046:花粉
部屋に帰ると、花が、飾ってあった。
「………」
一昨日も、昨日も、そして今日、もしかしたら、明日も。
花は好きなのでそのままにしてあるが、不思議だし、気味も悪い。
部屋中に飾ってある、春めいた、いろんな花達。
何となく、ピンクで埋め尽くされている気がする。殺風景な部屋が、華やかだ。
「………誰だ…?」
仕事机の端に置かれた一輪挿しの花瓶から、淡いピンクのバラを取り、
マルスはぽつりと、呟いた。
キスをするように、花びらにそっと、唇を寄せる。
******
「…っくしゅんっっ!!」
「…ロイ?」
風もあたたかくなってきた、ある日のこと。
夕飯の買出しに行っていたロイとマルスは、並木道を通っていた。
伸びた枝の先、小さな花が一つ二つとほころんでいて、まだ、満開には程遠いが、
それでもやはり、綺麗な花だと、思う。
寒い冬を越えて、ようやく咲いた花。
マルスは、この“世界”に来て初めて見かけた、この、桜という花が好きだった。
その下で、
ムードも何もかもすべてをぶち壊している、赤い少年、一人。
やりきれない顔で鼻を啜(すす)るロイを、不思議そうに見下ろす。
「大丈夫か?」
「うん? …あー、うん」
「さっきから、ずっと、くしゃみばっかりしてるだろ。
…風邪、とかじゃなくて?」
マルスが言うと、ロイは、いかにも腑に落ちない、といった顔で、マルスを見上げた。
確かに、マルスの言うとおり、
ロイは先程から、くしゃみばかり繰り返している。
何故か。
マルスの目から見ればそれは、風邪の症状にしか見えないのだが、
ロイ自身は、風邪特有の気だるさなんか、少しも感じていなかった。
「違う、と思うんだけど…」
「…そうなのか?」
心配そうに、ロイを見つめる、マルス。
…何だかんだ言って、ロイのことは、それなりに大切に思っているらしい。
そんな小さな幸せを、
ああ長いこと苦労した甲斐があった、と、こっそりガッツポーズなどしながら喜ぶロイは、
いつものように、ぱっと笑った。
「大丈夫だって。そんな心配しなくても」
「……。…心配なんか、」
「うん、わかってるわかってる」
「…………。…帰ったら、マリオさんに、診てもらえ…」
「はーい! 了解ー」
視線をこころもち外しながら、小さな声で呟くマルスに、
ロイはこれでもか、というほどに、元気な返事をした。
そんな元気さとは裏腹に、
ロイはその後、屋敷に帰るまでに、六回、くしゃみを繰り返す。
*
「ああ、それは、花粉症だな」
マルスが、買ってきたものを冷蔵庫に詰めている間に、
ロイは、一階の医務室にいた、マリオの元へやってきた。
そしてマリオは、ロイの症状を口頭で聞くなり、きっぱりと言った。
「花粉症」だと。
そしてそれは、ロイが聞いた事のない病気だった。
「かふんしょう?」
「ああ。まあ大雑把に言えば、身体が花粉に異常な反応を示す病気だな。
それで、くしゃみが止まらなかったり、目がかゆくなったりする。
ひどいと、肌がかぶれたりもするけど」
「…俺の“世界”では、こんなんなかったですけど」
「じゃあ、こっちの世界にだけある木の、花粉症なんじゃないか?」
「花粉全部ってわけじゃないんですか?」
「だったら今頃、花粉症の人は死んでるぞ。
世界にどれだけ、花とか木があると思ってるんだ」
どこにでもあるもの、例えば公園とか花屋とか山とか。
「……ああ」
「な?」
納得したらしい。
「でも俺、去年は全然、何も無かったんですけどね」
「いきなり出る人もいるんだよ。生まれつき、もあるんだけどな」
「ふーん…。」
なんてまあ、厄介な病気もあったものか。ロイは溜息をつく。
まあ、仕方ないか、と気を取り直すと、再びマリオに尋ねた。
「…じゃあ、さあ、マリオさん。俺って何の花粉症?」
「んー…? …じゃあちょっと訊くけど、
お前、どこにいると、くしゃみがひどくなるか、わかるか?」
「え…、」
ここ二日、三日くらいの自分の行動を、ロイは思い返す。
公園、商店街、帰り道、そして屋敷。
自分のくしゃみがひどかったのは、どこだろう。
「………あ」
やがて。
ロイの思考は、二つのところに辿り着く。
「…東区の公園の丘。と、商店街行くトコにある、並木道。…かな…」
「丘公園と並木道?
…ってことは、あれか。はいはい、なるほどな」
かわいそーだなー、と言いながら、マリオは手元の紙…カルテらしきもの…に、
さらさらと何かを書きこんでいく。
その手を見ながら、ロイは、何の花粉症? と尋ねた。
「桜」
「…桜?」
よく、マルスを探しに行くと、見かける花だ。
淡いピンク色の、春の花。
花びらが無数に舞って、その中に立ち、見上げるマルスを、綺麗だと思ったことがある。
「…あれか」
「そ。あれ。
で、ロイ。どうする?」
「何がですか?」
マリオは、目の前のガラスの戸棚を開けて、何かを探す。
やがて、
ロイにはわからないことが書かれたラベルのある、小さな白い瓶を取り出した。
プラスチック製で、中は見えない。
「ひどいようなら、薬出すけど」
「えー? …あー…、」
やや上向きに視線をずらし、ロイは少しだけ考えた。
そして、
「別にいーや。そんなに困ってるわけでもないし。
近づかなければいいんですよね? 要は」
「ま、そーなんだけどな」
「花見の前にはもらっときます」
「はは、ロイらしいな。じゃあ、わかった。
とりあえず、現段階では、薬はナシ、と」
手元のカルテに、更に何か書き込んで。
「じゃあ、もう行っていいぞ」
「はーい。ありがとうございましたー」
イスから、立ち上がる。
ドアとは反対方向、窓の方に歩いた。
窓を開けて、軽々と跳び越える。
庭に着地した。
「あ! おいこら、ロイ! 窓から出るな!」
「すいませーん。窓、閉めといてくださーい」
「っ、たく…」
笑いながら、たたた、と駆けて行くロイの後姿を見ながら、
マリオは、ったくこれだからロイはー、などと呟いている。
「子供扱いは嫌がるくせに、こーいうとこは子供だよなあ」
ぶちぶちと言いながら、窓を閉めて、ついでに鍵も閉めた。
春になったとはいえ、まだ、少し寒い。
「…で。」
閉めた窓の向かい側にある、扉に向かって、
「入っていいぞー」
軽い調子で、言った。
引き戸が、ゆっくりと開く。
「…すみません、無理を言って」
「いーや、構わないよ」
そこにいたのは、申し訳無さそうに苦笑する、マルスだった。
「それで、ロイは何だったんですか?」
「そんな心配そうにしなくても、風邪じゃなかったよ」
「……。…別に、心配なんか、」
「はいはい」
マルスをなだめつつ、マリオはマルスに、イスを勧める。
それ程話が長くなるわけではないが、立ったままでは、話しづらいから。
失礼します、と言いながら、マルスがイスに腰掛けたのを見計らって、
マリオは本題に入った。
「ロイはな、花粉症、っていう、一種の病気? なんだ」
「…かふんしょう?」
「身体が、花粉に対して、異常な反応を示すんだよ。
本来身体っていうのは、異物に対してだけ防衛行動をするはずなんだが、
それが何故か、無害の花粉に対してまで、防衛行動をしてしまう。
一種の体質だな。だから、風邪じゃないけど、風邪みたいに見えるんだ」
「…そういう、病気があるんですか…。
…あの、それじゃあロイは、どの花粉に対して、花粉…症、なんですか?」
流石、と言おうか。
マルスはマリオの話を、驚くほどの理解力で、受け止めた。
頭の回転の速さに感服しつつ、マリオは質問に答える。
「桜」
「……。…桜…、」
「ああ。…そういえば、マルスの好きな花だな」
「え…。…どうして…」
「ロイが言いふらしてたぞ」
「………。」
ロイ、という名前が出た瞬間、顔に感情を滲み出す、マルス。
そんな二人のバカップルっぷりに、マリオはこっそり溜息などつきながら、
デスクの上のカルテを、手に取った。
マルスにはわからない用語がたくさん書かれた、医者のカルテ。
興味深そうに見つめながら、マルスは更に、マリオに尋ねる。
「…それで、何か、治療法か…予防策は、あるんですか?」
「ああ、んーとな…。治療…は、ちょっと難しいけど、予防策なら。
やっぱり、近づかなければいい、っていう、話だな。
予防の薬を飲むとか、後は、できれば洗濯物を、中で干す、とかだな」
「……。…え?」
洗濯物を、中で干す。
花粉症とは、まったく関係が無さそうなことだ。マルスは首を傾げる。
近づかなければいい、はわかる。予防の薬、も、予想はついていた。
しかし、一体、どういうことなのだろう。洗濯物が、何か関係があるのだろうか。
「…洗濯物…って。……それが何か、関係が…、」
「ん? …あ、そうか。んっとなー…。
花粉っていうのは、知らない間に、服についてるだろ。
そんなものでも、花粉症は起こるから。
風に乗った花粉が、服につかないように、洗濯物は、中で干す方がいいんだよ」
「………」
マリオの説明は、考えてみれば確かに当たり前のこと、だった。
マルスはそれを何故か、とても複雑そうな顔で、聞いている。
「…そう、なんですか…。
…教えてくださって、ありがとうございました」
「ん? ああ…、」
まあ、これが仕事だからな。
そう言ったマリオに、マルスは笑いかけた。
引き戸を開けたところで振り返り、もう一度、深々と頭を下げてお礼を言う。
乱暴にならないように注意しながら、そっと扉を閉めて。
マルスは、小さく溜息をついた。…少し、寂しそうな顔をして。
******
「…やっぱり…。」
部屋に帰ると、花が、飾ってあった。
部屋の中心で立ち止まり、マルスは、ぐるりと全体を見渡す。
やっぱり、淡いピンク色の花が多い気がした。
壁にかかっている花かごに近づき、それをじっと見てみる。
昨日、端が少し枯れているな、と思った花が、取り替えられていた。
「……誰だ…? …どうして……、」
誰、と、どうして。その二つが、わからない。
いつ、はわかる。
自分は最近、図書館に通っているから、きっとその間だ。
そういえば、部屋中が花で埋め尽くされるようになったのは、
図書館に行くようになってからのような気がする。
…ということは、屋敷に住んでいる、誰か。
でも一体、誰だろう。何で、こんなことを?
花は好きなのでそのままにしてあるが、不思議だ。何より、不気味で。
溜息をついて、ベッドに腰掛ける。
サイドテーブルに置かれた一輪挿しには、淡いピンク色のカーネーション。
何の理由で、こんなことをしているのだろう。
誰か、は。
考えても仕方が無い。
部屋中の、淡いピンク色の花を見て。
確かに不気味だけど、それでもやはり、花は綺麗なままだ。
心を、穏やかにさせて。
ふんわりと、マルスは微笑む。
やっぱり自分は、花が好きだな、と、
そう思った。
******
「リンク。何か、本、持ってないか?」
「…は?」
自分の部屋でピカチュウと適当な会話をしていたリンクは、
突然の来訪者 マルスのことだ のこんな質問を受けて、
思わず、目をまるくした。
振り返ったピカチュウも、きょとん、とした目で、マルスを見ている。
「本?」
「ああ。もうほとんど読み尽くしちゃって」
「…って言っても、なあ…」
腰掛けていたベッドから立ち上がり、リンクは机に目を向けた。
机に並べてある何冊かの本を、申し訳無さそうに見つめ、
そして今度は、マルスの顔を見、いつものように苦笑した。
「オレの持ってる本って言ったら、あれくらいだし…、
もう全部、マルスには貸した覚えがあるぞ?」
「……、…そうか…。」
「ごめんな。オレが、お前くらい、本、読むんだったら良かったんだけど」
マルスの部屋を思い出しながら、リンクは言う。
それなりに大きな本棚には、さまざまな種類の本がいっぱいあって、
しかも確か、机やベッドの上にも、何冊か、載っていた。
…本棚に入りきらなくて、とマルスが笑っていた覚えがある。
「ううん。ありがとう」
それでもマルスは、リンクにきちんとお礼を言う。
少し困ったように笑って、お礼を受け取るリンクに目を向けながら、
ピカチュウは不思議そうにたずねた。
「…マルスさん、図書館、行かないの?」
「え?」
「図書館なら、いっぱい、本、あると思うけど…」
それはピカチュウからしてみれば、至極当然の質問だったのだが。
「………。」
何故か、マルスは、困り顔になってしまった。
「…マルス?」
「……あ、いや…。…うん、…その…。」
「……?
…マルスさん、最近あんまり、お外出ないよねえ」
何かあったの? と、尋ねるピカチュウに、マルスは苦笑を返す。
確かに最近、マルスを屋敷の中で見かけることが多いような気がする。
散歩が日課の彼にしては珍しい と、
リンクは今更、ふと思いついた。
自分よりはずっと早く気づいていたらしい口ぶりの、小さな親友を感心したように見る。
「…図書館って、街の西…だよな」
「ああ、そうだよ」
「…なら、大丈夫…かな…。」
「……『大丈夫』?」
わけのわからないことを、一人で呟いているマルス。
疑問を感じて、リンクは尋ねるが、
マルスは慌てたように苦笑を返しただけで、答えはしなかった。
「…じゃあ、明日にでも、行ってみるよ。
ありがとう、ピカチュウ。…リンクも」
「ああ、いや…。」
軽く手を振って、マルスはリンクの部屋を、後にした。
その背中を、時間が流れるままに、呆然とリンクは見て。
そんな様子のリンクを視界の端に入れながら、
ピカチュウはこくん、と首を傾げる。
「……何か無理してない?」
「……マルスのことか?」
「うん。…何か…、ロイさんが怒るような無理の仕方じゃないんだけど…」
人に聞かせるというよりは、自分の考えをまとめるためのように、
ピカチュウは静かに、頭の中を声に出して整理する。
例えは無茶苦茶だったが、なんとなく納得してしまうあたりが、
自分とピカチュウの数少ない共通点なんだろうな、と思った。
はあ。と、リンクは、深く深く溜息をつく。
マルスは今度は、どんな無理をしているのだろう。
それが既に習い性になってしまっているらしく、その辺が悲しい。
自分ではけっして助けられないとわかっているから、余計に。
ただ、ピカチュウがああ言っているし、
マルスもそれほどつらそうではないし、それだけが救いだ。
何にせよ、事態が、変な方向にこじれなければいいが。
「……。…そういえば、なあ、ピカチュウ」
「なあに?」
ふと、今度こそ、完全な思いつきで。
「桜」
「さくら?」
「今度、散歩がてら花見に行こう、って約束してたろ。
今週はちょっと駄目みたいなんだけど、来週は、天気、良いらしいから」
「あ、うん。わかった」
へら、と嬉しそうに笑うピカチュウ。
…ちょっとかわいい。
何を考えてるんだ、オレは、と。
何度目かの溜息をついて、リンクは苦笑した。
窓の外には。
どこから散歩にきたのか、桜がひとひら、
ガラスの横で、舞っていた。
******
「………。
…いい加減、慣れたけどな…。」
部屋に帰ると、花が、飾ってあった。
ピンク色でほぼ統一された、花で埋もれた部屋。
溜息をつきながら、マルスはベッドに腰掛ける。
サイドテーブルの一輪挿し、昨日まで咲いていたカーネーションは、
ピンク色のスイートピーに換えられていた。
そうだ確かに、昨日、元気が無いな、とは思っていたのだけれど。
一体、誰だろう。
誰が、何を思って、こんなことを?
部屋を埋め尽くすような花なんて、用意だけでもかなり大変だろうに、
それを更に、わざわざ他人の部屋に飾って、
注意深く花を観察して、元気の無いものは適宜取り替える、なんて。
「………」
マルスは、考える。これだけの量の花。
…調べてみれば、わかるんじゃ、ないか?
「………」
締め切ったガラス窓に手をついて、マルスは外を見た。
ひんやりと冷たいガラスの向こう、淡い色の花びらが舞っている。
どこから来たのだろう、と穏やかな気持ちになって。
一つの決心を明日の予定に組み込んでから、
マルスは図書館から借りてきた本を、ぱら、と開いた。
******
「あっれ、マルス。こんなところにいた」
「? …、ロイ」
散歩から帰ってきたロイは、リビングで相変わらず読書に耽っていたマルスを見つけて、
いかにも意外そうに、こう、言った。
意外だったのはマルスも同じで、思わずきょとん、としてしまう。
本に栞を挟み、自分の膝の上に置いて。
「僕に、何か用か?」
「いや、用ってわけじゃねーんだけど…」
辺りを何気なく見渡しながら、ロイはマルスの目の前にやってくる。
少し離れたところで、プリンとピチューが、白い画用紙にクレヨンで絵を描いていた。
「さっきまで外行ってたんだけど、いつものとこにいるかなと思って。
で、あそこ行ったんだけど、いなかったからさ」
「…いつものところ?」
「あそこだよ、丘公園のてっぺんの、桜のとこ。
マルス、あの花が咲いてた時、いつもあそこにいただろ?」
桜の木の傍で、空を見て、子供達の声を遠くに聞きながら、本を読む。
肩に留まりにきた、小さな鳥と一緒に。
それがこの時期の、マルスの日課だったのだ。
「ああ…」
ロイの返答を聞いて、マルスはようやく納得する。
そして。
「行かないよ。
だって、桜を見に行ったら、ロイが…」
そこまで言って。
はっ、と、マルスは慌てて口に手を当てた。
「え?」
「…いや…、」
「……何、俺が、何だって?」
「………」
怪訝そうに…どちらかと言えば脅しに近い…尋ねるロイの前で、マルスは押し黙る。
膝の上に乗せた本に、手を置いて。
答えられないまま、時間が流れる。
屋敷の中で、庭で遊ぶ、子供達の声が、遠く。
そして。
「…何でもない!」
「あっ!!」
本を置いて、いきなり立ち上がって、マルスはその場から全力で逃げ出した。
横をすり抜けた瞬間、ロイが慌てて振り向いたが、もう遅い。
「おいこらー!! 逃げんなーーー!!
…ああもう、ったく」
発言に引っ掛かることがあったのももちろん、逃げられたことにも不満を抱きながら、
ロイは不機嫌そうに溜息をつく。
ソファーに置き去りにされた本に手を伸ばすと、それは何か、病気に関するもののようで。
ずいぶん難しいものを読んでるなと思ったその時、何かが目に入った。
「………」
本の裏表紙に、貼り付けられたバーコード。
…この本は、図書館のものだ。
「………変だな。
本って、マルス、いつも買ってるような気がするけど…」
彼は、読んだ本はできれば自分の手元に置いておきたい人だ。
そして彼のお金は基本的に、本にしか使われない。
ついでに言えば図書館は以前、女の子と間違われてナンパを受けたことがある場所なので、
彼は図書館へはあまり行かないはずだった。
「………桜…?
…桜と俺が、どうしたって…」
本の表紙を、じっと見つめる。
アレルギーがどうこう、と、タイトルに書いてある。
「………」
その時。
偶然、庭に出るための大きな窓の外を通りがかったマリオを見て。
「………ああーーーっっ!!」
ロイはようやく思い出した。
「マリオさんっっ!!」
「うわっ!!」
壊れそうな勢いで窓を開けて、ロイはマリオを呼び止めた。
至近距離で突然叫ばれ、当然驚いたマリオは、ぎっ、とロイを見上げる。
が。
「おいこら、ロイ! 急に叫ぶなっ!」
「マリオさん、俺、なんとかって花のビョーキでしたよね!」
「…あー? 何だって?」
とてつもなく唐突な質問に、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「…花、って、花粉症のことか?」
「そう! それ! で、マリオさん、もしかして、マルスに何か言いました!?」
「…マルスに?」
「言ったっていうか、訊かれたっていうか!」
「……あー。…まあ、訊かれたが…」
「やっぱり!! それでッ、その時何か余計なこと言いませんでした!?」
「余計なこと? …って、ロイ待っ、掴むな掴むなっ!」
襟首を引っ掴んで質問攻めをするロイを、マリオは慌てて制した。
バカップル間の問題で、首を絞められて永眠、なんて冗談ではない。
絶対浮かばれない。というか浮かばれたくない。
必死の思いで手を離させ、呼吸を整えながら、マリオは答える。
「別に、余計なことだとは思わんがなー。治療法とか、予防策がどうとか…」
「予防策が何だって!!」
「…いや、薬を飲んでおくとか、近づかないとか、洗濯物を中で干すとか…」
「………洗濯物?」
洗濯物が一体どうしたというのか。
不思議そうな顔をしたロイを見て、お前ら本当に以心伝心なんだな、と呟いた。
「いや、ほら。花粉は目に見えないだろ。
で、服についた花粉とかでも、花粉症には悪いからな」
「………。」
医者の顔ですらすらと語るマリオの顔を見ながら、ロイは言葉を失くす。
たっぷりと、10秒ほど。
「…ロイ? おーい、どうした?」
「………。
…いえ。…何でも、ないです…」
「何でもないって顔じゃないけどなー」
まあ、そう言うならいいけど 。
そう言ってマリオはさっさと、向かっていた方へ歩き出す。
その背中を見送ることもせずに、呆然として、ロイは。
「………ったく。
………あの人って、頭良いくせに、何っでこう…」
ぽつり、と一人、呟いた。
不器用だな、と。
庭の隅、小さな、四角い花壇に目を向ける。
冬の間もずっと、彼が世話をしていた。
春のあたたかな風の中、あざやかに咲いた花。
「………」
その目の先は、やがて、ソファーの上、マルスが置き去りにした図書館の本に移った。
ロイは、考える。
春の花。
はじめて、彼を綺麗だと意識した、
花の名前を、色を、思い出しながら。
******
昨日借りた本を図書館に返してから、マルスは道をひたすら歩いていた。
西の図書館から中央の商店街、途中で女の子と間違って声をかけてきた男をしばき倒して、
マルスはひたすら南へ向かう。
この街に、花屋は3つ。
その中で、一番大きな店は、南区にあるものだからだ。
マルスは考える。
そうだ、どうして今まで考えつかなかったのだろう。
図書館に通うようになった理由。
ロイに、そのことを気づかれそうになった日。
気づかれたのだろう、きっと。
本も置き去りにしてきたから。
マルスが外に出ず、図書館だけには通っていた理由。
屋敷から図書館までの道には、桜が咲いていないから。
「………あのバカ、」
次の日からだ。
マルスの部屋に、花があふれるようになったのは。
この屋敷に来てから、ロイとはずいぶん一緒にいる。不本意な時もあったけど。
マルスは歩いて、歩きながら考える。
少し考えれば、わかりそうなものだ。
ロイの性格。
ロイの行動パターンくらい、マルスはちゃんとわかっている。
中央の商店街を抜けて、南区へと続く道を進む。
建物が少なく、自然が多い風景。真っ直ぐ伸びる道。
ずっと遠くに、淡い色をつけた花を見つけて、マルスは目を細めた。
桜。
服についた花粉にまで、彼が具合を悪くするというのなら。
自分が桜を見に行くのも、やめた方がいいと。
そう思った。
真っ直ぐ伸びる道を進む。
遠くに、大きな、桜が咲いている。
その隣に、その店はぽつん、とあった。
店頭に、たくさんの花を並べて。
「………、」
久しぶりの道を、歩いて、近づいて。
店の前、腕の中に、
桜と同じ、ピンク色の花を、いっぱい抱えて。
「………ロイ!」
「………!!」
真っ赤な髪。
時折、どんなムードだってぶち壊す、くしゃみをしながら。
ロイが、そこにいた。
「………な、」
「………」
マルスは複雑な表情をしたまま、ロイの方に歩く。
そしてロイはと言えば、マルスがここにいる、ということが信じられないらしい、
碧の瞳を大きく開いて、かなり動揺している。
ともすればその場から逃げ出しそうなほどの動揺っぷりだが、
マルスの睨むような瞳のせいか、
それとも単にマルスから逃げるという行為がロイ的に許せないのか、
花を抱えたまま、ロイは逃げ出さない。
くしゃみを一回して、そしてまた、マルスを見つめる。
そして。
「…何、で、あんたがここにっ」
「…それはこっちのセリフだ。…どうして…」
ようやく紡げた言葉は、マルスに一瞬で破棄された。
ロイの目の前、手を伸ばせば届くところで立ち止まる。
マルスはロイの腕の中、花に目を向けて、ロイの瞳を見た。
そう、部屋の中のあの花は、ロイの仕業だったのだ。
「どうしてこんなところにいるんだ? …僕の部屋の、花…。
…お前だったんだな。…どうして?」
「………。…だっ…て、…」
マルスの部屋を埋め尽くしていたのと同じ、淡いピンク色の花達。
悪いがロイにはその花は、まったく似合っていないように思う。
自分でもそう思っているのだろう、ロイは居心地悪そうに、
ぽつり、ぽつりと呟く。
「…あんた、桜。…見に行くの、やめたんだろ」
「…ああ」
「…それ、俺のせいだろ? …えっと、何だっけ」
「……花粉症?」
「そう、それ。…洗濯物の話聞いた時、思ったんだよ。
あんた、気、遣いすぎなんだよ…。…外出るの、やめよう、なんて。
…図書館までは、桜は無いからな。だから、だろ?」
「………」
外に出なければ、桜を見に行かなければ。
自分の服が花粉に汚れることも無い。
マルスが、ロイの行動を読めたように。
ロイもまた、マルスの行動を、読んでいたらしい。
マルスは、こくん、と頷く。
「…何でだよ、ったく…」
「だって、ロイ、具合、悪そうだったじゃないか。
…だから、僕ができる範囲でなら、…予防した方がいいのかな、って」
「だからっ、何であんたがそう思うんだよっ!」
「っ、」
怒鳴るようなロイの声に、マルスはびくっ、と肩を竦める。
それを見て、少し冷静になってから。
ロイは、続けた。
「桜でどーにかなるのは、マルスじゃなくて、俺だろ?」
「………」
「あんた、桜見に行くの、毎日楽しみにしてたじゃねーか。
好きなんだろ、あの花」
「………」
「何であんたが、俺のせいで、
好きなもの見に行くってだけなのに、それをやめなきゃいけねーんだよ…!」
怒ったように。
それ以上に、悲しそうに、ロイはマルスから視線をそらした。
春という季節を身体いっぱいで表す、儚いけれど、綺麗な花。
降りしきる花の中、それを見上げる横顔。
「……俺は。…俺が具合悪い、とか、そんなのより」
「………」
「……マルスが、桜を見に行けない、っていう方が、嫌だ」
迎えに行く、足を止めて。
いつも、それを見ていた。
「…桜を見てる、…あんたのことが…。
…俺は、好き…なんだから…、」
「……ロイ…。」
好き、という言葉は。
呆れるほどにロイが繰り返す言葉だ。だけどいつも暖かかった。
それとはまた違ったように、マルスには聞こえる。
蓋を開けてみれば、結局お互い、相手に気を遣いすぎていただけの。
自分としては、それは当然の行動だったとしても。
「……それで…。」
「………」
「……毎日、僕の部屋に、花を飾ってくれてたのか?」
「………まーな。
…似た色の花を選んでたんだけど…。…代わりに…ならないかと思って」
花、というものが、マルスにとって、どんな安らぎになっているのか。
ロイは知っている。
暖かい風が、吹く。
ざあ、と音をたてて、散っていく花びら。
花屋の横、満開の時期をほんの少しすぎた桜が舞い、
立ち尽くす二人を、包んだ。
「………マルス、」
「…?」
ふいに、ロイがマルスを呼んだ。腕の中、ピンク色の花束。
桜より少し色の濃い花を、ロイはマルスに差し出した。
「え、」
「やるよ。あんたの為の、花なんだから。
今日のぶんの花だよ。…今日で、最後」
不機嫌そうな子供の顔で。
ロイは、言う。
「…俺の病気は、死ぬわけじゃねーし、薬とか飲めば、抑えられるんだから。
明日からは、ちゃんと、本持って。…公園まで、桜、見に行けよ」
「………」
「…ちゃんと…。…時間になったら、迎えに行くから」
「………。…うん」
差し出された腕から、マルスは花を受け取った。
抱きしめて、花に顔を埋める。
ずっと部屋を埋め尽くしていた、花の香り、そして、ロイの気持ち。
マルスは微笑み、一歩、前に出て。
「……。…っ、」
「…ありがとう。ロイ」
不機嫌なままのロイの頬に、触れるだけのキスをした。
「………なっ」
「?」
マルスが離れると、ロイはびっくり顔で、マルスを見る。
仕方が無いとは思うが。
「なっ、マルスッ」
「…? どうした?」
「…何っ、で、そのっ、…キスなんかっ、」
「……? …別に…。…したく、なったから」
「〜〜〜っ…! ……卑怯だ…」
「……??」
自分の行動を大して意識していない、マルスは不思議そうに首を傾げたが。
ロイは真っ赤な顔で、真っ赤な髪をかき乱した。
花を抱きしめ、花よりずっと綺麗に微笑んでみたりして。
マルスは自分の見た目にもしぐさにも、まったく興味がない。
大したお礼を受け取ったものだ、と、ロイは溜息をついて。
そして、マルスの手首を掴んで、軽く引いた。
「っ、」
「ほら。…帰ろうぜ。その花、飾ってやんなきゃ」
「……え…。」
それは、とても唐突な。
あきらかに、照れ隠しの言葉だった。
腕を引く手を、赤いままのロイの横顔を、マルスは不思議そうに見つめる。
そのまま歩き出したロイは、視線を感じても、こっちを向かない。
花屋の店員の、ありがとうございました、という声を背中に聞きながら、二人は歩く。
真っ直ぐな道。舞い散る、桜の花びら。
店の横にある桜を見上げながら、マルスは思い出す。
こちらの“世界”で初めて目にした桜を、マルスは一目で好きになった。
そして桜の舞い散る中、立ち尽くすマルスの姿に、ロイは意識ごと奪われた。
もうずっと前、あたたかな春の日。
ロイにとっての、二人の本当の出会いは、桜の下での出来事だった。
「…っくしゅんっっ!!」
「…ロイ」
何かを思い出しそうだったマルスは、ロイのくしゃみで現実に引き戻された。
ムードも何もかもを一瞬でぶち壊す、事の発端。
「…ふふ…、」
「っ何だよ、何で笑うんだよっ」
「…ううん。何でもない」
なんだかおかしくなって、声をたてて笑ったマルスを、ぎっ、と睨んで。
ロイはより強く、マルスを引っ張って、歩いた。
桜の下で。
「…あれ?」
「ん?」
「ロイさんと、マルスさん」
「……本当だ。解決したのかな」
「そうだね。良かったね」
「ああ」
縦向きに並んで歩く、二人を見かけて。
商店街の近く、桜並木の中で、一人と一匹は、笑った。
それは、何度目かの春。
春うららか、暖かな日のできごと。
2年くらい前に書き始めて全然終わらなかったものです。
お陰でずいぶん長くなってしまいました。
桜の花粉症はですね、あったような気がするんですよ、ソメイヨシノとか…。
よく覚えてません、すみません。調べておきます。