036:アンティーク




かちん、と音をたてた針が、午後二時を指した。
それを合図に、時計の中で、小さなバレリーナがくるくる回る。
オルゴールのメロディーが、明るく時を告げたのと同時に、
マルスは、リビングのドアを開けた。
おそらく誰かを探しているのだろう、マルスはリビングをぐるっと見渡す。

「……あ…、」

探していた人は、そこにいた。
リビングの真ん中辺りに、向かい合わせに置いてある、三人掛けのソファー。
   ロイは、そのうちの一つを占領して、ぐっすり眠っていた。
静かな寝息に合わせて、はねた赤い髪が少しだけ、揺れる。

「…まったく、」

横向きにソファーに寝転がり、組んだ足は、肘掛けに乗せている。
…マルス目で見て、非常に行儀が悪いが、そういうところがロイらしい。
マルスは溜息をつくと、ソファーの方に向かった。
目の前に立って、見下ろして、もう一度溜息をつく。
すう、と息を吸い込んで。

「ロイ! 起きろ! …そんなところで寝てると、風邪、ひくぞ!」
「………」

ためしに声をかけてみるが、起きそうもない。
マルスは今度は、肩に手をかけた。軽く揺すってみる。

「ロイ、…ロイ、起きろ!」
「……っ…。…んー…、」

身体を、ほんの少し捩(よじ)って。
ロイが、ぼんやりと、瞳を開く。どちらの色だか知らないが、碧の瞳。

「ロイ」
「………」

開いたり、閉じかけたり。
まだ眠い、と訴える、ロイの瞳。
マルスはそっと手を伸ばして、ばさばさの髪を撫でてやる。
起きろ、と、言いながら。

「………、」
「ロイ? …起きたか?」
「…ん…、」

やがて。
ゆっくりと上半身を起こしたロイは、じっとマルスを見つめた。
そして。
いきなり、マルスの手首を、乱暴に掴んで、引っ張った。

「っ!」

痛みに、顔をしかめるマルス。お互いの位置が近くなる。
そんなマルスの顔をじいぃっ、と見ながら、眠そうな声で、一言。


「………はは、うえ?」


「……………。」


次の瞬間。


ロイの頭に、マルスの鉄拳が炸裂した。



   ******



「………ってー……」
「…自業自得だ」

向かい合わせの三人掛けのソファーの一つを占領して、
ロイは横向きに寝転がっていた。組んだ足を、肘掛けに乗せて。
但し今度は、枕つきだ。
一国の王子様の、膝枕、という、ものすごい特典。…マルスは不本意そうだが。

ソファーに腰掛けて、膝の上にロイの頭を乗せて。
マルスはこのうえなく不機嫌そうな顔で、ロイの額を撫でてやっている。
ちなみに撫でてもらっているロイはといえば、
嬉しそうではあったが、今は額の痛みの方が勝っているようだった。

「…誰が母親だ、誰が…」

ぶちぶちと文句を言いながら、マルスはロイの額を、冷やしたタオルで覆う。
やや大きめのタオルは、同時に、ロイの目も隠してしまった。

先程の拳が、思っていた以上のダメージを与えてしまったらしい、
目の前がぐるぐるするー、なんて言い出したロイの看病を、
根っこの甘いマルスはわざわざ、自分から買って出たのだ。
その際にロイから要求された、「膝枕がいいなあv」なんていうお願いまで、
きっちりと聞いて。

「そんなに怒ることないだろー! 仕方ないだろ、寝ぼけてたんだから!」
「…寝ぼけるにもほどがある」

タオルで目まで覆われているために、ロイからはマルスが見えない。
それでもロイは、顔をマルスの方にちょっとだけ傾けて、言う。
そんなロイに、容赦の無い返答をして、マルスはふかく溜息をついた。

「何か、夢でも見てたのか?」

母親と間違えたからには、きっと、そんな夢を見ていたのだろうが。
自然にそう思い、ほんの少し疑問が生じて、何気なく尋ねた。

「………」
「……? …ロイ?」

そんな疑問の、すぐ後で。
ロイは、口を噤む。見えるだけの表情を消して。
それはいつものロイらしくはなく、別の人のようで、マルスは不安になった。
何か、余計なことだったのだろうか。

「…ロイ、…あの、」
「え? …あ、うん…ごめん、…そうだな、」

触れられたくないことだったら、謝ろうと思い、声をかけたマルス。
ロイはすぐに、いつもの調子を取り戻したが、声だけが、少しだけ固い。

「……うん。夢、見てたかも」
「………」

懐かしむような声。
やがて、ロイは、ぽつり、と切り出した。
看病の手をとめて、マルスは、隠れているロイの瞳に、目を向ける。

「父上がいて、あの小さいのは多分、俺だったんだろうな。
 ってことは、多分、あの人が俺の母親なんだと思うんだけど」
「……たぶん?」
「……。…ああ、そっか。マルスには、言ってないんだっけ」

軽い調子のロイ。
まあ確かに、わざわざ話題にするようなことでもないしな、と。
さらり、と告げる。

「俺、母親のこと、知らないんだ」
「……え…、」
「俺が生まれてすぐ、亡くなったらしくて。
 父上とも、母上のことは、一度しか話したことないし」

ロイは、自分の境遇を、まるで他人事であるかのように声に出し、話にする。
どちらの色だか知らないが、碧の瞳は、どこかに向けて。
ロイが、マルスの目を見ずに話をする、というのは珍しいが、
声に、何の感情も見せずに話をする、というのも、同じくらい珍しかった。

話が続くほど、表情に影が落ちる、マルス。
目を覆われているロイは、それには、気づかない。

「絵とか飾ってなかったし、写真なんて無いしな。
 だから、確かめようにも、手段が無いし…」
「……それ…は…、」
「?」

ロイの言葉を遮るように、ぽつり、とマルスは呟く。
隠れたままの瞳を、マルスの方へ向ける、ロイ。

悲しそうな、子供のような顔をして。
マルスは、静かに言った。

「……何だか、…つらいな」
「………」

   何を、

思い出しているのか、ロイには、マルスが、わからなかった。
震える声で、ただ、一言だけ告げた、マルスの記憶。
お互いの境遇なんか、それほど興味は無かったし、
仮に興味があったとしても、それは大概、つらいことだったから、
触れずにいた。

前に。
一度だけ、聞いたことがある。マルスの、両親のこと。

「………別に…。…俺には、父上がいるし」

オウジサマなんか、豪華な装飾品と、たくさんのひとに囲まれて、
のんびり裕福にやっているんだろうな、なんて、夢みたいなことを考えていた。
実際、彼は、思っていたほどではないにしろ、それなりの世間知らずだったし、
できないことも、多かったから。

一度だけ、聞いたことがある、マルスの、本音。

「……俺は…、」
「………」

まさか、   親に情を持っていない、なんて、思ってもみなかったから。

「………」

額と瞳とを覆っていたタオルを退けて、ロイはわずかに、上半身を起こす。
右肘で、身体を支えながら、左腕は、マルスの首の後ろに回して、引き寄せた。
お互いの顔が近くなる。子供のような、マルスの顔。
ふ、とロイが笑うと、不思議そうに、小首を傾げた。

「……ロイ?」
「…いいんじゃねーの? 別に。そういうことだって、あるだろ」
「………」

まだ、不安に揺れる顔をしている、マルス。
ロイは苦笑して、瞳を真っ直ぐに見つめた。
綺麗な、藍(あお)い色。空とも海とも違う、綺麗な色だ。
マルスが少しでも安らげるように、ロイは続ける。

「偉ければ偉いほど、親と離れる時間、っていうのは、多くなるだろ。
 俺だって、小さいころから、違う国に留学してたわけだし。
 …それでも父上とは話をしたし、小さい頃は肩車もしてもらってたし」

あおい、そらの下。
高く高くを見て、雲がとんでゆくのを、追ったことがあった。
あの時の、父親の高さ。
楽しさに浸る余裕は無く、その後すぐに、離れ離れになったけれど。
まだ、覚えている。
けれど。

「………」
「…マルスには、そんな時間だって許されなかったんだな」

それを、かわいそう、とは思わないけど。
ほんの少し寂しい、と思うのは。
ロイはマルスの頭を抱え込んで、肩口に抱き寄せる。
冷たい髪が、さらりと頬に流れた。

「普通、家族が大事だって思うのは、小さいころ一緒にいる時間が長いからだ。
 長くなければそのぶん、気持ちは減っていくだろ。…大丈夫、責められることじゃない」

自分は、少しおかしいんじゃないかと思っていた。

「だから、さ。……あんまり、自分を追い詰めるなよ」

耳元に聞こえるロイの声が、心地よかった。髪を撫でる、手の温度も。
マルスは静かに瞳を閉じる。
誰にも言わなかった本音を、たった一言、彼に話したこと。
普通じゃなくて、拒絶されるのではないかと思っていた、そんな心を、
ロイは簡単にとかしていく。
ほんの少しの、わだかまりを残して。

年を重ねれば重ねるほど、心の奥が痛んだ。
何の情も示すことのできなかった、幼い自分に。

「それにさ」

あの頃の子供を、見つめて。

ロイは、優しく微笑む。

「そうやって、好きになれなかったことを後悔してる、その気持ちだけで、
 マルスの親御さんは、…わかってくれるんじゃねーかな、と思うんだよ」

昔。
たった一度だけ、父親に、尋ねた。
母親は、どんな人だったのかと。

少しだけ寂しげに笑って。
大きな手が、髪を撫でて。

そう思うことだけで、充分だ。と、そう言った。

「………」

ほんの少し覗いた、藍の瞳が。
泣きそうに揺れたのを、ロイは見逃さなかった。
絶対に、泣いたりはしないけど。
でも。

静かな部屋。手の中に落ちる、冷たい髪の感触。抱き寄せた体温。
すべて、納得するまで、肩に寄せて、だきしめて。

ささやかな時間のぶんだけ。

優しさが込み上げてきたのに、崩れそうな心を、必死でつなぎとめて、
ずいぶん時間が経った後、マルスはぽつりと、ありがとう、と言った。



時間が経てば経つほど、価値があり、優しくなり。
と、いうわけで、アンティーク、でした。…意味にちょっと差はありますが。

なんか、王子って、親に特別な気持ちとか、無さそうな気がするんです。
で、それを気にしてそうな。理由は話の中で述べた通りです。
たぶん、ゲームと思い切り矛盾する箇所があると思いますが、笑って許して下さい…。