bonnie butterfly
白い三日月が、銀色の星の隣で、その存在を僅かに主張していた。
静かで、深くて、黒くて青い、真夜中。
夜と同じ深い森の中では、清涼な水の音がいつまでもいつまでも聴こえていた。
深さの足りない、浅い川。夜空が映って、水面がきらきら揺れていた。
川に素足を差し込んだ王子は、その冷たさに一瞬、躊躇した。
ぴくりと震える肩。涼やかな音。聴こえる水の音に意識を引き戻され、
王子は今度こそためらい無く、川にもう片方の素足も差し込む。
細い足首を割って流れる水は、ゆるやかに一つになっていく。
雪のような冷たさに息を呑み、王子は川の真ん中へ移動した。
そこで立ち止まり、瞳は夜空を見上げる。
静寂が広がるその場所には、ただ、水の音だけが続いていた。
白い三日月。銀色の星。淡い光は水面で、きらきらと反射する。
朝とも昼とも、夕とも違い、そして暁とも違う。ただ、ひたすら静かな真夜中。
王子は一息ついて、岸に戻ってきた。
足は水の中に置いたまま、薄着のままで腰掛けた。
腕を伸ばして、足首にそっと触れる。幼子を労わるような優しさで。
そこが熱を持っているのを感じた王子は、深く溜息をついた。
そして。
「……マルス?」
「!」
後ろから急に声をかけられ、心臓が飛び跳ねるほど、驚いた。
森の中、茂みを掻き分けてきた少年は、王子を見て一瞬、躊躇した。
皆が寝静まった夜、誰にも知られたくないような空気を持って、
ひとりでそっと、抜け出してきた王子。
こっそりと後をつけてきたのは、王子の身を心配した上での行動だったのだが、
それすらも悪いことのように感じられたのだ。
黒を染めたような夜なのに、王子がそこにいるだけで、すべてが青ざめて見えた。
少年の存在に気づいた王子は、静かに立ち上がった。
いつまでもいつまでも聴こえる清涼な水の音の中、細い足首を晒して、
王子はただ、そこに立っている。
夜の光が水に反射して、きらきら光る、静かな静かな真夜中。
華奢な身体、白い肌、そして彼の証明。深い藍の瞳に、宝石のように青い、髪。
それは、この夜の闇に、とけてしまいそうな程の……。
少年は一歩、前に踏み出た。禁猟区に立ち入るような思い。
既に感情を無表情の中に隠してしまった王子を、真っ直ぐに見つめる。
震える腕を伸ばし、その、細い手首を捕まえた。
ふいにひかれる身体。王子を腕に抱きしめて、少年は肩に顔をうずめる。
王子はほんの少しの困惑を瞳に隠して、為されるがままにしている。
鼻先で髪を避けた先の、薄い首筋に、ロイは、噛み付くように、キスをした。
「……っ」
途端、沈黙を保っていたマルスが、急に腕の中で暴れだした。
少年の肩を押し返そうと、必死で抵抗をするが、少年はそれを許さない。
抵抗すらも殺してしまうような力。締め付けるように抱く。
強すぎる力に、王子は身体を震わせる。けっして、声は出さずに。
放せ、とも、やめろ、とも言わない。それは余計に、少年を苛立たせる。
何も言わずに、ただ、為されるがまま。
自分だけが被害者という顔をして。
少年は王子の顔を覗く。夜の静寂の中、いつまでもいつまでも水の音だけが聴こえる。
白い三日月と、銀色の星に晒される喉も、
夜の闇に紛れ込むような藍の色も、
すべてが青ざめる幻を見せる、青い髪も、すべて。
……これは、檻だ。夜という名前の、銀色をした、青い、檻。
彼を、王子を、マルスを守るためだけの。
すべてから逃れようとする王子を守るためだけに作られた、現実のものではない場所。
そうでなければこんなにも、綺麗な人がいるはずがない。
外見だけは無い、心ごとすべて。
壊したくなるほどに、綺麗な人間なんか、絶対に。
何かが音をたてて、ロイの心の中で、壊れた。
少年は、王子を抱きしめていたその腕で、突然華奢な肩を突き飛ばした。
仰向けに倒れる身体はそのまま、浅い、川の中に落ちた。
夜の静寂が一瞬だけ破られる。水飛沫をあげてはじける、大きな水の音。
強かに背中を打ちつけた王子が起き上がる前に、少年は王子の上に圧し掛かった。
この状況でまだ、痛み以外の感情を隠したままの、青い王子。
少年はそのまま両手を伸ばす。
ただ一つ、
マルスの、白い喉を捕まえた。
「……っ……!!」
手に込められる確かな力。ロイの瞳は、何も映してはいない。
首を絞める手から逃れようと、王子はもがくが、どうにもならなかった。
耳元で流れ続ける、涼やかな水の音。意識が遠くなる。
薄く開いた瞳の先には、少年の無感情な無表情。そして、その先には、
白い三日月と、銀色の星が見えた。
冷たい水にさらされる身体。喉を圧迫する力は、少年のものだ。
王子は震える手を伸ばして。
「…………っ、ぁ……、」
「……」
「…………ぃ、やだっ……!!」
「……!!」
それは。
確かに、その声で紡がれた、この世界への、未練だったから 。
王子の指は少年の腕を、掻き毟るように傷つけた。
自分を殺そうとするものへの、純粋な抵抗だった。
それに応えるように、少年は細い首から、するりと手を離す。
夜の静けさ。きらきら光る水面。いつまでもいつまでも続く、水の音。
喉を解放されて咳き込んだ王子を引き起こすと、
ロイは、王子の首を絞めたのと同じ手のひらで、マルスの背中を撫でた。
それはとても、とても優しい、やわらかい体温。
髪の先から、指の先から、いろいろなところから水滴をしたたらせながら、
王子は必死に酸素を求めた。深く息を吸い込もうとするが、思うようにはならなかった。
その間もずっと少年の手は、背中を撫で続けている。
「……良かった」
「……?」
「もし、あんたが、嫌だ、って言わなければ」
夜のように深い、藍の瞳。
「殺そうかと思ってたんだ。あんたが消えて、なくなる前に」
「…………」
ほんの少し、申し訳なさそうな顔をしながら、ロイは微笑んだ。
その微笑みとは裏腹の言葉。殺す、と、確かに少年は言った。
背中を撫でている手の温度は心地良かったが、それでも、
王子は、言葉を失わざるを得なかった。一体自分は、何を言えば良いのか。
逡巡する王子を見透かすように、少年はふ、と表情を緩める。
「あのな」
「…………」
「怪我。今日、してただろ。大丈夫か?」
「…………」
こくん、と王子は子供のように素直に頷いた。別に否定するところではない。
己の怪我も省みずに、ひたすら前線で敵を斬り続ける王子の姿は、
さぞかし壮絶だったのだろう。少年は困ったように笑い、首筋を撫でた。
「あのな、」
「…………」
「こんな、戦いばっかの毎日で。いっつも血まみれになってて。
生きることに必死になるのって、すごく難しいと思うんだ」
黒い、黒い夜の闇を払うような、優しくそして力強い声は。
水のように冷たい胸の中を侵食して、とかしていくような。
檻を壊して手を伸ばす、その絶大な力。それこそが少年の力だった。
「けど、簡単に、死のうなんて思うな」
「…………」
「俺、マルスのこと、好きだから」
「…………。」
そう言って微笑む少年は確かに今、王子の目の前にいた。
自分を氷のような川に突き落として殺そうとした、無感情な無表情を覚えている。
引き起こしてずっと、背中を撫で続けていたその手の温度も、理解している。
いつだって消えることを覚悟して剣を振るい続けてきたのに、
どうしてあの時に限って、死にたくない、などと思ったのか、まだわからない。
青が混ざり込んだ深い闇は、未だ、世界全体を抱きしめたまま。
深い深い森の中に、川は流れ、いつまでもいつまでも涼やかな水の音をたてながら。
高い空の中には、白い三日月と、銀色の星がふたつ、並んで。
二人がいる水面を、きらきらと輝かせたまま。
蝶が一羽、ふわりと飛んで、静寂に溶け込んだ。