050:写真のネガ(後)




「…ロイから、手紙?」

いつものとおり、頭の上に、ピカチュウを乗せて。
リンクは、マルスの部屋を、訪れていた。
マルスは、いつものとおり、ベッドに座っていた。
最近ほとんど見かけなかった、少し子供っぽい顔をして、
マルスは、ロイからの手紙を受け取る。

「さっき届いたんだよ。…ったく、もう少し、早く送ればいいのにな」
「………」

ペーパーナイフで封を切って、一枚、白い便箋を取り出した。
けっして綺麗だとは言えない字で、丁寧に書いてある。
そこに書かれた、特に長くも、短くも無い文面を、マルスの目が追う。
ピカチュウはそんなマルスの様子を、少し不安げに見ていた。

やがて、

「………あ…、」
「…マルスさん?」

マルスが、ふんわりと微笑んだ。
春のように、嬉しい気持ちを、いっぱいにして。
ロイからの手紙を、何度も読む。
それを見て、リンクが、ふ、と笑った。

「どうしたんだ? …嬉しそうだな」
「ああ。
 …ロイが、帰ってくるって…、」
「…え…、」

ピカチュウが、リンクの頭の上から、身体を乗り出す。
ぽん、と、マルスの横に着地して、その手紙を読む。
程無くして、手紙を眺めていたピカチュウの頬が、緩んだ。
嬉しそうに、マルスを見上げる。

「…マルスさん!」
「明日、帰ってくる、…か。
 …良かった…」

手紙を、優しげな瞳で眺めて。
マルスはリンクに、笑いかけた。
そんな、マルスの微笑みにつられて、リンクもマルスに、微笑む。

「帰ってくるんじゃないか。
 …良かったな」
「そうだな。…ロイは、こういう約束は、破らないから」
「…約束?」
「…あ、…いや…。」

何気なく言った一言を気にされ、マルスは慌てて口を噤んだ。
少し不思議そうに首を傾げたリンクは、
まあ、どうでもいいけどな、と言いながら、ピカチュウを抱き上げる。
そのまま、リンクの肩に下ろされたピカチュウは、
すぐに、頭の上に跳び乗った。

「……ともかく、さ。マルス」

リンクが、マルスを真っ直ぐに見て、言う。

「ロイは、帰ってくるんだよ。これで、落ち着けるだろ?
 …今日はちゃんと、晩飯も食って。しっかり、寝とけよ」
「ああ。…心配かけたみたいで、…ごめん」
「いいよ。…元気になってくれたんなら、な」

申し訳無さそうに苦笑するマルスが、少し、考え込む素振りを見せる。
しばらくした後、ふ、と思い立ったように、
マルスは、慌てた様子で、言った。

「あ、…あの、な。…リンク、それに…ピカチュウ」
「?」
「なあに? マルスさん」

少し、不安そうな顔で。
それは、ロイと一緒にいる時の、マルスと、ほとんど同じ。

「…ロイに、…その、……黙ってて、くれないか?
 …また、からかわれるから…」
「え? 黙ってるって…、」
「……。
 …ああ、はいはい。なるほど、うん」

ピカチュウが、一人、納得する。

「ロイさんを、ものすごーく心配して、寂しがってたことでしょう?」
「………」

にっこりと笑って、さらりと言われた一言は、図星だったらしい。
マルスは、ふい、と視線を逸らした。

そんなしぐさが、とても、幸せそうで。

リンクは、そんなマルスを、見守るように、見ていた。



その後。
マルスは、この二週間の間、ほとんどさぼっていた、
夕飯の買い物に、出かけていった。
マルスが元気になったことが嬉しいらしい、ご機嫌そうな、ファルコンと一緒に。



「よかったねえ」

ファルコンと一緒に出かけていくマルスの様子を、リンクの部屋の窓から見ながら、
ピカチュウはうきうきと言った。
くるん、と振り向いて、ベッドに腰掛けている、リンクに話しかける。

「よかったね。マルスさん、嬉しそう」
「………」
「…リンク?」

返事をしないリンクを不思議に思い、ピカチュウは窓枠から、リンクの傍に寄った。
マルスが元気になったことが、嬉しくないはずはないのに。
リンクの横から、そっと顔を覗きこむ。

「……リンク…?」

その顔は、怒りと、悲しみと、色んなものがない交ぜになったものだった。

ピカチュウが、不安げに、リンクを呼ぶ。

「………ピカチュウ、」
「…? なあに?」

押し黙っていたリンクが、うめくようにピカチュウを呼んだ。
リンクの手には、リンク宛の手紙が握られていて。
リンクはそれを、読んでみろ、と言って、ピカチュウに渡す。

「…? 何? 何か、書いてあって… ………」
「……おかしい、だろ。こんなの…」

手紙を読んだピカチュウの表情が、消えた。

「…何、これ…。」
「………」
「…ロイさん、…今日の夜、くるの?」
「………」

ピカチュウが読んだ、ロイからリンクへの手紙には。
ロイからリンクへの頼みごとが三つと、もう一つ。


『今日の、真夜中の一時に、リンクのところに行く』


と、こう、書いてあった。

「……どうして?」
「………」
「…明日じゃ、ないの? …マルスさん…、」
「………ッ!!」


だんっっ!!


…。

…大きな、音が、部屋いっぱいに、響く。

「………リ、…ンク」
「…おかしいだろ、…何を、考えてるんだ?」

リンクが、部屋の壁を、力まかせに、殴った音だ。

青い瞳が、いつもと、違って見えた。
こんなリンクは、滅多に、見たことがなかった。

「……マルスには、何も言うなって書いてあるんだ…。
 ……マルスへの手紙には、明日、って書いてあって…。」

真っ正直で、熱血で、短気で、
約束をやぶらない、ロイの手紙。

先程のマルスの表情が、端から消えていく気がした。

「…あいつは…。
 …ロイは、マルスに、嘘ばっかり言って…、」
「………。」

夕焼け空が、まぶしかった。

「……何を、しようって言うんだ?」





   ******


もう、ずっと前から、知っていた。
ふたつのうちの、ひとつのねがいごとは、叶わないということ。

だから、せめて、もうひとつのねがいごとだけは、叶えたい。

どれだけ、嘘つき、と責められても。
たった一人、大切な、あの人のためだけに。


   ******





「…よお、リンク。二週間ぶりー」
「……ロイ…。」

真夜中の一時。
もう、屋敷中で、灯りがついているのは、この部屋だけしかない。

手紙に書いてあったとおり、ロイは、やってきた。

木をつたって、おそらくは、窓枠をつたって。
四階の、リンクの部屋に、やってきたのだ。約束のとおりに。

窓枠から、ロイが入った部屋には。
リンクと、もう一人、ピカチュウがいた。

「………」
「お、ピカチュウも一緒か。久しぶりだなー」
「…ロイさん…」

にっこりと笑うロイは、いつものロイと、まったく変わっていないように見えた。
昼間のこともあり、リンクとピカチュウは、どうしてもロイを信用できない。
二人で、じっと睨んでいると、ロイは大げさに肩をすくめた。

「あ、そんなに睨むことないだろ。
 お前らの睡眠時間を削ってることには、あやまるけど…」
「ロイ」

軽い調子で、適当に言い訳をしているロイの名前を、
はっきりと、呼んだ。

ロイが、真っ直ぐに、リンクを見つめる。
少し口の端を上げるだけの微笑みが、大人びて見えた。

「……悪かったよ。
 ……どれだけ、嘘つきだって、責めてもいい」
「………」
「…水…は、用意してくれたんだな。良かったよ」

サイドテーブルに置いてある、ガラスのコップと、その中の、水。
ロイは、ふ、と、微笑んだ。
哀しげに。
リンクとピカチュウが、その微笑みを、じっと見つめている。

「……終わらせにきたんだ。…もう、終わったから」
「…え?」

もう、終わったから。

聞き間違いじゃ、ない。


「俺、もう、ここには、帰ってこれないから」


      ……」


聞きたくなかった現実が、はっきりとうつる。
その人の、そのままの声で。

「二週間前の…、朝に、さ。
 よくわかんないけど、すっごく嫌な予感がしたんだ。
 背中に寒気が走ってさ。…俺の“世界”に、何かあったんじゃないかって、
 そう思って…、…それで、…出てったんだけど、」

はじまりは、あの朝。
いつもと変わらない、くだらない言い合いをした。

「帰ったら。
 …父上が、床に血を吐いて、倒れててさー…。」

碧の瞳は、いつもどこかを見つめて。

「…病状が、悪化してたんだ。まだ、五十にもなってないのにな。
 もう、ほとんど、仕事らしい仕事は、できないだろうって。
 俺は軍を率いて、父上は、領地の統治をしてた。
 ………その、統治も、もう、父上は、出来ないらしい」

二週間の事情を、ロイは簡単に説明していく。
すっかり馴染みになっていた、ロイの父親のこと。
ロイが置かれた立場と、
これからやるべき、ロイの目的のこと。

「フェレ家の嫡男は、俺で。…俺が、跡継ぎだ。
 これからは、俺が何でもしなくちゃいけない。
 だから、もう、ここには帰ってこれないんだ」
「………、」
「…ロイさん…、」
「…というわけだから、最後の後始末に来た、ってわけ」
「…後始末?」

ピカチュウは、いつもと変わらない調子で、ロイに問う。
ロイはピカチュウを見ると、にっこりと笑った。
リンクは、ロイを見たまま、何も言わない。

「後始末って、ロイさんのお部屋の服とか、小物とか?」
「いーや? そーいうのは、マスターハンドが勝手に引き払ってくれるらしーぜ。
 この街の住人の『引越し』は、あいつらが管理してる。…ん、だとさ」
「…それじゃあ、なあに?」
「…ん、だからさ、」

部屋の壁の、ずっと向こう。
静かな寝息が、聞こえる方へ。

リンクは、奥歯を、ぎゅっと噛み締める。

「……あの人に…、」
「…オレが訊きたいのは、そういうことじゃない!!」

強く、ロイを睨んで、
リンクは、一歩、踏み出した。ロイの襟首を、左手で引っ掴む。

「っ!」

ロイが思わず、顔をしかめた。
そんなことには構いもせず、リンクはロイに詰め寄る。
色々な感情を、瞳に閉じ込めて。

「『帰ってこれない』、だって!?
 じゃあ何で、お前は、あんな手紙を、マルスに出したんだ!!」
「…っ、」
「何でだ!!? どうして、あんな手紙を出したんだ!! ロイ!!」
「…だから、それを説明しにきたんだよっ!!」

リンクの手を払って、ロイは一歩、跳んで引いた。
お互い、乱れた呼吸を、整える。
ピカチュウが見た、リンクの瞳には、それこそ殺気に近い情があって、
純粋に、恐怖を覚えた。

怒ってる。
   あの、リンクが。こんなにも。

そんなリンクを見て、ロイは、ふ、と笑う。
さっきと同じ、哀しそうな顔で。
ぐちゃぐちゃになった襟を心持ち直して、ロイは、静かに言った。

「…クレイジーハンドに、薬を貰ったんだ。
 …よくわかんないんだけどさ。
 …存在しない世界のことを知っていると、人は、生きられなくなるんだって」
「……存在しない、世界?」
「ああ」

ロイが、この世界の管理者から受けた説明は、こうだった。

その人にとって、存在しないはずの世界を、知っていると、
その世界ばかり、夢に見て、現実とあいまいになる可能性がある。
やがて、現実を忘れて、生きることをやめてしまいそうに、
なるのだと。

正直、何のことを指しているのかは、ロイにもリンクにも、ピカチュウにも、
全てを理解はできなかった。
わかるような、わからないような、中途半端な説明だった。

ただ、こう言えば、なんとなく、わかるのかもしれない。

忘れなければいけないことを、いつまでも覚えていると、
その過去に捕らわれて、進めなくなって、未来が楽しくなくなる、
かもしれない。

「…どれもこれも、かも、とか、しれない、だとかの、
 保障も無い、どうしようもない説明だったけど。
 …人には、忘れなきゃいけないこともあるっていうのは、わかったよ」

だから、それは、そのための薬。
ロイは、にっこりと笑う。



「マルスの記憶から、俺のことを、全部、なくしていく。
       それが、俺の、最後の終わり」



「………え…?」

コップの水に、ロイは、手の中にあった粉薬を入れる。
それはとてもよく溶ける薬だったので、あっという間に、水と一緒になった。
少しの濁りも無い、透明な水。
ロイはそれを、一旦、サイドテーブルに戻す。

「…何、で」
「俺がここに帰ってこない以上、俺は、マルスの足枷になるだけだ。
 だったら、綺麗さっぱり、忘れた方がいいだろ」
「…ちがう…、」
「マルスが幸せになるためには、俺は、いない方がいい」
「……違う!!」

鋭く叫んで、ピカチュウが、ロイに跳びかかっていく。
ロイはそれを、もう一歩下がることで、避けた。
ロイの足元にすがるように立って、ピカチュウはロイを見上げる。
何度も、何度も叫んだ。

「違う!! …何で、どうしてっ」
「………違わない」
「ひどいよ!! ロイさん、何もわかってない!!
 そんなの、ずるいよ!! 違うよっ!!」
「…違わないんだって」
「わかってないよ…、わかってないよ!!
 ロイさん   …っ、」
「…ピカチュウ、」

ロイの足元でわめくピカチュウの頭を、リンクはそっと、撫でてやる。
リンクの足の後ろに、そっと隠れて、ピカチュウは俯いた。
そんなピカチュウを見遣った後で、リンクはロイと、真っ直ぐ対峙する。
言いたいことが、たくさんある。

「…リンク、」
「ロイ。…それは、間違ってるんじゃないのか?」
「…何が」
「…お前、マルスが、好きなんだろ」
「……。
 …ああ。…好きだよ」

ロイもリンクも、無感情に。
夜の静けさと、おんなじに。

「お前は…、いつものマルスが、好きなんじゃないのか?」
「変なこと、訊くんだな。
 …マルスは、マルスだよ。俺は、マルスが好きだ」
「…なら、わかってるんじゃねーか…」

声が震えるのを、隠したかった。

「……ロイのことを忘れたマルスは、マルスじゃ、ない」
「……。
 ……そうなのかも、しれないな…。」

ロイが、視線をはずした。
一瞬、誰かに祈るように、ふっと目を閉じて、
また、開ける。

ピカチュウは、二人を、静かに見上げていた。
泣きそうな顔をしていた。

「…それも、計画のうちだよ」
「…何だって?」
「……リンク。…正直に、答えろよ。
 …お前、…マルスのこと、好きだろ?」
「………」

哀しそうに笑って、ロイはゆっくりと言った。
ガラスの細工物に、触れるようなあやうさ。
リンクは言葉を詰まらせる。思わず、視線を外してしまった。
それが答えだ。

「………」
「…俺は、マルスのことが、好きだから。ごめん、なんて、言わないけど」
「………」
「お前は、いつものマルスが、好きなんだろ」
「………。
 …そう、…だよ…」

やがて。
小さな声で、リンクは、ようやく、自分の心の中を、吐き出した。
悲しそうな目で、ロイを見た。

「…だから…。…お前のことを忘れたら、いけないんだ。
 マルスはそれだけで、…マルスじゃなくなる、から…っ」
「だから。それで、いいんだよ。
 …俺は、マルスの中から、消えていくけど。
 それで、他のやつにとられるっていうのも、癪(しゃく)だからな」

無理をしているのがわかる。
お互いに。
こんなに怖かったのは、いつ以来だろう。
普段の手合いの時だって、こんなに緊張はしない。
人の強さというのは。

「もしも、俺のことがなくなったマルスが、マルスじゃなくなったら。
 お前は、マルスのこと、諦めるようになるかもしれないだろ?」
「……、な、…っ、」
「恋敵、としてのな。
 牽制と、宣戦布告と、嫌がらせ」

心の痛みと、等しいのかもしれない。

ロイが、勝気に、笑う。

「渡さねーよ」
「………」



ひとしきりの、静寂の後で。



「……他に、訊きたいことは?」

ロイは、ガラスのコップを持って、おだやかに言った。
少しの濁りも無い、透明な水。
この水の中には、今までの思い出を、一瞬で消す、魔法が溶けている。

「…どうして…、」

ピカチュウが、ぽつりと、呟いた。

「…?」
「…どうして、…あんな手紙を、出したの?」
「………」
「…リンクが訊いて、まだ、答えてないよ。ロイさん。
 …どうして、守れない約束を書いた、手紙を出したの?
 …どうして、ロイさんは、マルスさんの中から、消えていくの?」
「………」

リンクの足元で、下を向いたまま、ピカチュウは問う。
ロイは、ピカチュウの前に、片膝をついて座ると、
ピカチュウの頭を、少し乱暴に、撫でた。ロイらしい、粗雑な仕草だった。

優しく微笑んで。
ロイは、静かに、ピカチュウに尋ねる。

「…ピカチュウ。…マルスに止められてるかもしれないけど、
 …答えてくれな」
「……?」
「…マルスは…。
 …俺がいない間、どんな風だったんだ?」
「……。…え…、」

それは、確かに、マルスが止めた質問だった。
まるで、マルスの思うこと、することを、ひとつひとつ、知っているかのように。
思わず顔を上げる。
ピカチュウは、少し困ったような顔をすると、そっと、リンクをうかがった。

「…いいよ。…必要があったら、謝っておくから」

リンクは、そう、言う。
そんなリンクの言葉に後押しされるように、ピカチュウは答えた。

「…元気が、…無かったよ。ずっと、考え事してて…。
 …ずっと眠っていたし、ご飯も、あんまり食べてないし…、
 ……もともと、少食だったけれど…」
「…そっか。
 ……じゃあ、あの手紙を読んだ時は?」
「………。」


思わず、こっちまで、嬉しくなった。

あの、優しい、春みたいな、ふんわりとした、微笑み。


「……嬉しそう、だった。…すごく、綺麗で…。」
「………」
「……幸せそう。…だったよ」
「………」


『幸せに、なるために』。


「…そういうことだよ。…ピカチュウ」
「………」

ピカチュウの、揺れる瞳を真っ直ぐに見て。
ロイはおだやかに答える。
それは、あのときの、マルスに似ているような気がした。
優しい、気持ち。

「ちょっと、賭けだったんだけどな。
 …マルス、俺のこと、心配…、してくれてたんだな。
 寂しいって、少しくらいは、思ってくれたってことか」

嬉しそうに、でも少しだけ、寂しそうに。

「…俺は、マルスのところへは、帰れない。
 わかるだろ?
 そんな、あの人を、見ていたんなら。
 俺を、いなかったことにしないと、どうなってしまうのか。
 …俺とあの人は、一緒に居過ぎたんだ。幸せに、なりすぎた」
「………」
「それが、悪いことだとは、思わないんだけどさ。
 …俺は、マルスが悲しんでるのは、嫌なんだ。
 あの人が、俺のせいで、立ち止まってるのは、嫌だ」

綺麗すぎて、いつも、何も無くても、転びそうになる人。
足枷になってしまうのは、嫌だ、と。

真っ直ぐ、前を向いていてほしいんだと、告げる。

ピカチュウの瞳が、揺れた。

「……ロイ、さん、」
「…何だ?」

声も、震える。

「……ロイさんは…。
 …誰に、幸せに、なってほしかったの?」
「…俺の守る、みんな。
 それから、マルス」

それが、

「…ロイさんの、やらなきゃいけない、こと?」
「やらなきゃいけない、じゃなくて。
 俺の、やることだよ」

   幸せになることだと、言うんなら。

「俺は、このまま、いなかったことになるんだ。
 …あの、手紙。
 マルスは、幸せそうだったんだろ?」
「…うん」
「なら、それで、いいんだよ。
 幸せなまま、終わってくれる」
「……うん…、」

再び俯いてしまったピカチュウの頭を撫でて、ロイは立ち上がった。
リンクの瞳を、見つめた。

リンクは不機嫌そうに、その目を見つめ返す。

「リンク。…ごめんな」
「…何が、だよ…」
「嫌な役回りだからだよ。
 マルス一人のためだけに、つらい思い、させんなーって思って」
「………」
「…朝、マルスが起きる前に、皆を集めてくれるか?
 マスターハンドが、事のあらましを、説明してくれるから」
「………」

水が、きらきら、コップの中で、光る。
すべてが終わる魔法が、溶けている。

「……ごめんな。」
「…そう思うなら、
 …その水を、置いていけ」
「………」

じゃあな、と、ピカチュウに一言、告げて。
ロイは、リンクの隣を、すり抜けていく。
ドアノブに、手をかけた瞬間、

「…ロイ」

リンクの声が、飛んだ。
手を、止める。

「………」
「…オレは、認めない。
 …幸せならって、言うけど」

背中を向けたまま。顔さえ、見ることはできないから。

「マルスは、お前がいるから。
 …だから、幸せそうに、笑うんじゃないのか?
 あいつの、幸せだった記憶も。
 お前は全部、奪ってしまうつもりなのか?」
「………。…これが…。
 …一番、いいんだ。…俺も、未練が、無くなるし」

ドアノブを握る。ひんやりと、冷たかった。
キィ、と、扉を開ける。
暗い、静かな廊下。静寂が、耳に痛い。

「…ロイさんっ…、」

ピカチュウが、必死に声を出す。
ぴた、と足を止めて、そっと、ロイが振り返る。

リンクの腕の中に抱えられた、
ピカチュウが、いた。

たった、一言。

迷いもせずに、尋ねる。


「本当に、それで、いいの?」


それで、
迷わなければ、どれだけ、よかっただろう。


「………」


すぐに答えられなかった。
それが、
たった一つの、答えだ。


「……うそ、つき…っ、」

色んな感情が、いっぱいになった、声が聞こえる。
できれば聞きたくはない、悲痛な叫び。
何度だって、自分を迷わせる。
本当は、行きたくないのかもしれない。願いでもなくて。使命でもなくて。

「…ピカチュウ、」
「うそつき…、どっちも、うそつきだ…ッ。
 どっちも、全然、幸せなんかじゃ、ないじゃないか!!
 苦しそうで、泣きそうで、そんなの…、」

どっちも、同じ、運命の元に生まれてきたから。

自分の大切なものよりも、大切にしなければならないものが、あるから。


「……うそつき…っ。
 …うそつき、ロイさんの、うそつき      !!!」


どれだけ、嘘つきだって、責めてもいい。
だから。


「……マルスに宛てた、手紙。あるだろ?」
「…え…、」
「……あれ、俺が、持って行くから。
 ……守れない約束…、…嘘ばっかり書いた、あの手紙」


大切なものに、最後、ふれることを、どうか、許して。


「…あんまり、俺っぽく、なかったからな。」


扉を、ゆっくりと閉める。
別れの言葉の、一つも無く。


「………」
「…リン、ク…ッ」

ピカチュウの頭を、撫でてやる。
もう何も、手段は無い。

誰にとっての、幸せだったのだろう。
どうして、幸せすぎたなんて、言ったのだろう。
こんな終わりが待っているのなら、
あれは、幸せなんて、到底、呼べるはずがないのに。


いつも、誰かを探していた。
幸せになる場所を、一緒に幸せになる人を、探していたんだ。



   ******



どれだけ、足を踏み入れただろう。
雷が怖い、と、ふざけたことを言ってみたり。
ちょっかいを出しに行くだけだったこともある。
朝の弱いその人を、起こしにもいったし。
もっと、別の用事だったこともあった。

「………」

灯りは点けずに、そっと、辺りを見回す。
ベッド脇のサイドテーブルに、見慣れた封筒を見つけた。

「……嘘つき、か…。」

中の、一枚の便箋をちゃんと確認して、
服の内ポケットに、捩じ込む。

「………」

起こさないように、そっと、ベッドに腰掛けた。
この部屋の持ち主は、いつものとおり、毛布を肩までかぶって、
仰向けになって、ぐっすりと寝ていた。
おだやかな寝息が、静寂に染み入って、消える。

前髪が、目にかかっているのを、そっと、指で払ってやる。
ゆっくりと、輪郭を、手で辿って。
ふ、と、苦笑を漏らした。今更、何をしているんだろう、と。

「…怖い夢、見た、とか、言ってたよな」

青い髪を、指にそっと絡めながら。
細い髪は、指の間を、すぐにすり抜けていく。

「…あんたが、何か、すっげえ震えててさー…。
 …叩き起こして訊いてみたら、俺が、いなくなる夢、とか言って。
 …ああかわいいなあ、とかも、思ったけど。
 …嬉しかったん、だよ」

初めて見て、惹かれた。
青い髪、藍い瞳。
氷のようだった無表情が、とけていくこと。
もろくて、優しいこころ。

「……不謹慎だけどさ、嬉しかったんだよ。
 俺がいなくなって、あんたが、心配して、寂しがってくれるの。
 …少しくらい、自惚れてもいいかなって、思えて」

せめて、ずっと守っていたかった。
その綺麗なところが、なくなってしまわないように。
傍にいたい。
でも、それは、かなわない。

首の後ろに腕を回して、頭を抱える。
そっと抱き起こした身体は、相変わらず、頼り無かった。

「…ん…、」
「………」

マルスが、わずかに身じろいだ。
あやすように、そっと、背中を撫でて。

「……ずるいよな。
 …約束が守れそうになければ、無かったことにしよう、なんて」

でも、それで、傷つけるよりは、ずっとマシだと思った。

ガラスのコップ。
魔法がとけた水に、手を伸ばす。

「…いつも、余計なことで、怯えてたよな。
 そこが、あんたの、いいところなんだけど。
 …でも、もう、大丈夫だから。
 ………全部、なかったことに、夢に、なるから」

自分の口に含んで。

そっと、口づけた。


白い喉の下に、冷たい水を、流し込む。



すべてを、なかったことに、するために。
足枷を壊して、
前を向いてもらうために。


大丈夫。
歩いていける。
充分に幸せだから。



「…怖かったのは、夢の中だけだろ?
 …夢から、覚めるよ。…大丈夫…」


声がうまく出ないのは、どうしてだろう。


「………おやすみ、マルス。
 ………夢から覚めて、幸せな未来を、信じろよ」



できたなら。
その、隣にいるのは。
自分だったら、よかった。










想いはすべて、ひとつのこらず、夢から覚めて      ……。










   ******



「…おはよう、リンク。ピカチュウ」

次の日の朝。
マルスは、いつもより少しだけ遅く、目が覚めた。
部屋を出て、はじめに会ったのは、リンクと、
いつものとおり、リンクの頭の上にいる、ピカチュウ。

「おはよう、マルス」
「マルスさん、おはよう〜」

ひらひらと、短い手をふって、ピカチュウがのんびりした挨拶を返す。
相変わらず、仲が良いんだな、と、マルスは笑った。

自分の部屋。
その、隣の隣の、リンクの部屋。

……。

「…うん?」
「…? どうしたんだ? マルス」
「……いや…、」

マルスが、廊下を、壁伝いに、ゆっくりと歩いてくる。
自分の部屋。
その、隣の隣の、リンクの部屋。

「………」

それじゃあ、この、

「………」

隣の部屋は?

「………客間って、二階にかためてあったよな?」
「え? …ああ、確か」
「…だよな。…じゃあ、どうして、この部屋…。」

キィ、と、扉を開ける。
必要最低限の家具があるだけの、客間らしい客間だった。
ようするに、空き部屋だ。

「……?」

普通、客間や空き部屋は、玄関に近い、二階にかためてあるのだが。
…思い過ごしだろうか。

「…まあ、いいか」

知らない人が住んでいれば、それこそ大した問題だが、
別に、空き部屋であるぶんには、何の問題も無かった。

誰か、いた気がするのは、気のせいか、と、マルスは自己完結する。
目の前で、一部始終を見ていた、リンクとピカチュウに、
ごく自然に、話しかけた。

「もう皆、朝食、食べ始めてるか?」
「ううん。みんな、マルスさんを待ってるよ」
「早く着替えて来いよ。冷めるぞ」
「…そうだな」

すぐに行くから、と、マルスは、洗面台に向かう。
その背中を二人で見送って、

「………」

リンクとピカチュウは、不自然な空き部屋の、扉を見つめた。

「………覚えて、ないんだ。何も」
「…みたい、だな…」
「………マルスさん、いつもと、変わらなかった」
「…そうだな。
 …人が一人、いなくなるなんて、実は、そんなことなのかもな…」

歩きながら、リンクは、そんなことを呟く。
扉が開けっ放しだった、自分の部屋に入ると、
引き出しの奥にしまわれた、一通の手紙を、取り出した。
けっして綺麗だとは言えない字で、丁寧に書いてある。
今回のことが、すべて書いてある、手紙。

「………」

ベッドの上の、枕元に置いてある本は、マルスから借りたものだ。
眠れない日が続いたときに、借りてきた。
その本の、角。
頭に当たれば痛そうなその場所は、不自然にへこんでいた。

「………、」
「……リンク」

その、本と、それから手紙を見て。
リンクが俯く。
何も、喋らなくなった。

ピカチュウの、瞳が揺れる。

「…リンク?」
「………」
「……リンク…、」

頭に張り付いたまま、ピカチュウは、リンクを呼ぶ。
リンクの視線は、手紙から、窓の外、やたらと広い、庭へうつった。

いつも、三人で手合いをしていた。

それなりに楽しかったし、幸せだった、はずだった。


「……リンク。
 ……リンク、…泣かないで…」
「………」
「…だれも、悪くないんだよ。…だから…」


どうして、平気なんだろう。
大切なものを、うしなって。
違和感が無いはずがない。
何かが足りないというなら、それは、一番大切なものが、欠けている。
いつも、一緒にいた。
いつも、幸せそうに、笑っていた。
それを、見ているのが、好きだった。
誰よりも絶望を信じていた、
二人が、誰よりも、幸せに満ちていた。


「……泣いてるのは、お前の、方だろ」
「……。…だって、…みんな、嘘つきだ」
「………」


誰が、望んだんだろう。


「……ずるいよ…。」





僕達は、きっと幸せにはならないだろうと、
知っていた。
でも、だからこそ、
今、僕達が一緒にいるこの瞬間、せめて幸せでいようと、
懸命に、頑張っていたつもりなんだ。

どれだけ、嘘つきだって、責めてもいい。

嘘をついた。

幸せであること。
自分にとっての、幸せというのが、何かということ。
いちばん、守りたかったもの。
いちばん、ほしかったもの。


何もかもがなくなった今は、もう、遅すぎるけど。




   たったひとり、君がいない。






…………。



細かいところがしっかりしていないので、そのうち書きなおします。
今書いて、今出さないと後悔する、と思ったので、とりあえず。

色々とご都合主義だったり、いろんなことにごめんなさい。
こんな終わりは自分でも信じていないので、
ああ、こういうパターンもあるかもね、くらいに思ってくだされば幸いです。