― 楓 ―



こうして、二人だけで。
何も考えずに散歩、というのは久しぶりかもしれない。

「……」
「……」

にぎやかな商店街を抜け、綺麗に整備された道を歩く。
すっかり秋色になった街路樹の葉が、
冷たいコンクリートの、舗装された道路に、あたたかみを加えていた。

大分冷たくなった風に当てられ、お互い、会話も無く歩く。
普段なら、どちらかが適当に話を振って、
適当に会話が成立するのに、今日は何故かそれが全く無い。


   お互い、本当は、こんなところにいるべき人間ではない。

本来『いるべき場所』によく似合う、冷たい風に当てられ、そう思う。
全く違う、それでいてよく似ている、故郷での日々を思い出しながら、
二人はやはり会話も無く、歩いていた。
右隣を黙って歩く、彼の顔をちらりと見上げる。
さらさらと音が聞こえそうに、青い色の髪を風向きにまかせている、
その下の白い肌が、妙に不安げに見えた。

「……マルス?」
「え? ……あ……」

考え事をしていたのか。
ふ、と気づき、こちらを向く。
藍色の瞳が、まっすぐ、自分を見た。

「……何、だ?」
「……いや……、……何でも、ないけど」

気づいたら、名前を口にしていた。
言葉の続きを告げる。

「……大、丈夫?」
「……?」

手を伸ばして、細身にかなう白い腕を捕ってみようと思うけれど。
なんとなく、気が引けてしまう。
不思議そうな顔で、それでいて縋るような目で自分を見ている彼に、
軽く微笑みかけた。

「いや……、やっぱり、何でも、ないよ」

   かまってほしいのは、むしろ自分だ。
いつもなら口にできる単純なことを、今日は何故か、口にできない。
そのまま前を向き、また、会話も無く歩いた。



いつもなら、あそこに。
いつもの、公園に。
広くて、木がいっぱいあって、
季節の変わり目のはっきりわかる、
彼のお気に入りの場所。

いつも、そこで何を思っているのだろう。
ゆっくり、ゆっくり変わってゆく季節の中で。
彼は、誰を、何を思い出すのだろう。

それはきっと、いつも自分が思い出すのと、
……違うけど、よく似ていること。


悠久の平和。
毎日のように起こる、ささいな出来事。
ばかみたいに騒いで、
互いに笑って、

   本当は、そんなの、自分にはありえないはずなのに。


いつか、やってくる。
この毎日の、終わりが。

今、まわりにいる人達との、
別れの時が。


  ******


「……で、寝てるし」

両手に、熱いに近い温かい缶を、二つ持って。
……世界は広い。
飲み物が温かいまま、ボタンを押して勝手に出てくるなんて、
世の中には面白いものがあるものだ。

「……どーしたもんかな……」

ベンチに腰掛け、気持ち良さそうに眠っている、彼を見下ろす。
ゆうべ遅くまで起きていたみたいなので、当然と言えば当然か。
……だが、こんな冷たい風の吹いている中で、
ゆっくり眠らせているわけにもいかない。

眠らせていてあげたいとも思うけれど。
右手の缶の端を持ち、
彼の左頬に、ぴた、と軽く当てた。

「っ!」
「……起きたー?」

頬に当てた缶を目の前に突き出し、いたずらめいた顔で笑う。
熱さが残っているのか、左頬を手の甲で押さえながら、
その藍い瞳で、ゆっくりとまばたきをしながら、自分を見た。

「……ああ……」
「大丈夫? カオ、火傷とかしなかった?」

右手の缶を、彼の手に持たせ、空いた手で彼の頬に触れた。
その手をちら、と視線で見やり、彼はその手を、自分の手に重ねた。
何が起こったのか、ゆっくりと状況を理解しようとする。
やがて、頬に触れていた手を下ろすと、彼の右隣に座った。
その動作を、藍い瞳で追う。

「……大丈夫みたいだな」
「……訊くくらいなら、やらなければいいだろ……。
 ……まったく……」
「仕方ないだろー。……こんなとこで寝てたら、風邪ひくし」
「そうじゃなくて……、……もっと他に、起こし方を考えなかったのか?」

手の中の缶を見つめながら、小さな声で、告げる。
小さく溜息を吐くと、彼がまた、歩いていた時と、同じ表情をした。
寂しそうな、そのくせ縋ってくるような、儚い。

「……」
「……どうした?」

いつの間にか、じっと見つめていたらしい。
ややうっとうしそうな目で、見つめ返される。
いつもと変わらない声、だけれど。

「……何、考えてんだ?」
「……え? ……何が」
「……だって、……何か」

寂しそうだから。

その時なんとなく、言っていいのかどうか、ためらった。
手の中の缶の、プルトップを引き抜く。
ぱきん、と、音が、誰もいない公園に響く。

「……何でも、ないよ」
「……お前こそ」
「え?」

また、パキ、と音がした。
細い指が、慣れない手つきで、プルトップを引き抜いた音。
ここに来なければ、こんなもの、
存在だって知らなかった。

世界は広くて、
自分の知らないことばかりで。

「……さっきから、そんなことばかり訊いてきて、
 ……何でもないって言って、どうしたんだ?」
「……え……、」
「……何か、あったのか?」

目線を合わさず、訊ねる。
何でもない、という曖昧な答えを許さない、確固な声。
戦場を指揮してきた、戦乱の中の王子の。

自分も、同じだ。
戦場を指揮して、戦乱の中に生まれた。
なのに、まだ未熟で。
彼にはかなわない。
それなのに時々、消えてしまいそうに、弱々しい。
戦場の中でなんて、絶対に生きていけない。

「……んな……、」
「……?」
「……そんな顔……、……してるからだよ。……マルスが」
「……」

小さな声で、ぽつり、ぽつりと告げたその言葉は。
こんなことが言いたいんじゃない。
言いたいのは、本当は。
喉の奥につっかえる、あいまいな言葉。
繋ぎとめておきたい。
今、この場所に、彼を。

「……何……、考えてるのか……知らないけど……」
「……」
「……そんな……顔、……すんなよ」
「……」

何が言いたいのか、自分でもわからない。
中から熱気の立ち上る缶を、口につける。
ちょっと苦めの甘い味が、口に広がった。
……もうそんな歳じゃないんじゃないのか、と、同年代の人間によく言われる、
甘い、甘いココア。
正直自分は、もっと甘い方が好みだけれど。
『同年代の人間』にそう言ったら、お前は少しおかしい、と言われた。
それがどうしておかしいのか、
自分じゃよくわからない。
缶の四分の一程を飲み終え、缶を口から離す。
缶を両手で包むと、まだ温かかった。
ふぅ、と一息つき、彼の方を見る。
途惑いを隠せていない、それでも必死で隠しているのであろう。
……そんな表情で、見つめていた。
心の置き場の無さそうな顔だった。
そんな顔も   本当は、とても愛しい。

「……何かさ、最近……何か、あった? ……本当に」
「……別に……、……何も」
「……本当? 本当に、何も?」
「……」

   言って。
いいのだろうか。

ためらっているのは、それが、彼の傷かもしれないから。
自分も、同じ傷を持ってる。

互いに、戦場を指揮する、人間。
大好きな人達との、別れを意味すること。
毎日が、命懸けで。
誰が死ぬのか、それでいて、悲しんでいる暇なんてない。
やられる前にやれ。
別れなんて、気にしちゃだめだ。
心を、閉ざせ。
ただ、強くあればいい   それだけで。


「……怖いよ」
「……?」
「……俺だって……、本当は」

それは、自分の、自分だけの役目。
この命を懸けて、大切な人を守る。

「……このまま……ここにはいられない。
 いつか……帰らなくちゃ、いけない時が来るんだ」
「……」
「……その時に……、向こうで、ここにいる自分じゃいられない。
 バカみたいなことで笑って、互いをかばって……、そんな自分じゃいられない」
「……」
「……やられる前に、やらなくちゃいけない。
 他人がどうにかなって、いちいち心配する暇なんかない。
 ……でもさ、マルス」

ゆっくりと、顔を上げた。
彼もきっと、これから先、自分の言う言葉の内容くらい、
心得てる。

「……あの屋敷にいる連中の、大半はさ。
 ……みんな、そんな思いを抱えてるんだ」
「……わかってる」

自分より低い声で、ぽつりと告げられたこと。

「……わかってるんだ……。それくらい、本当は……」
「……」
「……でも……、……それでも」

手元を、じっと見る。
缶を握っている手が、小さく、震えている、気がした。

「……このままここにいて、……自分が、弱くなってしまうのが……、
 ……それが、向こうに帰った時に、……どんな風に返ってくるのかが……」
「……」
「……向こうで……、……こっちでのことを、思い出すことが……」


   少し、怖い。

小さな声で、そう続けられた。

冷たい風が、ざぁと吹く。
赤や黄色、茶色の葉達が、くるくるとまわる。
彼の肩に、ぱさりと落ちた。
それをはらう動作も、どことなく、愛しい。

何が、怖いのか。
お互い、相手を思い出すこと。

本当に怖いのは、
向こうに帰ることじゃない。
本当に怖いのは、
向こうに帰る日が決まる、その瞬間。
互いに、永遠にここにはいられない。
いつか、
いつか、こうする日も無くなる。
それが、何日後、何年後になるかはわからないけれど。

「……」
「……」

どうとも思わなければよかった?

……そんなことない、本当に。

「……マルス」
「……何だ?」

その時のことは、その時考えればいい。
いつも、誰かが言っていること。
それでも、そんな強い人になんてなれない。
いつも、あてのない未来を考える。
保障のないことに、怯える。
それでもそれを、やめることなんてできない。
それが、自分で、
そんな自分を、好きだと言う人が、いっぱいいるのだから。

だから、自分もまた、そんな、自分と似た彼を、
好きだと。
愛しいと、思う人として。

今は、こんなつたない言葉しか、言えない。

「……好きだよ」
「……」

それが、自分の精一杯の言葉。
いつか、こんな言葉も容易に言えなくなる日が、きっとやってくる。
それがわかっているから、
今、こうして、まだ子供であることを後ろ盾に、
簡単に言う。

「……」

   ふわ、と。
頬に、やわらかくて、冷たいものが触れた。
横目で、そっと見る。
いつも、そんなことしない彼が、
自分に、寄りかかっていた。

彼の、確かな重みが、身体に伝わってくる。

「……風邪、ひくぜ?」
「……いいよ、別に……。……そんなの」
「良くねぇよ。……それも。冷めるぞ」
「……いいよ……。……僕には、少し甘すぎる」
「……そうかぁ? ちょっと苦くねーか?」
「……そんなのだから、おかしいとか言われるんだ」
「……おかしくねーよ、別に」

彼の重みを、右肩に確かに感じながら、缶を口に近づける。
まだ温かいココアを、ゆっくり、一気に飲み干した。

上に上げた目線。
秋色に色づいた葉が、枝から離れていった。

「……ロイ」
「ん? ……何?」

彼が、肩を竦める。
目線を上に上げたまま、答えた。

「……好きだよ」
「……」


……いつか、きっとやってくる。
互いの声が、聞けなくなってしまう日が。

でも。
それでも、こうしていたいと思う。
お互い、
出会えたことを、後悔なんかしたくないから。
あの時、出会わなければ。
そんな風に、思いたくないから。

彼の重みを、右肩に、確かに感じながら   ……



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