そして、次の日のこと。
夕食当番の一員に任命されたサザとレオナルドは、並んで芋の皮剥きを行っていた。周囲では他の者達もまた、せっせと夕食の準備に励んでいる。厳しい戦闘の合間のささやかな時間の中をさざめく笑い声。二人の間を満たすのは、しゃりしゃりしゃり、と皮が実から落ちていく音だけだ。
その時ふと、そんなものに混ざって、何か鈍い音がした。それは、戦場においてはまったく珍しくは無いが、この場においてはあまり歓迎したくはないものだ。音源は、サザの隣、レオナルドの手元。
音に引かれてそちらに目を向けたサザは、その異様な光景に目を見開き、次の瞬間、思いきりレオナルドの手首を掴んでいた。
「おい、レオナルド!?」
「えっ? あ、……っ、痛っ……!」
正気に返った、と言わんばかりの声を上げたレオナルドは、その整った顔を痛みに顰めた。まな板の上に落としたナイフと、皮が半端につながったまま、転がる野菜。
それを持っていた指は。
刃にざっくりと裂かれて、真っ赤な血が滲んでいた。
「何やってるんだ、お前……! 大丈夫か?」
「ご、ごめん……。大丈夫……」
「……じゃ、無いだろ。まったく……珍しいな……」
普段レオナルドは何事にも真剣に取り組むから、料理の際に負傷することなど、そうそう滅多にありはしない。しかも、怪我にすぐ気づかなかった、なんて。少なくともサザは今まで、そんなふうにらしくないレオナルドは、まったく見たことがなかった。
本格的に血が溢れ始めた手を自分の手で軽く包みながら、サザは辺りをざっと見渡した。
夕焼け空と人の影。ありふれた風景に、見知った無愛想
人の事は言えないが
を見つけて、そのまま彼を呼び止める。
「ブラッド! ちょっといいか?」
「サザ? どうした……、って、どうしたんだ、レオナルドは」
「見た通りだ。
手当てに行かせるから、こいつの後を頼まれてくれないか?」
一人でやるにはまだ量が多いからなと、目の前に積み上げられた野菜の山を見ながら、サザは言う。金髪の少年の状態と野菜の山の現状を見て納得がいったらしい、ブラッドは簡単に頷いてみせた。
「ああ、それくらい構わないが……」
「サザ、ブラッドさんに悪いよ。僕なら大丈夫だから、」
「いいから黙って行ってこい」
きっぱりと言い切って、衛生兵の天幕を指差したサザ。彼をじっと見上げて、困ったように肩を竦めるレオナルド。その状況を、どこか微笑ましく眺めているブラッド。
サザとレオナルドはしばらくの間、無言で対峙していたが、先に折れたのはレオナルドの方だった。大丈夫なのに、と不本意そうに呟いて、視線を違う方へと上げる。
「……わかった。……あの、ブラッドさん……」
「わかってる。ちゃんと任されるから、行けよ」
な、と言って軽く肩を叩いたブラッドに、申し訳無さそうに微笑んで。ありがとう、と告げてから、レオナルドは歩き出す。
が。
「! わ……っ」
「!? おい、何……っ!」
レオナルドはいきなり、地面のちょっとした窪みに躓いた。反射的に伸ばされたブラッドの手が、腕を掴んで引き止める。
「ご、ごめん、ブラッドさん……!」
「い、いや……。大丈夫か? 手の届く距離で、良かったよ」
「……う、うん……ありがとう……」
慌てた様子で頭を下げたレオナルドは、怪我をした手を押さえたまま、今度こそ歩き出す。
しかし。
「痛っ……」
「………………………………。」
歩き始めて、七歩目。
レオナルドは組み立て途中で中断されたままの天幕の支柱に突っ込み、思いきり額をぶつけた。
「…………もういい。もう動くな」
「え、な、なに……?」
「何、はこっちの台詞だ」
ぶつけたところを押さえながら軽く呻いたレオナルドの腕を掴んで、サザは盛大に溜息を吐いた。不思議そうに首を傾げるレオナルドを見ながら、ブラッドもまた訝しげに首を捻る。今日のレオナルドは、誰がどう見ても、明らかに何かがおかしい。
「お前、もしかして、具合が悪いんじゃないのか?」
「え……! べ、べつに……っ」
そんな様子を見かねての疑問を、レオナルドは何故か顔を赤くしながら否定した。妙に挙動不審な返答を、サザが上から否定する。
「何も無いわけじゃないだろう。何かあったのか?」
「違っ……! だから、べつに、なにも……!」
「調子が悪いなら、ちゃんと言え。……とにかく、ローラを……」
呼んでこよう
と、サザが振り返ろうとした、瞬間。
「はい。わたしがどうかしましたか?」
「!」
探そうとしていた少女の声が背後から聞こえて、サザは盗賊としては気が抜けているのであろう、そんな反応を返してしまった。慌てた様子で振り返れば、確かに、声の持ち主がそこにいる。
いつの間に後ろにいたのか、ローラは杖を抱えいつものようににこにこと笑いながら、穏やかにサザを見上げて。
「ローラ!? いつの間に……」
「まあ、驚いてくださったんですか? ありがとうございます。
サザさんを驚かす研究をした甲斐がありました。良かったです」
研究って何だ。
そんなツッコミが入る前に、ブラッドはローラの前に出る。困惑した表情のレオナルドの肩を軽く前に押しやりながら。
「ローラ、ちょうど良かった。
レオナルドが怪我をしたんだが、診てやってくれないか?」
「怪我ですか? ……まあ。ずいぶん深く切ったのね」
サザとブラッドから引き渡された少年の手を取り、ローラはそんなことを呟くと、どこからか取り出した布で、傷口を軽く拭った。
痛、と小さく声を漏らしたレオナルドに、サザは心底呆れたように言う。
「その傷が塞がるまで、料理は禁止だ。いいな。
……せっかくだから、天幕で少し休ませてもらえ」
「サザ、だから、僕はどこも悪くは……」
「あら……。レオナルド、その額は? なんだか、赤くなっているみたい」
傷薬の瓶の蓋を開けたローラが、長めの前髪に隠れた額のささやかな異変に気づく。怪我をしていない方の手で慌てて額を押さえたレオナルドの代わりに答えたのは、やはりサザだった。
「そこの支柱にぶつかったんだ。……大体お前は、今日は、ぼんやりし過ぎてる」
「サ、サザ……っ」
「ナイフで手を切るし、変なところで躓くし、天幕に突っ込むし」
「……そういえば、朝も寝坊してきたし、食欲もいつも以上に無かったし……」
「お昼にも、派手に荷物を引っ繰り返していましたね。
……まあ、もしかして、具合が悪いんですか、レオナルド?」
やはり結論は、そこに至るらしい。今日一日の様々なことを三人がかりで思い出させられて、レオナルドはますます恥ずかしそうに頬を赤らめる。自業自得と言えば、ものすごくそうなのだが。
「よく見れば、顔もなんだか赤いですし……」
「いや、これは……」
ほんの少し踵を浮かせて、ローラはレオナルドの顔を覗き込む。
そして。
「…………あら?」
ふと何かに気づいたローラは、す、と手を伸ばし、指で示した。
首まで覆う黒いシャツと、長い後ろ髪に隠されて見え難い首すじ。右耳の真下の、日に焼けていない、白い皮膚を。
「どうしたんですか、この傷?
何だか、痣になって……虫に刺された……みたいな……」
ローラが、目の前の事実をうっかりと口走った、その瞬間。
「ぶっ!」
サザとブラッドが、ほぼ同時に。特に何も飲んでいないのに、盛大に吹き出した。
二人の変な反応に気づいたローラが、振り返って首を傾げる。
「まあ、どうしたの、ブラッド。サザさんまで」
「……い、や、……その、……ローラ、待て!」
「落ち着け、ブラッド。ローラは特に問題は何も別に……」
「落ち着いてください、サザさん。どうしたんでしょうね、ねえ、レオナルド?」
ローラは冷静にサザの自覚を促しながら、こくん、と首を傾げた。純粋な疑問に満ちた視線の先で、レオナルドは指摘された場所を手で押さえ、呆然と目をまるくしている。
問いかけに答える余裕が
レオナルドに、あるはずも無い。
ローラの指摘と、サザとブラッドの反応、自分からは見えない、奇妙な痕跡がある、という事実。
全てが繋がったその時、レオナルドの顔は、火がついたように赤くなった。
「………………!
……っあ……の、……こ、これは……っ!」
「もう少し、よく見せてもらってもいいですか? 変な病気だったら、たいへんだもの」
「ローラ! ……や、やめてやれ! ……それはな、その……」
「……ッレオナルド!? お前、それ、誰に……っ!」
「ち、違……っ。……本当に、何でも……!」
ローラの腕を力いっぱい引いて止めるブラッド。レオナルドの肩を遠慮無く掴んで、なぜか叱りつけるように迫るサザ。
うっかりサザが、誰に、などと口走ってしまった為に。重箱の隅をつつくように、ローラは更に言及する。
「誰に? ……知らない虫に刺された、とかでは無いんですね。
ああ、まさか
エディに噛み付かれたりしたんですか?」
にこやかに、おっとりと。大人しげに、ふんわりと。
しかし、その内容は、可愛らしい声とは裏腹だった。
「
ッレオナルド! お前
!!」
「〜〜っ、だ、だから、本当に、違っ……、僕はっ」
「だから気をつけろって……! ただでさえお前は、あいつに甘いのに!
まさかお前、無理矢理されたんじゃ」
「? むりやり?」
「ローラ、何でもない! 本当に何でもないんだ!」
おそらくは罪の無い冗談だったのであろうローラの発言は、しかし、三人にとってはそうではなかった。完全に過保護なお兄さんモードになっているサザ。隠しようも無いのに、一生懸命否定しようとするレオナルド。そして、大切な幼馴染にいけない秘密を気づかせてはならないと、焦りまくっているブラッド。
顔を真っ赤にして視線を逸らすレオナルドに、サザはなおも言い募る。
「レオナルド! お前、本当に、無理を強いられたんじゃないだろうな!?」
「だから、違う! 違うから、おちついてよ、サザ……!」
「落ち着いていられるか!
あいつを信用していないわけじゃないが、それでも……!」
「……っそもそも、何でサザがそんなに怒ってるんだよ!」
「話を逸らすな!」
レオナルドのもっともらしい訴えは、その本質を簡単に見透かされて破棄された。
返答に詰まったレオナルドはサザから逃げようとするが、大きな手が未だ肩を押さえている為、身体を捩るだけに終わる。
「レオナルド。いい加減、観念しろ」
「……いやだ」
適当に嘘でも吐けば良いものを、レオナルドは正直に否定する。その否定こそが、真実に限りなく近いところにあるというのに。もっとも嘘を吐いたところで、どうせ誤魔化せはしないだろうが。
二人は、本質にどこか似たところがあるのだろうか。一歩も引かず再び対峙するサザとレオナルドを、ブラッドは心底心配そうに、そしてローラはのんびりと見つめている。
お互いに何か言おうと、同時に口を開いた、その時だった。
「おーーーいっ、レオナルドーーー!」
まったく空気を読まない、至ってのん気な声でレオナルドを呼びながら
エディが、その場に姿を現したのは。
「レオナルド!」
「……エ、ディ」
実に嬉しそうに、そして当たり前のようにレオナルドの隣を陣取るエディに、その場にいた全員が視線を向ける。ブラッドは複雑そうに、ローラは楽しそうに。レオナルドは若干顔色の悪い様子で、サザは、驚いているような怒っているような唖然としているような全部なような、なんとも形容し難い表情で。
皆の視線にはまったく気づいていないのか、エディはごく自然に、レオナルドの手を握って。
「こんなところにいたのか。さがしてたのに」
「……今日、は、食事当番、だって……言ったじゃないか」
「ん? そうだっけ? そういえば、そんなこと……、」
手を握って、より強く握り締めようとした、その瞬間。さすがと言うか、このことばかりにはこと目敏いと言うか。エディはレオナルドの怪我を見つけて、明るい笑顔を一変させた。
「レオナルド!? どうしたんだよ、この怪我!」
「た、大したことないよ。その……皮むきをしてたんだけど、手がすべって」
「手がすべった? おまえが?」
それは誰でも騙せてしまうような何でもない言い訳だったはずだ。しかし、レオナルドの普段の真面目さ几帳面さ、それをエディが誰よりも知っているということが災いしたのか、彼は不信がって首を傾げた。
エディはレオナルドの華奢な手を取ったまま、夜の色をした瞳をじい、と見つめる。
そして。
「……ごめん。やっぱ、おれが無理させたんだよな?」
さらりと、きっぱりと、少年らしい潔癖さで。エディは、こんなことをのたまった。
その発言にびしっと凍りついたレオナルドの後ろで、サザとブラッドが、誰も見たことがないような顔をしている。
「ごめん、本当ごめんな! やっぱ、つらかったんだよな!
なあ、大丈夫か? 足とか腰とか、痛くないか?」
「……エディ、……ちょ、ちょっと、待っ……!」
何のためらいもなく喋り続けるエディの平常運転ぶりに、どこかへ飛びかけていたレオナルドの意識が帰ってくる。慌てて口を押さえようとするが、エディはもう止まらない。レオナルドのことを気にかけると、彼はいつも以上にまわりのことが見えなくなるのだ。小言を喰らわせて叱りつけるどころか、今回ばかりはレオナルドも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
しかし、彼の小さな親切、あるいは大きなお世話は続く。
「っていうか、痛いよな? 休んでなくて大丈夫なのか?
本当、わるいと思ってるんだけど。
おまえがすっげえかわいいからさ、調子のったな、って思って」
「エディ、怒ってない、怒ってないから、大丈夫だから! だから、そのっ……」
「次はもっと気をつけるから! だから、レオナルド、今日は……」
エディは至って真剣だ。だから、まったく気づかなかった。
なんだかあまりよろしくない匂いがする、エディの発言。それらが示唆する……というか、もうほぼ公言してしまっている、大人になりきれていない二人の、ささやかなひめごと。昨日までは確かに、微笑ましい、で済ませられたはずの。
ブラッドがローラをさりげなく背中に庇う。これからのことを予見して。
「……おい……」
「ん?」
不機嫌な怒りに満ちた低音がエディを止める。未だに手はしっかり握ったまま、灰色の瞳が、ようやくレオナルドの向こう側を見た。
そこには、ナイフを構えたサザがいる。そのナイフは夕飯用の野菜を切っていたものであり、けっして他意は無い。たぶん。
どんな使命感にとらわれたんだか知らないが。サザはナイフを持つ腕を振り下ろした。
エディに向かって。
「……ッやっぱりお前かエディーーーっ!!」
「はあ!? ってか、危ねえよ! 何するんだよ、サザ!」
「黙れ! お前……っ、レオナルドに甘やかされてるからって
!」
持ち前のすばしっこさでサザの一撃をひょいと避けたエディは、相当に面食らった様子だ。レオナルドも驚いてはいるが、どちらかといえば先程エディが無防備に喋ったことの方にダメージを受けているようである。
「逃げるなエディ! ここで楽にさせてやる!」
「レオナルドをおいていったりなんかするか! なんなんだよーっ!?」
行き交う人と人の間を、エディは器用にすり抜けて逃げていく。その辺りでそれぞれの雑用についていた兵が、何事か視線を向けているが、サザは構わず追いかける。彼を更に追う気力は、既にレオナルドには残っていないらしい。ぺたんとその場に座り込んでしまったレオナルドを、ブラッドはつい気遣ってしまった。
「……大丈夫、か?」
「え……あ、うん。ありがとう、ブラッドさん……」
なにやらひどく疲れているのは、目の錯覚だろうか。痛、と呻いた少年の手のひらが己の腰を労わったのも、おそらくはきっと気のせいだろう。
あまり深く考えたくないブラッドは、そう信じることにした。
「あらあら。みなさん今日も楽しそうですね。すばらしいことです」
「……ローラ。意味がわかって言ってるのか? それは」
「いみ?」
胸の前で手を組んだまま、ローラはきょとんとしてブラッドを見上げる。彼女が何も気づいていないなら、もうそれで良いだろう。
「おい、何を騒いでいるんだ、ぼうず達!」
「サザ? ……一体、どうしたのかしら?」
エディとサザの鬼ごっこを見て、ノイスが声を上げる。不思議そうに首を傾げるミカヤが、生来の勘の良さでレオナルドに事の真相を尋ねるのは、そう遠い未来では無い。
夕暮れは赤く、空を闇へと変えてゆく。少なくとも、今この場では、世界はとても平和だった。
-END-
(09,05,29)
サザは風紀委員っぽいイメージがある。