逃げる、逃げる、逃げる。
足を泥に汚して、髪をフードに隠して、細剣(レイピア)を腰に提げて。
雨の中、闇夜の中。少年は、森の中。
刃が届かないように、死から逃れるために、何も知らないでいるように。
自国の騎士を見失って、他国の騎士に追われて、たった一人きり。
雨の中、闇夜の中。少年は、森の中。
走って、走って、走って。
逃げる、逃げる、逃げる。
見たことの無いもの全てから。
ただ、一人だけが、逃れるために。
生きるために。






*  *  *



「……っ、……はぁ……っ」

酸素を求めて疼く肺が、これ以上は走れない、と身体に訴える。
奥底から押し出したような息を吐きながら、少年は立ち止まった。
雨に覆われ音をたてる森。木の幹に背中を預け、浅い呼吸を繰り返す。
辺りは夜の闇に紛れて見えず、少年は腰に提げていた剣を、腕に抱きしめた。
冷たい空気に体温を奪われ震える足で、どうにか立ちながら。

馬の蹄が地を割る音、激しい金属音に怯えながら、少年は目を閉じる。
一体、皆は、どうしただろう。皆は、皆は、無事なのだろうか?
少年の思考は、何度もその一点に回帰する。たくさんの事に惑わされながら。

「……」

滅びた国から、遠い辺境の地へと落ち延びる最中だった。
突然襲い掛かってきた、黒で統一された甲冑の騎士達。
どこの国の騎士なのだか、一目でわかる。自分の国を滅ぼした、暗黒竜の国、その属国。
たった一人殺し損ねた、光の英雄の血筋を狙ってきたのだろう。
十四になったばかりの、幼い王子の首を。

連日の奇襲に疲れきっており、戦闘もままならない挙句、
最悪なことに、この闇の中、雨まで降り出した。
そして混乱の中、少年は、はぐれてしまった。彼を守る騎士達から。
剣を提げて、逃げ出した。彼を追いかける騎士達からも。

一体、皆は、どうしただろう。
皆、生き延びているだろうか。
武器の耐久にも限界があるだろう。補給すら満足に出来ない現状では。
少年を守るための騎士達は、皆、誓うように叫んでいた。
王子を、お守りするのだ、と。
この命に代えても。
……。

「……、……ッ……」

ふと浮かんできた思いに、少年は慌てて首を振った。
何を弱気なことを考えているのだ。自分は生き延びなければならない。
ぐ、と奥歯を噛み締めて、少年は揺らぐ針を落ち着かせる。
二つの選択肢の間に、揺らぐ自分の心を。

地理のわからない深い森。暗い夜、冷たい雨。
とにかく、皆と合流しなければ   
ようやく落ち着いてきた動悸に支えられるように、少年は一歩踏み出した。

その、瞬間。


   いたぞ! 見つけた!! アリティアの王子だ!」


   !」

知らない声が届いて、少年はびくっと肩を竦めた。
息が止まるような驚愕。剣を抱きしめる腕に篭もる力。
反射的に顔を上げれば、間違い無く少年目掛けて投擲用の槍が飛んできた。
震える足を叱咤して、少年は背中を向ける。
そのまま走って、逃げて、逃げて。
地の果てまで辿り着きたいくらい、がむしゃらに。

「逃げたぞ! ……そっちだ、取り囲め!」
「追え! 絶対に、逃がすな!」

剣を抱きしめたまま、少年は逃げる。知らない声に追われながら。
呼吸をする間も惜しみながら、どうか、どうか、届かないで。
張り裂けそうな心臓で、押し潰されそうな喉で、何処かの誰かに祈りながら。

森の中を、雨に打たれながら走り続けていた少年は、やがて唐突に立ち止まる。
ぽっかりと開いた、開けた場所。泥に汚れた、細い足首。

「……っ!」

黒い甲冑の騎士達に、命を貫くたくさんの刃に、取り囲まれたことを知る。

「……、」
「観念するのだな、青の王子。騎士も伴わずに、我らから逃げられると思ったか?」

取り囲む騎士達の内、目の前にいた一人が、剣をこちらに向けながらやって来る。
竦んで、震えて、動かない足、抱きしめる、腕の中の武器。
少年は身体の震えを抑えることもできず、そして剣も抜こうとしない。

少しずつ。
黒い甲冑の騎士達は、少年に迫り来る。

「我らの王が、貴様の首をご所望だ。忌々しい英雄の血筋……。
 ……あのまま国と共に死んでいれば、すぐに楽になれたものを」
「……っ……。」

白く輝く剣。銀に煌く槍。甲冑の黒にこびりつき、混ざり、変色した赤。
知りたくない。その色が、何を、どんなことを意味しているのか。
少年を守る騎士達は? 命に代えてもと叫んでいた、あの者達は?

少年は、動かない。

「……剣を、抜かないのか?」
「…………」

かの暗黒竜を倒し、封じた英雄の、末裔ともあろう者が。
守ってくれる騎士がいなければ、何も出来ない臆病者。
冷たい雨と共に降る言葉。聞きたくない。知りたくない。
身体は未だ動かない。ただ、剣を抱きしめる腕に、不必要な力が篭もるだけ。

「まあいいだろう。どうせ、これで仕舞だ   

騎士は右手を振り上げる。白い刃、黒い甲冑。
少年は、動かない。
指一つだって、動かそうとはしない。
助けを呼ぶことも、守りを命じることも。

「……!」

怯えと恐怖を孕んだ瞳が揺れて、空を裂くような白い刃を見た。
遠くから光景を見つめるように、頭の中だけがひどく冷静だ。
言葉を持たず戦慄く唇の奥で息を詰めて、少年は瞳をぎゅっと瞑る。

耳に、何も届かない。時間が止まったような錯覚を感じながら。
その代わりのように、敵兵の剣が、真っ直ぐ少年に振り下ろされる。



   刹那、

「王子!」
「!」

背後からいきなり腕を捕まれ、力任せに引っぱられた。
目前に迫っていた刃先がフードの先を掠めたのが見えて、体勢を崩した少年の瞳が凍りつく。
驚いて振り返れば、そこには違う甲冑に身を包んだ者がいた。
返った赤でひどく汚れてはいるが、褪せた青を銀で縁取ったそれは、
見間違えようもない、自分の、今はもう亡き国のもの。
兜に隠れて顔は見えず、また、唯一の手掛かりである声は知らないものだった。

少年を引き寄せたまま、その人は、そのまま目の前にいる黒い甲冑の騎士を斬った。
命を絶たれた身体が泥の中に倒れたのを皮切りに、周囲に有った人の気配が膨れ上がる。
少年が辺りを見回せば、自分の腕を掴むその人と同じ色に身を包んだ男達が数人、
剣と槍、そして斧を持って、黒い甲冑の騎士達を次々と倒していた。

「…………。」
「確実に仕留めろ。一人も逃がすな!」

知らない声が、青い銀色の男達に指示を出す。
黒を、より深い黒に染めながら、絶命していく敵国の騎士達。
その光景を少年は見ている。困惑の色を滲ませながら。
身体の震えは、止まらない。

言葉を失ったままの少年の頭上から、知らない声が降ってくる。

「大丈夫ですか。王子」
「……」

人の気配が薄れていく。鈍い音、鋭い音、誰かの悲鳴に溶けながら。
少年はゆっくりと視線を上げる。見知った色の人間。聞いたことのない声。
赤を滴らせた剣を握ったまま、男は続けて言う。

「王子を狙っていた奴らは、全員片付けました。大丈夫です。
 さあ、私達と一緒に、行きましょう……」
「…………だ、…………れ?」

動かなくなった、黒い騎士達を見ながら。
取り囲むように集まった、六人の青い銀色の男達を見ながら。
少年は、呟いた。
腕を掴んだままの男の言葉が、そこで途切れた。

「……王子?」
「……僕の、国の……騎士は……。
 ……斧、は、使わない……」

それに。
掻き消えるような微かな声が、ぽつり、ぽつりと落とす。
水面を揺るがす小さな雨粒に、よく似た言葉を。

「……僕は……。貴方の声は、知らない……」

知っている、少年は。
父を、父が死んだ後は自分を、守る者達。
暖かな陽に見守られながら、ただ、英雄の血筋を守っていた騎士達を。
命に代えても。そう言った人々を。

「……だれ……?」
「…………。」

捕まれた腕に、僅かに痛みを感じながら。
しかしその痛みに気づかないまま。

目の前の、青い銀色の男は、

   高く刃を振り上げた。

   う……ッ!」

剣を抱いたまま崩れ落ちる音。はねる泥、熱い左肩、身体中に走る、確かな痛み。
泥濘に覆われた地面に倒れ込んだ勢いで、少年の髪を隠していたフードが落ちる。
男の剣は少年の左肩を襲ったのだ。一切の迷いの無い、真っ直ぐな太刀筋で。
その事実が言葉となって理解に結びつく。痛みに喘ぐ少年の思考の真ん中で。

「はっ。……甘ったれた坊主だと思えば、随分鋭いじゃないか」
「……う……。……ッ、痛……、」

少年を取り囲み、男達は兜を脱ぎ捨てる。かしゃん、と重たい音をたてながら。
返った赤で汚れた甲冑の中は、見たこともない誰か。
不自然に傷の多い顔、汚れたように笑う顔、ためらいを知らない顔。
   賊、だろうか。荒れた独特の雰囲気を、少年は初めて目の当たりにした。
城が陥落するまでは、略奪を繰り返す者の存在など知らなかった。

剣、斧、各々の武器を手にしたまま、男達は少年を見下ろし笑う。
フードが落ちて晒された、少年の、冷たい青をともした髪を真っ直ぐに見ながら。

「この甲冑の色。それに、その髪の色。お前のことだろ、アリティアの王子。
 ……ずいぶん探したんだぜ。騎士様に守られて逃亡とは、たいそうなご身分だな」
「当たり前だろ、王子様なんだから。ああ、もう、元王子様、か。ははっ」

一体どうして、彼らが青い銀色の甲冑に正体を隠していたのだろう。
返った赤は、何を意味するのだろう。
考える間でも無く、辿り着く。元の持ち主の命を取り、外側だけを奪ったのだと。
裂けた肉の痛みに神経を焼かれながら、少年は追い詰められていく。

「ま、国の滅亡なんか、仕事になりゃあ、いつでも大歓迎だがな。
 ……なあ、甘ったれで、軟弱で、箱の中で育てられた、王子様」

ふいに男の手が伸び、指が、震える身体を起こした少年の華奢な顎を上向かせる。
泥に汚れた白い頬。赤を一切帯びず、蒼いままの顔色。
藍色の瞳が揺れて、目の前の男を見つめる。知らない感情を通わせながら。

「さすが、噂通りの、綺麗な、かわいい顔じゃねえか。
 色を仕込めば、さぞかし高く売れるだろうよ。奴隷商にも、貴族どもにもな」

笑いながら、ざらついた指が顔の輪郭を辿る。背筋を這い上がる嫌悪感。
男の呟いたことの本当の意味は、少年には半分だってわからなかったが、
許すな、と言っていた。頭の奥で、何かが必死に叫んでいた。

「まあ、そっちの筋でも、馬鹿みたいに良い値はつくだろうが。
 ……初めて見たぜ。あんな値段。
 奴隷にさせるなんざ、もったいねえよ」


顔を近づけて、男は吐き捨てる。
剣を抱きしめたままの、王子に。


「知ってるか?
 ドルーアが、お前に、目玉の飛び出るような高額の賞金をかけたんだ。
 一生、豪遊して、生きられるような値を。
 アリティアの王子。   意味がわかるな?」


王子は、知っている。
何も知らないままでは、いられないことを。
戦場。赤い匂い。炎。流れ出る命の味。
知りたくなかった、たくさんのことを。

城に帝国軍が攻め込んだ時。
自分だけが城から脱出した時。
父王を守っていた騎士達。
自分を守った騎士達。
落ち延びた後の、ここまでの短い旅路。
幾度も繰り返される戦闘。
くだける剣、崩れる足、屈する心。
それでも、いつだって。
彼らは、たった一つの命だけを守っていた。


針は揺らぐ。
何も知らないままでいたかった、子どもの心の脆いところで。




「死んだ方が、いいんだよ」




   それは、




「世界中の人間が、お前の死を願っているんだ」




   何度も願っては、首を振って拒絶していた、




「死体の方が、価値が上がるんだからな」




   知っていた、




そうだ、何度も考えた。放棄しては浮かび、消えては上がってくるもの。
何度も襲われるのも、襲われて戦闘になるのも、彼らには守るものがあるからだ。
彼らに守るものが無ければ、ごく普通の旅人、もしくは戦士であれば。
少なくとも、ここまで命が危険に晒されることも無いはずなのだ。
騎士である彼らが守るもの。命に代えても守ると、誓うように叫ぶ、それ。
少年は、考える。考えては、拒絶する。
天秤は傾いて、そのたびに平衡を取り戻す。
針はふれる。


どうして、助けて、なんて呼べただろう。
たくさんの騎士が、自分のために倒れていくのに。
どうして、守れ、なんて命じられただろう。
たくさんの人間が、自分のせいで争うのに。




「死んだ方が、いいんだよ」




少年は、考える。
剣を抱きしめて。
守る命がなければ、助かるものがいる。
助かるものの数だけ、命を守れる。

白銀色(ぎんいろ)にきらめく刃。
振るわれる腕。
斬られた肩の痛みに侵されながら。
からだの中の均衡が崩れ、何かが音をたてて壊れ出す。


守るものが無ければ。
自分の守りたいものを、全て守ることができるだろうか。
熱は炎のように蠢き、水のおもてに波紋を描く。



針はふれる。
青から赤へ。
何度も拒絶した選択肢。




僕は、










      死んだ方が、いい?










   が……ッ」
「……っ……、」

投げ捨てられた鞘が地面に落ちた。深い闇を裂くように、森を覆うように、雨が降っていた。
少年に触れていた男が、掻き消えるような声を出す。絞られたような呻き声を。
少年を取り囲んでいた男達が、目を見開いてその光景を見ている。
鮮やかな赤が闇を染め、細剣を、それを握り締める白い手のひらを汚す様を。

「…………っ。」

立ち上がった少年。その手にあるのは命を奪う白銀色の剣(つるぎ)
足で支えた身体に、首を貫かれた男が倒れ込む。
まばたきを忘れ乾いた瞳で、少年は自分に倒れ込んだ男の首に刺さった刃を見ている。
震える手、震える足。それでも柄は握り締めたまま、奥歯をかちかちと鳴らしながら。

「……な……!」
「……い、やだ……。」

首を串刺しにした剣を力任せに振るい、少年は男の首を切り裂く。
千切れた頚動脈。冗談みたいに噴き上がる鮮血の、錆びついた鉄のにおい。
少年の髪に、手に、顔に、身体に、雨の代わりのように、飛び散った命が降ってくる。
冷たい青を宿した髪を、生温い赤で、汚して。

「……な、い……、」

喉の奥から、かろうじて声が漏れた。届く言葉にならない程に不明瞭な音として。
血を噴き出した男の身体が、少年の肩越しに崩れ落ち、やがて鼓動を失った。

「……ッ、このガキ……!!」
「……嫌、だ……。
 ……く、ない……。しにたく、ない……」

斬られた肩の痛みは感じない。少年は、爪で指先が傷つく程に柄を握り締める。
纏っていた外套の前を開け、その目は周囲の男達を見る。
炎のように強い、氷のように冷たい、そして、   水のようにたゆたう藍で。


少年の瞳に見えた、まだ名前も知らない何かを。
どんなふうに、救えばいいのだろう。



それは、



   死にたく、ない……!」



恐怖や、苦痛や、絶望や、色々なものを閉じ込めて、少年は走り出す。
自分の守るはずだった国の青銀色を纏った、偽りの男達に。
鎧の隙間から剣を突き刺し、確実に斬って、斬って、捨てていく。
真っ赤な命が目の前ではじけて、彼の身体を汚しても。
彼の剣に、迷いや躊躇いが現れることは、無かった。




雨の中、闇夜の中。少年は、森の中。
追う喜劇、追われる悲劇。始まり、終わらない殺人劇。
青い髪を、白い手のひらを、真っ赤に染めながら。




マルスは、人を殺した。










      そして、















*  *  *










   マルス様!」
「王子!」

頼り無げな細い姿を見つけると、二人は頷き合い、馬の速度を落とし始めた。
横顔が見える距離まで近づき、完全に脚が止まる前に背中から跳び下りる。
泥が跳ねて足を汚しても、そんなものは今更なので気にはならない。

「王子!    マルス様!」
「ご無事ですか、王子!」

マルスと呼ばれた少年は、地面に膝を埋めて座り、虚ろな目で空(くう)を見つめている。
まるで、自分を呼ぶ声が聞こえていないかのように。
名前を呼んでも返事をしない彼を怪訝に思いながらも、二人   カインとアベルは、
マントを翻して、走った。たった一人の、守るべき主のもとへ。

「マルス様っ   

細かな様子がわかる程に近い距離で、二人はふいに、驚愕によって足を止める。
後少し近づけば触れられるであろう、そんな場所で呆然としているマルスは。

「……王、子……」
「……っ……!?」

白い頬は返り血に染まり、青い髪はいくつかの束になって固まっている。
纏う外套、その下に着た衣服の半分もまた、鉄のにおいを持ちながら赤く黒ずんでいた。
その傍らには、一振りの細剣。
刃の先から柄まで、もとの色がわからなくなるくらいに、汚れたままの。
   凄惨、と呼んでいい姿。
いい加減に慣れ始めた戦場に於いてまで、思わず言葉を失ってしまう程に。

「マルス様っ……!」

立ち止まったところから一歩踏み出して、カインは切羽詰まった擦れ声で呼びかける。
その声に、マルスはようやく藍色の瞳をこちらに向けた。
小さな手は痛々しい痕に傷つき、元の肌の色をすっかり失ってしまっていた。

「マルス様、何が……!」
「……平気……。……僕の血じゃ、ないから……大丈夫……」
「……王子……?」

一度だけカインを見た目はすぐに逸らされ、どことも知れない場所を彷徨う。
常の状態とは明らかにかけ離れた主を目の前に戸惑っていたアベルは、
ようやく辺りに視界を広げることに成功した。自分の知らない、惨状に気づいた。

「…………」
「……これは……、」

首を、頭を、胴を、胸を。
急所を的確に突かれ、今は血溜まりと泥の中で屍になった、七人の男達。
アリティアの甲冑を着ているが、顔は皆、知らないものだ。
……考えたくないことまで考えてしまったが、そんな考えは放棄した。

カインとアベルは、顔を見合わせる。
七つの死体の中で黙したままの、小さな王子。

「……マルス様」
「……皆は?」
「……え、……あ……。」

ふいに口を開いたマルスの言葉の意味がわかるまでに、数秒。
視線を逸らし口を噤んだカインに代わり、アベルが答える。

「……ジェイガン隊長と、ゴードンとドーガは、無事なのをを見ています。
 それと、隊長の部下が数十名……、
 ……後はおそらく、カインと私と、……王子だけです」
「……アベル……」

他の全滅。おそらく、考えは至っているだろうが。
責めるような色を含ませてアベルの名を呼んだカインに、アベルは、
誤魔化しても仕方が無いだろう、という視線を返した。

二人の騎士に見つめられながら、マルスは反応をかえさない。
深い森。雨の冷たい温度。咽ぶように濃密な血のにおい。

「わかった。……来てくれて、ありがとう」
「…………」

ぽつり、と、ようやくそれだけを落とした彼らの小さな主に。
言葉を返すことは、出来なかった。

泥の中に座り込んだまま、一向に動こうとしないマルスを見つめて。
やがて、

「……、……マルス様?」

カインは怪訝そうに眉を寄せ、そして次の瞬間、目を大きく見開いていた。
一つ間を置いて、アベルも気がつく。
黒い返り血に紛れて。少年の肩に、剣で深く斬られた跡がある。

「マルス様! そのお怪我は   
    

剣を嫌い、戦争という言葉さえ嫌っているような子どもだった。
光の英雄の血を引いているのに、と非難する人間もいたけれど、
だったら優しい王子の代わりに、自らが血を被ればいいのだとわかっていた。
たくさんの形が存在するだろうが、
これが、己の誓いだと、剣をかかげて。

思わず、と言った様子で、カインの手がマルスに伸びる。
騎士が主君に容易に触れるなんて、許されることではないのだろうが。
命より大切な主君が傷ついていることを、許せるはずがなかった。


手が、マルスの細い腕へと触れる。



   瞬間。




「……嫌……!」
「!」

ぱん、と乾いた音を響かせて、マルスはカインの手を叩き払う。
完全な拒絶。嫌悪や、驚愕や、そんなものを一切含まない、純粋な。
驚き手を止めたカインの瞳を、
自分への驚きに満ちた瞳で、   マルスが、見つめ返した。

「……あ……」
「……! も、申し訳ございません! このような……っ」

焦り、混乱に陥った様子で慌てて謝罪の言葉を吐くカインを、マルスは見つめる。
芽生えた感情を隠せない、子どもの表情。
一連の出来事を、アベルは見ていた。アベルもまた、呆然とその光景を見つめていた。
指が触れようとした、その瞬間。
藍色の瞳に浮かんでいたものの名前が、恐怖であることを見てしまったから。

……どうして?

「……カインは、悪くない。ごめんね。……謝らないで」
「ですが……っ」
「違うんだ。……ごめん、少し……びっくりして……、」
「……。王子、失礼します」

不毛な謝り合いを始めた二人の間に、アベルは声をかけ、割って入る。
何事かと首を傾げるカインはひとまず放っておいて、アベルはマルスの横にしゃがみ込んだ。
短い断りを入れて、マルスの細い左肩にそっと手を置く。

「痛っ……」

びくん、と目を閉じ跳ねた身体が、答えだと言って良かった。

「王子。……この傷は、王子のものですね?」
「…………」
「ならば、参りましょう。……幸い、村に入ることが出来ましたので。
 小さな村ですが、年老いた僧侶がいるようでしたから……」
「……うん……」

頷いた王子に軽く微笑んでみせて、アベルは自分の肩からマントを外す。
それをマルスの身体に掛けてやると、もう一度、王子に断りを入れた。
マント越しの身体を横抱きに抱え上げ、カインへと向き直った。

「カイン、王子の剣を」
「あ、……あ、ああ」
「もう大丈夫だとは思うが、敵が出た時は、頼んだぞ」
「……わかった。任せておけ」

大人しく主人を待っていた馬の頬を撫で、マルスを先に背へと運んでから、
アベルは王子を腕の中に守るように、後ろへ跳び乗った。
先を行くぞ、と言って馬を走らせたカインに頷いて、その後ろを出発する。

「申し訳ありません、傷に響くとは思いますが……。
 後少し、ご辛抱下さい。もう、大丈夫ですから」
「……うん。……ごめん、なさい……」

成長し切れていない華奢な身体。腕の中へ抱けば、よくわかる。
こびりついて離れない血の色と、鼻をつくような命のにおい。

きっと王子は、一人きりで彼らを殺したのだろう。
王子の代わりに、自分達が殺せばいい、と思っていた。
ひそやかな誓いを、裏切って。

「マルス様がご無事だったことが、なによりです。
 ですから、謝られることは……、」
「……ごめんなさい。ごめんなさい……、」

青い髪。藍色の瞳を手で覆い隠しながら、マルスは何度も、繰り返し呟く。
ごめんなさい、ごめんなさい。
気が済むことは無く、永遠に消えることもない。
白い手は赤く染まり、マルスは自分の意思で人を殺したのだから。

「ごめんなさい。…………ごめん、なさい……、」
「……。
 ……王子は、間違ったことは何もされておりません」

先を行くカインが大切そうに抱いた血塗れの剣が、答えるように光をはじく。

違う。
   違う、と言いながら。

「貴方が生きておられることが、私達の希望なのですから」
「……。…………」

だけど、

「……王子がご無事で、本当に、良かった……」


本当はもう、死んでいたはずなのだ。
生きたいと思うのも、死にたくないと思うのも、世界で一番の自分勝手。
だって、自分が生きているから。
彼らをまた、死へ導いてしまうのだから。





死んだ方が、いい。
言葉がまわって、はなれない。







ごめんなさい。

二度と届かない言葉は、自分だけに聞こえて、消えていく。
何度繰り返しても、もう二度と。



失ってしまった、遠い国。
失わなければ、知らずにいられたのだろうか。
二つの選択肢。
一つを自分で選ばなければならない、ということを。





世界は闇の中。
ただ、雨が、降っている。




誰かに命を狙われていて、必死で逃げていて、誰かが助けてくれるんだけど、
その人も私の命を狙っている……という人間不信な夢を見たことがあります。
アリティアからタリスまでは距離があるので、
王子は逃げるまでに、一通りの怖い目には遭っているのではないかと思います。

読んで下さった方、ありがとうございました。


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