081:印鑑




夜は深く、朝は近い。
細く隙間の空いたカーテンの向こうで、東の空が僅かに色を変えているのを見て、
ロイは額を押さえながら、ゆっくりと上半身を起こした。
寝間着を纏ってもいないのに、少しも肌寒いと感じることはなくて、
その碧の瞳に、ロイは暗い翳(かげ)を落とす。
毛布の下に起こした膝に伸ばした腕には、今はとても人間のものとは思えない証が浮かんでいた。
睨むようにそれを見て、ロイは隣に眠るマルスに視線を落とす。
ぐったりと、死んだように眠っている白い肌の、あちこちに真っ赤な痕を見つけて、
罪悪感に捕らわれた。随分無理をさせて、そして無茶をしてしまったと。
それでも、彼のことは、大切で大切で、愛おしい。…こんな、にも。

「…ん、」
「! …マルス、」

まじまじと見ていた視線に気づいたとも思えないが、
マルスはロイの見ている中、急に目を覚ました。
もぞ、と毛布が動いて、細い腕の先、指がぴくん、と動く。
長い睫毛に縁取られた、重いまぶたがゆっくりと上がった奥の藍色の瞳は、
しばらく宙を彷徨った後で、ようやくロイを見つけた。

「…朝…?」
「いや、まだだよ。後、三時間くらいは眠れると思うけど」

ふわふわとした言葉に、思わず苦笑して返すと、マルスは起き上がった。
するり、と落ちた毛布に隠れていた線の細い身体は、どう見ても強いとは言えなくて。
散らばった、真っ赤な痕。それ以外はどこも汚れていない、白い肌。

「…ごめんな、身体、だるいだろ」
「…ん…。…でも、大丈夫だから」

マルスの肩に腕を回して引き寄せて、前髪にそっと、キスをした。
大丈夫と言っているけれど、やはり具合は悪そうだ。
それでも素直にロイの肩にもたれ掛かるマルスを、愛おしいと、思った。

思って。
ロイは瞳に、翳を落とす。こんなに大切なのに、ずっと一緒にはいられない、と。
それを言えばマルスは悲しむから、絶対に言うことはないが、
どうしても気になった。

「…あんまり、驚かなかったな」
「…え?」

ぽつり、とロイは呟く。
マルスはロイを見、そしてその直後、肌寒さに身体を震わせた。
夜と朝の間、空気は未だ冷たい。
ロイはそれに気づき、毛布を、肩まで上げてやった。
そして今度は、毛布ごとマルスを抱きしめた。

「俺のこと。
 半分だけ、……人じゃ、ない、って」

マルスを抱きしめる腕の一部に、今だけほんの少し、浮かんでいる。
半分だけの血の証。とても人間のものとは思えない、寒さを感じない皮膚。
内側にほんの少し浮かんだそれは、氷の色の鱗。
確実に、人間のものではない、自分に流れる血の、証明だった。

「…うん」

指を伸ばし、マルスはそれに、そっと触れる。
硬質な証明は、普段は外には出ておらず、人間の肌の中に隠れているが、
時折、心が不安定だったり、本能が色濃く浮かぶ時だけ、
こうして表面に現れるのだ。
それが浮かぶ時、ロイは頑なにマルスに会うのを拒んでいたが、
昨夜だけどうしても押さえ切れなかった。
会いたい、抱きしめて声を聞きたいと、無理をさせて無茶をした。
その中で気づかれた。
この、身体の中に確かに流れる、人間じゃない、竜の血に。

マルスは瞳を伏せる。ぬくもりを探してロイに身体を寄せ、
静寂に溶けそうなほど静かに、静かに呟いた。

「…馴染みが深い、とまでは言えないけど、近くにいたからな。
 …身近な存在だから、あまり珍しくはないし、怖くもないよ」

彼らしいと言えば、とても彼らしい言葉だった。
その心に救われるが、マルスは全てを語らない。
きっとマルスは、見通しているだろう。
ロイがどうして、自分のことを今まで隠したがっていたのか。
それを言うとマルスが離れていってしまう気がしてならなくて、
気づいているだろうとわかってても、確認するような真似はしなかった。

「人とか、竜とか、僕は、関係無い」

手首の裏側の脈の触れるところに浮かぶ氷の色の鱗に、マルスは唇を寄せた。
溶けるように危うい温度。あまりにも優しくて、ロイは思わず息を詰める。
敢えてロイの血のことを知ろうとするような行為の後で、マルスはふわり、と微笑んだ。

「それでもロイは、僕と、一緒にいてくれるんだろ?」
「………ああ。…そうだよ、…俺は、」

いつかの約束を覚えている。マルスの優しさが痛くて、ロイはマルスを抱きしめた。
こんなに切ない。切なくて悲しい。どうしてこの人はこんなにも優しいんだろう。
好きで、好きで、大切で、愛しくてたまらない。微笑みも身体も言葉も声も心も、すべて。
ベッドに横たえた後の、細い首筋に噛み付くようにキスをして、
ロイはその耳元で、ずっと、守るから、一緒にいるから、と呟いた。

この身体に流れる真っ赤な血が、否応無く彼と自分を引き裂くと知っていても。







自分の見た目の成長が、そろそろ止まるであろうことには気づいていた。
竜とはそういう生き物だ。人より長く、確実に長く生きる。
だから竜は、人には近づこうとしない。人は、竜よりうんと早く死んでしまう。
限りない情が生まれてしまうのが怖い。
人に心を注いでも、いつか人は、竜より先に死んでしまうのに。
残されたものはその思いを、どんなふうに持て余せばいいのだろう。
異種族間の愛だの恋だのが禁忌めいて扱われるのは、そんな怖さが存在するからだ。
誰だって、悲しいのは怖い。悲しみに耐え切れず、狂ってしまうことも。
受け継いだ血は半分だけなのに、確実に竜としての本性が強く出ていることに気づいたのは、
皮肉にも、マルスに出会って、引き返せないところまで至った後だった。

もうずっと前に、父親は言った。
彼女は私より先に逝ってしまったが、彼女にこんな思いをさせるくらいなら、
ずっとずっと良かった、と。
それでも自分はそんなふうに割り切ることはできない。
マルスにそんな思いをさせたくはないが、それを自分が抱えるのも嫌だ。
そんなに大人になれない。ずっと、何から何まで一緒がいい。
親を恨んだことなんか一度だって無いけれど、
どうして自分は、彼と同じでなかったのだろうと、自分を恨んだことはあった。
そんな気持ちを抱いたところで、流れる血が変化することはないし、
時折こうして、竜の証明が身体に浮かぶことが無くなることもまた無いのだけれど。

彼と自分は、根本的に違う“世界”の生き物だ。
だから結局は一緒にいられないと知っている。それでも悲しくなる。
どうして一緒にいられないのだろう。こんなに好きなのに。
まだ随分と先のことだと思っているけど、必ずそんなことはなくなる。
自分が生きて、生き続けて、長い長い間存在すれば、
彼とこうして一緒にいる時間なんか、ほんの一瞬に過ぎなくなるのだ。きっと。
そんな時が訪れたら、自分は一体どんな悲しみを抱えることになるのか。
癒そうと思っても、その時間にもう、彼はいない。
彼以外の誰かをこんなに好きになるなんて、きっと、無い。絶対に。

「…マルス、」

深い深い口づけを与えながら、ロイはマルスの名前を呼んだ。
マルスが、種族を特別視しないだろうことは、わかっていた。
怖かったのは、マルスに怯えた瞳を向けられることじゃない。
もうずっとずっと未来のことだ。別れはいつか来るのだとも、わかっていても。

夜は深く、朝は近い。
夜明けも朝焼けも変わることはないけど、彼は確実に変わっていく。
どれほど望んでも、自分は彼と同じにはなれない。
一緒にはいられない。

「…っ、…ロ、イ」
「…マルス…、」

だから、一緒にいられるうちに、彼の温かさを覚えておきたいと思った。
髪の冷たさ、瞳の揺らめき、肌の白さ、足首の細さ、声の優しさ、心の脆さ。
いつかすべて、なくなる。
自分の持つ寿命がどれほど長いのか検討もつかないけれど、
彼がこの悲しみを、ほんの少しでいい。共有してくれたら、と思った。
悲しませたくはないけど、
大切で大切で、愛しくて、好きだから。
ずっと。


次に目覚めた時、窓の外は明るく、空は水が滲んだように青かった。
竜の証明が再び皮膚の下に隠れた、その手首に優しくキスをしながら、
マルスはいつもと変わらない微笑みを向けて、おはよう、と言った。



印鑑=自分の証明。氷竜だったと思うんだけど…違ったらどうしよう。

もしも、うちのロイが純血の人間で無かったら、のお話。この時点でパラレル。
異種族恋愛って、苦手なんです。嫌いじゃなくて、むしろ好きと言えるかもしれないけど、
とにかく苦手です。大概、寿命が違って、残された方がとても悲しいから。
攻め側でもあれなのに、受け側が残される方だったりしたら、目も当てられません。

ところでマムクートは、竜石が無ければ竜に姿を変えることはできないので、
こんなふうに勝手に鱗が表面に出てくるなんて絶対にありえないはずですが、
その辺は腐女子の都合の良い妄想ってことで…。