても。
「……俺は、」
「……どうしたんだ?」
「…………。
……俺は……、」
微笑んで瞳を覗けば、彼は少しの人間らしさを見せる。
そして、望みを知らないふりをする。
彼が、一人の勇者の心の影だというのならば、
望みを察することくらい、簡単なはずなのに。
「……何、でも、ない」
「そうか。それなら、いいんだ」
卑怯だと、知っている。
だけど、これ以上。
何かを、大切なものにするわけには、いかなかった。
守りきれるという自信の無い、今だけは ……。
5.transmission
未来がどれだけ不幸になるか知っている。
この時間は、いつまでも続きはしない。
いつか必ず終わりがきて、どうしようもなくなる。
だけど。
「なー、マルス」
「?」
始まったから、
終わりがあると、
わかっていても、
どうして、
「俺、マルスが、好きだよ」
こんなふうに、
いつだって、
「……な、」
「マルスは?」
「……、」
ほんの少しの時間だって愛おしくて、
ずっとずっと傍にいたくて、
「……そんなこと、……訊かなくても……。」
「……うん。ありがとっ」
好きだって、
大切だって、
ずっと傍にいたいって、
伝えてしまうのは、
どうしてなんだろう。
それは、たった一つ、大切に想う、気持ちが全てだって。
ずっとずっと昔、誰かが言った。
「3」は、わざとわからないように書いてあります。
暗い話が続いてますね……。
読んでいただいた方、ありがとうございました。