088:等高線
色々なことのあらゆることが、たった二つの選択肢で決まれば、どれだけ楽だろう。
「はい」か「いいえ」か。
「好き」か「嫌い」か。
「強い」か「弱い」か。
もしも、そうだったら、自分も少しは、『おなじ』になれたかもしれない。
******
「マールースーv」
「…っ、くっつくな、ロイ!!」
ソファーに座って本を読んでいたマルスの背中から、
ロイはいつものとおり、ぴったりと抱きついていった。
マルスはそれを、腕で押し返したり、本を叩きつけてみたり。
いつものことだ。
たとえばこれが、マルスの部屋か、ロイの部屋か。
二人っきりの時ならば、こんなにまで嫌がったりはしない、のかもしれない。
…断言はできないが。
それでも、マルスがいつもより声を荒げている理由は、たった一つ。
ここがリビングで、そこに人がいるからだ。
「何だよー、愛が薄いぞマルス! そんなに嫌がらなくてもいーだろー」
「……人が、いるだろッ……!!」
「見せつけてやりゃーいーじゃーんv 情操教育だって」
「違う!! 少なくとも、情操教育じゃない!! …ッ、はな、れ、ろっっ!!」
ばこーんっっ!!
……。
「………」
「…っの、バカッ…」
ずるずるずると、地面に崩れ落ちるロイ。
それでも、マルスの身体に、腕は回したままだ。流石と言えよう。
肩で息をするマルスの手には、分厚い本が一冊。
もちろん、ハードカバーの。
「………」
ロイがマルスに抱きついて、
妙な言い争いをして、
ハードカバーの角がロイの頭にクリーンヒットして、
静かになる。
その一連の出来事を、
反対側のソファーに座って、じーっと見ていたのは、
「…ダーク、…僕の顔に、何かついてるか?」
ダークリンクだった。
「…いや…」
やや不機嫌気味のマルスにこう訊かれ、ダークリンクは否定の意を返す。
からかうでもなく、冷かすでもなく、
ダークリンクはさっきからずっと、二人のこんな、痴話喧嘩を見ていた。
ロイはそんなもの全く気にはしないが、マルスは違う。
ダークリンクの視線が気になるから、ロイをあんなにもはねつけていたわけだが、
ダークリンク的には、あくまでもこれは「勉強」だ。
人間がどんな感情を持って、どんなふうに行動するのか。
感情、というものがよく理解できないダークリンクは今、これを一番知りたかった。
…もっとも、「知りたい」という風に思えてきたのも、
本人ではない、ピカチュウのおせっかいのたまもの、ではあるが。
「…それじゃあ、どうして…、…その、」
「…見ていれば…、知ることができるのか、と思って」
ピカチュウはいつも、誰かじっと見て、いろいろと考えているから。
だいたいそんなことを言ったダークリンクに、マルスは溜息をついた。
「……勉強なら、実践もそれなりに必要だと思うけどな…。」
こう、ぽつり、と呟いて。
マルスは自分の身体に巻きついたままの、ロイの腕をよいしょっ、とはずす。
気絶したままのロイは、そのままフローリングの床にオチた。
ごとんっ、と頭を打つような音がしたが、マルスは気にも留めない。
立ち上がり、そのまま、本を持ってすたすた歩き出すマルス。
ダークリンクが、後ろから声をかけた。
「どこに行くんだ?」
「え? …ああ、夕飯の買い物に。ファルコさんと待ち合わせ、してるんだ」
「………」
「ロイが起きたら、そう伝えておいてくれないか?」
「…わかった」
後でいろいろ、うるさいと困るから。マルスはもう一度溜息をつく。
リビングを、いつもの調子で出ていったマルスの背中を、ダークリンクは見ていた。
途端に、静まり返るリビング。
かちかちと、時計の音に、ダークリンクは耳を傾ける。
やがて。
「…マルス!!」
「…買出しに行く、と言っていた」
がばっ、と、床からいきなり復活したロイに、
ダークリンクは自分の言うべきことを、淡々と告げた。
「え? 買出し? …ああ、今日はマルスが当番か。
ってことは、えーと、ファルコさんかな。なあダーク、聞いてるか?」
「ああ。それで、合っている」
「そっか。はいはいっ、と。…っはぁー、あー、まだ頭痛ぇー…」
額を押さえて、ロイはちょっぴりがっかりした様子で言う。
そんなロイを、ソファーに座ったまま、じっと見ているダークリンク。
マルスは、そんな視線を気にしていたが、ロイは気にしない。
いつものとおりのマイペースっぷりで、
「…やっぱ、泣き落としを加えてみるべきかな…」
「………」
ぽつり、と一人で作戦会議をしていた。
…マルスに反撃されない、手立てなのだろうか。
残念ながらダークリンクは、そこまで頭が回らなかったが、
とりあえず、ロイがマルスに何かしようと画策していることだけはわかった。
「…何故だ?」
「ん?」
ふ、と。
疑問を抱いた様子で、ダークリンクは尋ねる。
声を聞いたロイは、顔を、ダークリンクの方へ向けた。
「何がだ?」
「お前はさっき、王子に、散々殴られていただろう。
それなのに王子につきまとう、…理由が、あるのか?」
「……え…。」
それは。
多分、傍目から見れば、好きな子をいじめるガキ大将、というような。
あきらかな行動、だったのだが。
「……あー…。…そっか、わかんないんだよな」
難儀だな、そういうのも。ロイは、髪をぐしゃぐしゃとかき乱して、
ひとつ、溜息をつく。
「そりゃあな、まあ、好きだから、なんだけど、」
「…すき…、」
「どうなんだろーな。あんなに嫌がらなくても、とかも思うし、
殴られたら、うっわ嫌だなー痛いなー、とかも思うし…、
…そういえばどっちなんだろ。よくわかんねーな、自分のことなのに」
「…え…?」
困った様子のロイが、困った調子で告げた、自分の心の中。
聞いていたダークリンクは、ふ、と首を傾げた。
『“好き”だからやるけど、“嫌”、とも思う』。
自分の頭の中の辞書を、ぱらぱらとめくる。何か、違和感を感じて。
最近までの『勉強』で増えた、ダークリンクの知識の中には。
「……『すき』と『きらい』は、正反対の言葉なんじゃないのか?」
そういう項目が、あった。
「え? ああ、そうだろうな。好きと嫌いだろ?
一番最初に実感できる反対語だよな、それって」
「…どっちも、なのか?」
「は? 何が?」
「…お前の、王子の…。……。」
うまく説明できないらしい。 当然かもしれないが。
首を傾げたダークリンクの顔を見ながら、ロイも一緒に考える。
やがて、ようやく合点がいったのか、ロイはぽんと手をうった。
「ああ、マルスに、な? そう言ったなー、確かに。
好きだけど嫌、とか思う、って。マルスも一緒だと思うけど」
「………王子も…?」
「多分な。ちょっと自惚れすぎかな…、
…と、ダークはさっきから、何そんなに悩んでんだよ」
別に、好きも嫌いも、そんなに悩むことでもないと思うけど。
今度はロイが、首をかしげて尋ねる番だった。
口元に、指を当てて。子供のような、疑問いっぱいの顔。
ダークリンクは、ぽつり、と言った。
「…物事というのは、
…二つのうちの、どちらか一つにしかならないんじゃないのか…?」
「………へ……。」
神妙に言った、ダークリンク。
ぽかん、と間抜けに口をあけて、ダークリンクを見つめる、ロイ。
意味がわからず、ロイは再び、一緒に考える。
二つのうちの、どちらか一つ。
暑いか、寒いか。
美しいか、醜いか。
強いか、弱いか。
易しいか、難しいか。
嬉しいか、悲しいか。
そして。
好きか、嫌いか?
「……ふ…っ、」
「……?」
考えが至って。
ロイが思わず、笑い声を漏らす。
「…っく、あははっ…、」
「……?」
たまらず笑い出したロイを、ダークリンクは不思議そうに見つめる。
どうやらダークリンクは、
『一つのものには一つの感情しか抱かない』、などと考えているらしくて。
それは、当たってる部分もあるかもしれないけど。
でも。
「…お前さあ、面白いよなー」
「…おもしろい?」
「ああ。それに何か、ガキみてーで可愛いし」
「……かわいい?」
「ゆっくり考えろよ。あのな、ダーク」
ほんのちょっぴり“お兄さん”ぶって、ロイはダークリンクの頭を小突く。
「感情って、そんなに簡単なもんじゃねーぞ」
「………」
「色んなものの中からいーっぱい感じて、悩んで。
最終的には一つの答えになるのかもしんねーけどな、
絶対、一つのことしか感じない、ってことは、ないから」
「…そうなのか?」
「少なくとも、俺はそう思ってるけど。
だからさ、」
最近、リンクやピカチュウが、ダークリンクにかかりっきりなのは知っていた。
感情を知らない、ということは知っていたけれど、
一応見た目だけは、自分と同じくらいか、少し年上の青年。
何をそんなに面倒なんか見てるんだろう、と思っていたけど、
なるほど、これでは、面倒も見てやりたくなるはずだ。
一人で納得しながら、ロイはダークリンクの髪を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「本読んだり、誰か見てたり、ってのもいいと、思うけど。
それも程々にして、たまには、散歩でもしてきたらどーだ?
ピチューとか、連れてさ。いろんなこと、わかると思うぜ」
「………」
「やっぱ、勉強なら、実践もそれなりに必要だし」
「………!」
じゃあ、俺は、マルスを追いかけようかな、と、ロイはうきうきと言う。
くるん、と踵を返したロイの耳に、
「…あいつも…、」
「うん?」
ダークリンクの、声が、届いた。
「…青い、王子も…。…お前と、同じことを、言っていた」
「へ? マルスが? …実践どうこう?」
「……ああ…。」
きょとん、とした目で、ダークリンクを見ているロイ。
ダークリンクは、普段、滅多なことでは変わらない表情を、
ほんの少しだけ、違うものにしていた。
本人も、ロイも気づかない程の、微妙なものではあったが。
そして、ロイは。とても嬉しそうに、笑う。
「…そっか。…あー、ちょっと嬉しいかも」
「………」
「うん、…じゃあ、俺は行くな。また後で、」
「…ああ」
ダークリンクに手を振って、ロイはリビングを出て行った。
元気の良い後姿を見送った後の部屋は、とても、とても静かで。
かちかちと、針が時を刻む音に、
ダークリンクは耳を傾ける。
すると。
「…ぴちゅ…、」
「……?」
リビングの扉が細く開いて、子供の声が聞こえた。
何気ない呟きだけで、誰だかは、すぐにわかる。
そちらに目を向けると、声の持ち主は、きらきらと瞳を輝かせた。
「…あっ、ダークおにーたん!!」
「………」
たたたっ、と軽い足音をたたせながら走り寄って、
ピチューはダークリンクに、嬉しそうに飛びついてくる。
少し困惑しながらも、ダークリンクはピチューを受け止めた。
腕の中で、可愛らしく、頭を摺り寄せるピチュー。
そんなピチューを見下ろし、ダークリンクは、ぽつり、と呟いた。
「…ピ…チュー、」
「ちゅ?」
まだ、ほんの少しの、迷いはあったが。
表情も、少しだって、変わらないけど。
「…散歩に、行かないか? …一緒、に…。」
「……ぴちゅ……。」
まだ、言われたことを実行してみることしか、できないくらいの理解。
それでもピチューは、とても嬉しそうに笑って、頷く。
「ぴちゅ! いくでちゅー」
ダークリンクの腕の中から下りて、玄関に走っていくピチュー。
その足音を、耳に留めながら。
ダークリンクは、リビングを、後にした。
地図の、同じ高さのところを結んだ線が等高線でしたか。
ロイとマルスの言うことが等高線。
ダークさんはそれに近づきたいようですが、近づかなくても良いのでは。
……みたいな。自分でもよくわかってません、すみません(汗)。