074:楽園
生きることが戦うことと等しい世界で生きることは、
とてもつらく、悲しく、どうしようもなく退屈だった。
己の剣を手にして、屍を踏み台にして、命を犠牲にして、大切な人を乗り越えていく。
そんな日の中で。
ただ一つ、欲しかったのは、この日々を生きることをやめることのできる、
簡単なきっかけだった。
捕まりそうなのに、もう少し、というところで捕まらないんだ。
見ているだけでは、手を伸ばすだけでは、駄目だ。
******
とうに滅びた城の中庭には、未だ、たくさんの花達が生き残っていた。
花の楽園と表すことができるであろう程の、無限に広がり揺れる花達。
その中に、彼はいた。
剣を傍らに仕えさせ、身体ごと花達にあずけて、ぼんやりと空を眺める。
そよ風に揺れる花達は、楽器のように、綺麗な音をたてた。
よほど耳を澄ませなければ聴こえない、脆弱な音ではあったが。
廃墟の中の、花の楽園。
蒼い空。薄く伸びて、空色に透ける白い雲。
青い髪を散らばせて、彼は溜息をついた。
藍い瞳に、ふいに、空以外の、何かが入り込む。
「………」
それは、紅い蝶だった。
黒縁に紅い模様の入った、不思議な色合いの蝶。
それを追って、彼はゆっくりと、身体を起こす。
蒼い空に、ただ一点、紅い。
なんて、綺麗な蝶だろう。
紅い蝶は、彼の頭の上をひらひらとまわり、おどり、舞う。
彼は紅い蝶を、熱心に目で追った。
彼の思いを知っているのか、知らないのか、
紅い蝶は、彼の頭の上をひらひらとまわり、おどり、舞う。
やがて紅い蝶は、彼の頭の上から、少し軌道をずらした。
「……あ…、」
紅い蝶が、彼の頭の上を通り過ぎ、向こうへと行ってしまう。
その行き先を目で追い、彼は思わず、小さく声をあげた。
その時、
「……ここにいたのか」
ふいに、影が落とされた。
自分のいる場所が暗くなり、彼は、太陽の方…後ろ斜め上…を見上げる。
頭の上を、右腕がとおっていった。
その右手は、彼の少し前を飛んでいた、紅い蝶を捕まえる。
「探したよ。マルス」
「……ロイ……」
マルスを見下ろし、ロイはにっこりと笑う。
ロイの顔を見たすぐ後で、マルスは、ロイの右手に視線を向けた。
指先に捕らわれて、じたばたもがいている紅い蝶が、
そこにいる。
そんなマルスの視線を、ロイが見逃すはずはない。
ロイは右手を引き戻すと、紅い蝶を、マルスの目の前に、ずい、と差し出した。
思わずマルスが、身体を後ろに引いた。
「っ…、」
「ほら。これ、欲しかったんだろ」
「…欲しかった、って…」
「羨ましそうに見てただろ? 違うのか?」
「………」
手を伸ばしかけ、躊躇し、すぐその手は花達の中に下ろされる。
視線をふいに逸らしたマルスに、ロイは苦笑した。
「…あんた、欲、無いよなあ。…そーいうとこも、好きだけどな」
「………。…冗談は、やめろ」
「冗談じゃねーって。…まー、欲が無いわけじゃないかもしれないけどさ、
なあ、マルス」
紅い蝶を捕まえたままの手で、くい、と顎を引かれた。
ロイの顔が近くにあって、息を呑む。
逆光で、表情はよく見えないけれど、笑っている気がした。
首筋の辺りに、紅い蝶の足が絡む。
ざわざわして、気持ちが悪い。
「欲しいんなら、死に物狂いで捕まえにいかないと、
後で後悔することになるぜ?」
「………」
「よく言うじゃん。大切なものは、失って初めて気づくものだ、って。
でもそんなの、悔しくて仕方ないだろ。腹も立つだろーし」
真っ直ぐに見つめられ、少年の声は、
花の楽園に似つかわしくない刃のように、ずっぱりと何かを裂いていく。
「……こんな世界に生きていて、そんなに大切なものは、できないよ」
「そんなことねーよ。
大切に、そんな、も何もあるか」
「……。…壊れるものは、僕はいらない。欲しくない」
「ふぅん? …じゃあ、見てるだけなんだ…。
…この蝶も、捕まえたら、死んじゃうから、って?」
「………」
ロイは、マルスを覗き込んで、く、と喉の奥で笑う。
その表情が少し悲しげだった理由が、マルスにはわからなかった。
ふいに、肩を押される。
身体が再び、花達の中に倒されて、
見上げた先には、ロイの顔と身体、
その向こうには空が見えた。
「……優しいな。」
「………」
「でも、そんな優しさ、俺はいらないから」
「………」
花の中に押された手に、ふいに、ロイが触れてきた。
その手には紅い蝶がいて、
マルスは、手渡されたその紅い蝶を、自分の手で、そっと捕まえる。
人に捕まえてもらった、羨んだ、ロイ曰く、マルスの欲しいものは。
「俺は、欲しいものは、絶対、手に入れる。
…捕まえとかないと、逃げちゃうしな。 …なあ、」
「………」
「…俺に、頂戴?」
手の中でもがく紅い蝶は、間近で見た紅い蝶は、
妙にグロテスクな顔をしていた。
******
ロイは、こうなることが、わかっていたのかもしれない。
それかもしくは、自分からそれを望んだのかもしれない。
あの少年の信念からして、後者の可能性は、ひどく薄い。
「………」
細身の剣の柄を握るその手は、かたかたと震えている。
自分でもそれを自覚したが、止められるものではない。
花の楽園の中に立ち、マルスは、
今し方その手にかけた少年を、じっと見つめていた。狂気にすら近い想いで。
赤い髪が、花達と一緒に、ふわりと揺れる。
ロイとマルスは、旧知の仲であり、敵同士だった。
時折、この廃墟の中で、約束もしていないのに、出会うことがあった。
運命だな、と、ロイは笑って。
根拠の無い自信に、マルスも思わず笑った。
子供のように、ひたすらに笑いあうこともあれば、
ある大人のように、互いを求めあうこともした。
それは、この世界の中でなければ、普通であり、許されたことだっただろう。
だけど、ここは違う。この世界は、生きることが戦うことと等しい世界だ。
敵を殺せと言われれば、マルスは従うしかなかった。
『欲しいものは、死に物狂いで捕まえにいかないと、』
色々なものを切り捨てなければいけない世界がいけなかったのか。
覚悟を決められなかった自分がいけなかったのか。
何が悪いのか、マルスにはわからなかった。わかりたくない。
わかってしまえば、それこそ狂気に囚われるしかなくなってしまいそうだった。
ロイは、抵抗と言える抵抗を、しようともしなかったから。
『後で後悔することになるぜ?』
一度だけ、ロイに言われた。
「こっちに来ないか」と。
今思えば、それは、最後の道だったのだ。
マルスが自ら動くようにロイが仕向けた、最後の道。
マルスは自分の欲しいものを、自分でよくわかっていない。
だから誰かが、教えてやらなければいけない。
そしてそれは、裏も何もなく、ただ、それだった。
それをマルスは、理解していたはずなのに。
ロイと、味方陣営とを天秤にかけた。
見ているだけではなくて、手を伸ばすだけではなくて。
その時に、捕まえておくべきだったんだ 自分の手で。
ロイは、確かにマルスを欲しがって、言葉の通りに捕まえていた。
そして、マルスを捕まえたまま、
マルスの伸ばした手の先を通り過ぎて、
消えて、
…逃げていってしまった。
あの日捕まえてもらった紅い蝶は、あの後、逃がした。
もしかしたらそのうち、捕まるかもしれないと思って。
結局その後、紅い蝶を見ることは、二度となかったが。
少し後悔もしたけど、諦めも早かった。
今度も、そんなふうに、簡単に諦めがつけばいいのだけれど、多分そんなことはない。
諦められるなら、こんなにためらったりしない。
『俺は、欲しいものは、絶対、手に入れる。』
剣を握り締めたまま、花の中に座り込む。
目の前には、真っ赤な花が、一面に広がっていた。
自分が咲かせた真っ赤な花。
綺麗だと思った時点で、既にもう、終わっていたのかもしれない。
頬を風が撫でる。
『…捕まえとかないと、逃げちゃうしな。 …なあ、』
焦がれた楽園は、逃げていった。
彼がいてこその場所だった。
「………ロイ…」
手をゆっくりと伸ばす。
からっぽの身体に、少しだけのぬくもりを残した手が、そこにあった。
「………」
彼の為に泣くことが、彼をつなぎとめることにはならないのだけれど。
だからだろうか。
もう、慣れ過ぎて、涙を流すこともできなくなっている。
『……優しいな。』
血まみれの手で、そっと頬に触れた。
彼の残した、最後のぬくもりが、ここにある。
泣きそうになる。
目の前で赤がにじんで、胸の奥が痛い。
伏せた顔の前を、いつかの紅い蝶が飛んできたけど、気づかなかった。
赤い花にとらわれて、動かなくなった。
廃墟の中で、花達が揺れていた。
またこんなものを。…ご、ごめんなさい…(汗)。
目指せ大人なロイマルがテーマだったのですが、
やはりロイマルはいちゃいちゃバカップルでなければならないようです…。
空と海の、たった二つしか持ってない、青は綺麗な色だと思いますが、
身体を流れて命を維持している、赤も等しく綺麗な色だと思います。
そういえば、蝶というのは、死の象徴、という話もあるみたいですね。