008:茶封筒
ねえ、お姉さん、今、一人?
そんな声がふいにかけられて、彼は一気に不機嫌になった。
腕に抱える花からもらった、良い気分が台無しだと、彼は無視をして歩いたが、
二人の男は斜め後ろについてくる。
やれお姉さん、だの、お嬢さん、だの。一体人を何だと思っているのだろう。
かけられる言葉は、彼の右から左へ、風よりもはやく流れてゆく。
かさりと花がたてた音は、彼の頭に残るけど、知らない人の声なんか、残りはしない。
商店街を南に抜けた、煉瓦造りのお洒落な街並みを歩いて、歩き続けても、
男達は、まだついてくる。
わざとらしく溜息をついて立ち止まると、男達も一緒に立ち止まる。
じろりとにらんで、急いでいるから、と言っても、いい声だなと返されるだけだった。
今のは褒められたのだろうか。疑問符を浮かべて、彼はまた不機嫌になる。
見た目はともかく、彼は自分の声だけは、ちゃんと男のものだと思っていたのだが。
それとも実はこの二人は、お酒にでも酔っているのだろうか。
だとしたら、分別がつかないとか、判断力が欠けてるとか、それで済ますことができる。
彼は、再び歩き出した。
男達は、まだついてくる。
それにしたって、この二人は、何だってこんなにしつこいのだろう。
うっとうしいことこの上ない。自分は女ではないし。
人に恥をかかせるのは好まないので、彼はそうは言わずに遠回しに断り続けていたが、
男達は軽薄そうな微笑みを見せるだけで、まったく動じなかった。
思わず、彼は二度目の溜息をつく。
そんなふうに街を歩いていると、突然鼻先に、何か冷たいものが落ちてきた。
思わず立ち止まって、空を見上げると、銀色の線が降ってきた。
黒い、暗い雲。だけど遠くの空は明るい。夕立だ。よりによってこんな時に。
彼は辺りを見渡すと、一つの店に目を留めた。
ウインドーに、金髪のエトワールの人形や、バラの細工に飾られたブローチとか、
花模様が描かれた、ぼんやりとあかるいランプが置かれていた。
彼は、そちらに足を向ける。店の前に、屋根が突き出していたからだ。
突き出した屋根の下、アンティークショップのウインドーの前で、彼は空を見ていた。
さっきまでついてきていた男達は、気づいたらもういなかったけど、
彼の不機嫌は治らなかった。むしろひどくなったと言える。
今、彼の隣には、また全然違う男が一人いて、
雨宿りですか、お嬢さん。などと、彼にのたまっていたからだ。
見てわからないかと二重に言いたくなって、彼は暗い顔で黙りこくった。
夕立の空は暗く、彼の藍色の瞳には、銀色のしずくだけが映っている。
何でこんな天気なんだろう。天気なんだから、仕方はないけれど。
わざわざこんな日に花を買いに来た自分を、彼はちょっぴり恨みたくなった。
腕に抱えた花は綺麗で、雨もとても綺麗だけど、とにかくうっとうしい。
さっきから、自分を少女と間違えて、しきりに声をかけてくる、男の声が。
うっとうしい、と思わず呟くと、男は隣で不思議そうな顔をした。
伝わらなくてよかったと思うべきか、残念だと思うべきなのか。
溜息をついた彼は、その一瞬後、表面は穏やかだった表情を、正反対のものにした。
目を大きく見開いて、隣の男を見る。
隣の男が、さっきの男達と同じ、軽薄そうな顔で、彼の腕を掴んでいた。
ああ、もう、本当に何で。
彼の不機嫌は、おさまらない。
女の子と間違われるのも、知らない誰かがついてくるのも、この雨も。
何でこの手は、どういう理由で、自分の腕を掴んでいるのだろう。
生温い体温が気持ち悪くて、彼は思わず、ぐ、と拳を握った。
殴ってやろう。
そう思った。
その、瞬間。
「マルス!」
「!」
遠く、でも近くから声がかけられて、彼は弾かれたようにそちらを向いた。
滝のように降る雨の中、あじさい色の大きな傘を差して、もう片方の腕に紙袋を抱いて、
赤い髪の少年が、そこにいた。
少年は、つかつかと彼に歩み寄り、いきなり彼の花を抱えていた右腕に、紙袋を押しつけた。
そして空いた手で、彼の手首をぐっと掴み、引き剥がす。
彼は痛みに顔をしかめたが、そんなことは現状ではどうでもよかった。
男が何か言っていたが、少年はうまく反論した。
彼が口をはさむ余地は無かった。
彼は少年に手首を掴まれたまま、引っ張られるように歩き出した。
花と、紙袋。片手で抱えるにはやや多い荷物だけど、片腕は引かれているから仕方が無い。
屋根を出た瞬間、頭の上に傘が傾けられる。二人ぶん入れる、大きな傘。
おかげで花は無事だった。色の無い粒が、二つ三つ落ちただけで。
きらきらして、綺麗だと思った。
彼は、手首を引っ張る少年を見ている。
押しつけられた紙袋の中で、オレンジが顔を覗かせていた。
「ったく、何やってんだよ。適当に断れよ、あんなもん」
「…仕方ないだろ。…喋っても、信じてもらえなかったんだから」
「自分は男だ、とは言わなかったんだろ? 言えばいいのに」
「…でも…」
それを言うと、自分が女の子みたいな顔をしていると、認めることになる。
そんなことはどうしても言いたくなかった。それはもちろんこの少年にも。
ふい、と顔を逸らしたが、少年にはそんな心が通じてしまい、
女顔なんか、今更だろ、と、笑いを含んだ声で、そう言われた。
煉瓦造りの街並みを歩く。花のように色とりどりの傘たち。
あじさい色のこの傘は、彼はとても気に入っていて、もうそれだけで気分が良かった。
引っ張られている手首は痛いけど、そんなことは気にならない。
「ロイ、」
「んー?」
「手紙、出したのか?」
「え? …ああ!」
今思い出した、とでも言ったような顔で、少年はいきなり立ち止まった。
それはあんまり急だったので、彼はいきなり立ち止まれなかった。
少年の後ろ頭と彼の顎がぶつかって、二人は一緒に妙な声を上げる。
何すんだよ、いきなり立ち止まるからだ、といつもの口喧嘩を数秒繰り広げて、
二人は再び歩き出した。
「忘れてた、そうだっけ。サンキュ、思い出した」
「お前な…。それを出しにきたんじゃなかったのか?」
「マルスがいなくなったから、それで頭がいっぱいだったんだよ。
すぐ戻る、って言ったのに。何でどっか行っちゃうんだよ」
「だって、動く花屋さん、なんて、初めてだったんだ。
花も、とても綺麗だったから。…その、悪かったとは…思ってるけど」
「…動く花屋さん?」
どうやら彼が言っているのは、箱の代わりに屋根と机がついた馬車のことらしい。
そういえばそんなものあったな、と、少年はぽつり、と呟いた。
ただし少年が見た時は、馬車は雑貨を売っていたが。
冷淡で表情の薄い見た目をした青年が、馬車にちょこちょこついていく姿を想像して、
少年は思わず吹き出した。彼は不思議そうに首を傾げる。
煉瓦路の水溜りに映る空を眺めながら、二人はまだ歩く。
広い世界、広い街。長い路と、あじさい色の傘。
「あ、あった」
やがて少年は、ぴた、と立ち止まった。今度は慌てず、彼も一緒に止まる。
持っててくれ、と行って押しつけられた傘の柄を、しっかりと握りながら。
少年の手が、上着の内ポケットを探る。出てきたのは、一つの手紙。
目の前のポストに手紙をぽとんと落として、少年は満足そうに頷いた。
「うん、これでよし」
「ああ。…届くと、いいな」
「そうだな」
この世界では、手紙は、余程のことが無ければきちんと届くようになってるが、
彼らの世界ではそうではない。
彼の手から傘の柄を引き取って、少年はにっこり笑う。
「じゃあ、帰ろーぜ」
「ああ。…あの、ロイ」
「ん?」
こう言うのは何だけど、と、ひっそり前置きして。
「…傘は、その。…僕が、持つ…よ?」
「? 何で?」
「………。…普通…、傘は、背の高い方が…」
思いっきり気の進まない様子で、彼はぽつり。と言ったが、
そう言った瞬間、やはり少年は、みるみるうちに不機嫌になった。
悪気は無かったが彼は慌てて、フォローをするべく付け加える。
フォローになったかは別として。
「あ、いや、その、お前の背が低いって言ってるわけじゃ」
「今思いっきり言ったじゃねーかよ!!」
「え、え? あっ、…そ、その、ご、ごめ…」
「悪かったな、小さくて! …くそっ、」
歳相応の子供のような顔で、少年はふい、と顔をそらして、
彼が抱えたままだった花と、オレンジの詰まった紙袋を、乱暴にひったくった。
それを片腕にしっかりと抱えて、少年は傘の柄を、彼の目の前に押しやる。
碧の瞳がにらんでいたが、中には、怒りというよりは悔しさが見えた。
「じゃあ、持って」
「…あ、ああ」
「その代わり、こっちは俺が持つから。後、」
「……?」
彼の手がおずおずと傘を受け取る。さっきよりも、ほんの少し弱まった雨。
人が川のように流れていく。表面から見えないさかなのように。
その中で少年は、空いた手で。
彼の冷たい手のひらを、迷子みたいに引っ張って、また、歩き出した。
「わっ、」
「手。屋敷まで、このままな」
つないだ手に反論は許さず、少年はきっぱりと言って、先を歩く。
その後ろ姿を、彼は見ていた。あじさい色の傘を、少年の方にばかり傾けながら。
赤い髪がはねる、その横で、花と、オレンジが、顔を覗かせている。
手をつながなければ、どちらかは彼が持てるだろうに。
これは少年の精一杯の意地だということに、彼は最後まで気づかなかった。
街並みの中で手をつないで、二人は北へ歩き続ける。
少し前、彼が追いかけた花屋の馬車が、店仕舞いをしているのを途中で見かけた。
花束みたいに色とりどりの、傘の群れが、魚のように歩いていく。
その中を、二人は歩いている。
いつしか、空は明るくなって。
「…なー、マルス」
「うん?」
「マルスはさ。…その…、」
途中、少年はほんの少し彼に振り向いて、言いにくそうに何かを言いかけた。
首をかしげて返す彼は、少年をじっと見下ろしたが、
その行動こそ少年が何かを言いたくなる動作なのだと、彼は気づかない。
傾けられた傘は、彼の肩を濡らしていたけれど、どうということも無かった。
「…背…」
「せ?」
「………。…あー、いーや。何でもない」
「…え?」
溜息をついて、少年は再び前を向いた。肩近くで、花が揺れていた。
どうでもいいけど今日買った花は、あまり少年には似合わないなと彼は思った。
煉瓦路を歩いて、歩き続けて、二人はいつまでも歩き続けた。
商店街も抜けて、少年の手を借りながら、彼は壊れた塀を跳び越えた。
いつしか空が色を取り戻し、雨が上がっても。
二人は手を離さなかったし、だから傘はいつまでも差したまま。
せっかく上空には、小さな虹が出ていたけれど、二人はとうとう気づかなかった。
文学少年? って感じのを目指した…んですが、
目指しただけに終わったような気が。