010:パソコン
それは遠い遠い、昔のことだ。
どれほど願っても叶うことのない、たった一つの願い。
絶対に忘れないと思っていたのに、記憶の中の笑顔はもうおぼろげで。
どうして記憶というものは不確かなのだろうと、悲しくなった。
せめて、
一番好きなもののことくらい、永遠に覚えていられればいいのに。
「…父上」
「………」
その声は、小高い丘の上から聞こえた。
青い空。今日は快晴で、雲ひとつとして空には存在しなかった。
周りの景色を360度ぐるりと見渡せる丘の上から見る空は、
街中で見るものとは、またずいぶん違って見える。
青い空。下の方に見える栄えた街の、その向こうに、青い海。
同じ名前の色を持つ、なのにまったく違う色を真っ直ぐに見つめている、
赤い髪の男性がいた。おそらく、20代後半くらいの。
「父上。父上?」
丘の上に座っている男性の背中を軽く叩きながら、父上、と呼ぶ者がある。
赤い髪の、小さな子供。
男性に良く似た面持ちをしていた。目の色が、わずかに違うくらいで。
「…父上!」
「……! …あ、ああ。どうした?」
「どうした、じゃありません」
育ちの為なのか、子供は幼い声でいっぱしに丁寧語など使いながら、
少し怒ったように、男性の額…サークレットが嵌っている…をぺしんと叩いた。
ごめんごめん、と笑いながら男性は謝るが、
子供は一向に不機嫌そうな態度を崩さない。
「悪かったよ。それで、どうしたんだ」
「…別に、用があるんじゃ、ないですけど。
父上、何を、見てたんですか?」
先程まで男性が見つめていた方にちら、と視線を向けながら、子供は尋ねる。
どこまでも広がる青い空。遠くで青い空とくっついている、青い海。
男性は、ふ、と笑うと、子供の頭を、その大きな手で、ふわりと撫でてやった。
「…いや。懐かしいものを、思い出したから」
「…なつかしい?」
「ああ。もうずっと、お前が生まれるよりも、前のことだよ」
そう言う男性の表情は、とても穏やかだ。
子供は小首を傾げ、更に尋ねる。
「その、なつかしいものというのは、何ですか?」
「……。…言っても、お前はわからないぞ?」
「でも聞きたいんです。教えてくださいっ」
どうやら子供は、子供扱いが嫌だ、ということを暗に主張しているようだ。
そういうところが子供なんだと、微笑ましさに思わず声をたてて笑うと、
子供はやはり、更に怒った。
「いーいーかーらー!!」
「わかった、わかったよ。…恋人の、ことを。な」
「…こいびと?」
さらり、と。だけどとても大切そうに言った男性。
子供はきょとん、と、その瞳をまるくする。
「…こいびと…。ええと、それは、すきなひと、のことですね」
「…うーん。まあ、そんなものだな」
「母上のことでは、ないんですか?」
「違うな。母上は、母上で、また違うんだよ。
ずいぶん昔の話だ。…初恋の人。…恋人、だったんだよ」
大きな手は子供の髪を撫でたまま、
男性の目は、空と、海とに、視線を移した。
青い空。青い海。
同じ名前がついてるのに、まったく違う。
「…あんなに誰かを好きになるなんて、もう無いだろうと思う。
…お前の母上のことは大切だけど、それでもやっぱり、
あの人以上、好きな人なんて、今までもいなかった。これからも」
「………」
子供は、男性の顔を見上げる。
優しい笑顔なのに、どこか泣きそうな顔をした危うさ。
不安になった子供の心情に気づいたのか、男性は、
お前が気にすることじゃないよ、と笑った。
「…父上、」
「? 何だ? …お前には、まだ少し早かったかな」
「…いえ。どうせ、ぜんぜんわかってませんから。
…あの、その…父上の、…こいびと、は?
こいびとは、結婚するんじゃないんですか?」
「………。
…お前、どこから聞いてくるんだ。そんなの」
ませてるな、誰に似たんだか、と笑って。
ふ、と。
また、あの。どこか泣きそうな顔をする。
「もう、いないんだ。
ずっと昔に。死んでしまったから」
「………」
一緒に。
いたかったけれど。
ずっと傍にいると、約束したけれど。
「………」
「いいんだ。元々、一緒にはなれなかったんだから」
「………どうして、です…か?」
「あの人とは、住む世界が、違うんだよ」
「………。
…よく、わかりません」
むすっ、とした顔になって。誤魔化せたかなと、そう言って男性は笑った。
青い空。青い海。
今日は快晴で、雲ひとつとして存在しない。
「…お前が大人になったら。
…ちゃんと、話すよ。さあ、帰ろうか」
「あ、…はい」
すっ、と、男性は立ち上がる。
背の高いその姿。赤い髪。
まるで憧れるように、子供は見上げる。
ざあ、と風が吹いて、丘の上、草原全体を、穏やかに揺らせた。
「 ロイ様!! 旦那様!! こんなところにいらしたんですか!?」
「………あ。」
ふいに聞こえた声は、今では毎日聞く声だ。
声の聞こえた方を向けば、屋敷のメイド長である中年の女性が、
怒りの形相でこちらに上っていているのが見えた。
「まったく、何をしていらっしゃるんですっ」
「あー、悪かった悪かった。いいだろ別にこれくらい」
「坊ちゃままで連れ出して…!」
「こいつが勝手にくっついてきたんだよ。
どー考えても俺のせいじゃない」
「どう考えれば、ロイ様以外のせいになると思ってるんです!!」
ロイと呼ばれた男性は、碧色の瞳を細めて、楽しそうに笑った。
メイド長は常と変わらず怒っているが、男性にはまるで効果が無いらしい。
それを悟ったメイド長は、はあ、と大きく溜息をつくと、
背の高いロイの足元に、ちょこん、といる赤い髪の子供に手を伸ばした。
「奥様が、一緒にお茶をしましょうと仰っておりましたよ。
さあ、坊ちゃま。帰りましょう」
「あ、はい! 帰ります」
「どーせ今から帰るつもりだったってーのに。まーったく」
「…旦那様も。奥様が探しておりましたよ」
メイド長の手を握る子供が、引っ張るように走っていく。
その勢いに慌てながらメイド長は、両腕を伸ばしてのん気にあくびなどしている男性に、
きっ、と冷たい、事務的な視線を飛ばした。
「え、あいつが? 何だろ」
「何でも、パソコンの調子が悪いのだとか。
ですが私ではあのような機械のことはわかりません故。
ロイ様ならおわかりになるでしょうから」
「…んー。あいつもいい加減、覚えりゃーいいのになあ」
「父上! 早く来てくださいっ」
相性が悪いのかなー。と、のんびり呟く男性の瞳に、メイド長を引っ張る子供が映る。
母上が呼んでますと手をふる子供に、わかってるよ、と笑って言うと、
男性は歩き出した。風の中。一歩踏み出せば、草がさく、と音をたてた。
「………便利な世の中になったよな。それにしても」
ぽつり、と、男性が呟く。
カメラで撮って、ビデオで撮って、ハードディスクの中に、残すという作業。
男性の方はすっかり慣れてしまった作業でも、その伴侶の方は慣れないらしい。
今度は何をしでかしたのやらと溜息をついて、
男性はふと立ち止まった。
後ろを振り向けば、そこには太陽をの光を反射してきらきら光る、
まるでガラスでできたような、栄えた街。
そして、青い空。青い海。
それは遠い遠い、昔のことだ。
どれほど願っても叶うことのない、たった一つの願い。
絶対に忘れないと思っていたのに、記憶の中の笑顔はもうおぼろげで。
どうして記憶というものは不確かなのだろうと、悲しくなった。
せめて、
一番好きなもののことくらい、永遠に覚えていられればいいのに。
あの頃がまるで今のようだったら、覚えていられたかもしれないのに。
パソコンの中に、残しておけば。
いつまでも消えない。
空と海。青い色を見ると、そのたびに思い出す。
ずっとずっと昔。もうほとんど思い出せなくなってしまった、大好きな人。
確かに好きだった。心の底から愛していた。
一緒に。
いたかったけれど。
ずっと傍にいると、約束したけれど。
住む世界が違うから、命の長さが違うから、わかっていたけど叶わなかった。
それが今更、どうだというわけでは、ないけど 。
機械のようにうまくできてはいない。人の頭の中というのは。
昔のことは忘れる。新しいことを覚えていく。
絶対忘れないと思っていたのに、長く長く生きているうちに、気づかずに風化していった。
いつか、無くなってしまうのだろうか。
そう思うと、とても怖いけれど。
まだ生きている。この身体、自分は。
手首を見れば、氷のような色をした、竜の鱗が残っている。
長い長い命の長さが、いったいどれだけ続くのかわからないけれど、
できれば覚えていたいと思った。
忘れない、大切な人。
いつか、何も思い出せなくなる日が、来るのかもしれないけれど。
だけど、まだ、消えない。
おぼろげでも、残っている。
彼の名前。
彼の声。
綺麗な顔立ち。
あの頃の自分より高くて、今の自分より低い、背の高さ。
抱きしめたときの、あたたかな香り。
水のような清冽さ。花のような脆さ。
それを愛したこと。
いつだって自分を支えてくれていた、やわらかな笑顔を。
ロイ、と自分を呼んでくれた、あの幸せな気持ちを。
そして、
今でも、姿形が思い出せなくなっても、今でも目に焼きついている。
青い空とも、
青い海とも、
同じ名前の色なのに、まったく違う、
彼の、青い、色のことを。
竜なロイ様のお話。生きて生きて生き続けて現代へ。とか。
ゆっくりゆっくり成長して、うんと背が高くなったら。
そしてそれを、ちょっと切なく感じてみたりしたら。
子供が生まれても、いつまでも覚えてたりしたら。
いいな。と、思う。のです。