025:一人の夜




時々、どうしようもなく不安になる。
自分だけがたった一人、世界から切り離されているような気がして。





今朝、マルスが熱を出していることがわかった。
自分から「気分が悪い」とか「頭が痛い」とか言い出したわけじゃなくて、
「何か顔色が悪い」とか「歩き方がふらふらしてる」とか、
他のみんなが言い出したのだ。

体温計を取り出して計ってみれば、小さな液晶画面には、「38.4」の表示。
言い訳する間でもない、完璧に風邪だ。




今の状態だと、階段から落ちかねない   と、
ロイはマルスを強引に抱え上げ、部屋まで連れていった。
そのままベッドに寝かしつけて、

「………」
「…だから、具合が悪い時は言えって、あれほど言ってるだろ…」
「…うん」

今は、説教の真っ最中だったりする。

「マルス」という人間が、他人に心配をかけるのが極端に嫌いな人間だというのは、
ロイも、とある一件で知っている。
だが、それとこれとは話は別だ。

ロイは先程から不機嫌極まりない顔で壁に寄りかかり、床に目をやっていた。
そんなロイの顔を、不安げな顔でマルスは見つめる。
機嫌の悪いロイにどう声をかけていいものか、マルスにはわからない。

「……ロイ、」
「何だよ」
「……ごめん、…ね」
「……。…謝るくらいなら、今度はちゃんと自分から言うんだな。
 ………ったく…、」

大きく息を吐いて、ロイが壁から身体を引き剥がす。
一度、マルスの額に手を当てて、その体温がまだ熱いことを確認すると、
ロイは部屋を出ていこうと、マルスに背中を向けた。

その背中を、マルスが身を起こして、声で引き止める。

「……、…ロイ、何処行くの」
「…え? …どこって、」

リビングだけど、と、何食わぬ調子で告げる。
何の変哲も無い答えだったのに、マルスはふ、と表情を曇らせた。
そんな表情の変化に気づかないわけはなくて、
ロイはもう一度マルスの元へ歩き、顔を覗きこむ。

「どうした? …どこか、具合でも悪いのか?」
「……。…そうじゃ、…ない…けど…、」

トーンの落ちた声で、ぽつぽつと告げる。
少し心配になり、ロイはもう一度だけ、手を、マルスの額に押し当てた。
髪の感触が、手の甲に流れてくる。

別段、熱が上がったとかじゃなさそうだ。

その手をやんわりと押し戻しながら、マルスが顔に微笑みを浮かべた。

「……何でも、ない」
「…そうか? …じゃあ、俺は行くからな」
「……うん…、」

マルスの手から自分の手を引いて、ロイは踵を返す。
まだどこか不安げな顔をしたマルスを、少し気にしながら、
ロイは部屋の扉を、静かに閉めた。


「………」

そうなれば、もう部屋には、何も、音も無い。

異常な程静かな、自分しかいない部屋。



不安になるのは、どうしてだろう。



   ******




深い眠りについた。
どれほど眠っているのだろうか、自分でもよくわからない。



自分の手には剣が握られていて、
自分の頬には血が飛んでいて、
なのに周りには誰もいなくて、

誰もいない、一人の夜。



冗談のように、人のいなくなった、戦場の記憶   ……


「……ない、で…」



置いていかないで、一人にしないで。
そんな我侭も言えない、あのころの記憶。

子供っぽいって笑われてもいい。


誰もいない夜は、ただひどく、耳が痛くて。



「……いかないで…、」



見捨てないで、置いていかないで、一人にしないで。
一人の夜を過ごすには、あのころの自分はあまりに幼すぎた。



一人の夜は、怖かった。
世界に自分、一人しかいないんじゃないかと、錯覚させられるから。

我侭を言ってもいいんだと言ってくれたけど、
本当に言ってもいいのだろうか?
それで君は、僕から離れていかないか?
僕を置いていったりしないだろうか?



いくらだって謝るから、君の言うことなら聞くから。


だから   ……









「……ィ…、」

深く眠っていた。
どれほど眠っていたのか、よくわからない。

手をゆっくりと起こしても、その手に触れるものは、何も無い。
仕方がないから、意識を呼び戻す。
重たい瞼を開けられないまま、のろのろと上半身を起こした。
そして。


「………っ…、」

ふ、と目を開けた瞬間、心臓の鼓動が、一瞬止まった。



種明かしをしてしまえば、あまりに単純だった。
部屋が真っ暗なのは、電気を点ける必要のない朝からずっと眠り続け、
夜になったから。
音が聞こえないのは、ここが4階に位置する部屋であって、
夕飯時のリビングのある1階とは、かなり離れた位置にあるから。

でも、それでも。

「…………ぁ…」

真っ暗な部屋。
音の無い部屋。
あるのは自分一人。
誰もいない、一人の夜。


「………や、…だ…」

暗闇の中で、かろうじて見つけた自分の両手。
もちろんその手に、赤い色なんてついてない。

戦場の記憶。
暗闇の記憶、
一人の記憶。

「……ない、で…。…いかないで…っ」

泣きそうな声で、誰かを求める。
でもここは   、一人の世界。


重かった。押し潰されそうだった。


「……いかないで……、…誰か…、」

我侭を言ってもいいんだ、と言ってくれた、
誰か。

助けて   

「………ロ、イ…!!」




「……マルス?」

キィ…と、静かに扉が開いた。
廊下から、細い光の筋が、部屋に差し込む。

はっとして、光の差し込んできた方を向いた。

「……ロイ…、」

      そこには確かに、ロイが、いる。

「起きてたのか…随分寝てたけど、…具合は?」
「………」

ロイは腕に、おそらくマルスのものであろう、寝間着を抱えていた。
壁に手を這わせ、手探りで電気のスイッチを入れる。
そして足を、マルスの方に向けた。いつものペースで、歩く。

ロイの行動に目を向けたままのマルスの額に、再三やってきたように、手を押し当てた。
汗で湿った髪をどけながら、首の方にも手を滑らせる。

「…熱は下がった、みたいだな…。…やっぱり汗かいてるけど」

熱を出して寝込んでいたのだから、当然だ。
腕に抱えていた寝間着を、無造作にマルスに突き出す。
着替えろ、ということらしい。

しかしマルスは、いつまでたっても寝間着を受け取ろうとしない。
ロイが訝って、マルスの顔を覗き込む。

「おい、マルス?」
「………っ…」


      と。


「……ロイッ…!!」
「え、…………っっ!!? な、お、おい…、…ちょ、…マルスッ!?」

マルスが急に、ロイに抱きついた。
その、あまりの勢いの良さに、後ろに倒れ込みそうになるのを、
ロイは慌てて堪える。
まったく予想をしていなかった状況に、ロイはパニックに陥りそうになったが、

「………、」
「……」
腕の中のきゃしゃな身体が、かたかたと震えているのを感じて、
すぅ、と冷静になった。

「…マルス?」
「……ロイ…、」

すがるように抱きついているマルスの背中を、ロイはゆっくりと撫でてやる。

「…いいから、言ってみろよ。どうして欲しいんだ?」
「…………ない…で…、」

ぽつり、ぽつりと、微かな声が、言葉を紡ぐ。
その声を聞き逃さないように、ゆっくりと息を吐いた。

「…置いて、いかないで…。……一人に、しないで………」
「………」

震える声が告げた、それは、確かな望み。

…ロイが、やわらかく微笑む。

「……わかってるよ。…ずっと、こうしててやるから。
 …もう、一人じゃないから」
「………」
「…だから、な? …おやすみ」
「………ん…、」

ロイの肩口に、マルスの頭が、ことん、と落ちてくる。
ロイはマルスのベッドに腰掛けると、マルスの身体を抱きなおした。
自分の足の上にマルスを座らせるようなかたちにしたところで、
ようやっと、マルスが落ち着く。

「……ゆっくり寝てろよ。…折角、こんな世界に来たんだから」
「……うん…、」

背中を撫でてくれている手が、ひどく優しい。

「…ロイ…、」
「何だよ」
「………ありがとう…」

ロイの耳元で、ひどく小さな声で告げる。

「………どういたしまして。」


もう、大丈夫。

自分と、目の前の存在と、二人の夜   …。



また今回はえらくシリアスちっくでした。
いや、もともと私シリアス家だったような気がするんですが(汗)
えらく弱々しいマルスさんになってしまいましたが…こんなんでもいいのかなあ。