冷たい雨が降る夜、今、彼の目の前には川があった。
赤い命が端から流れていく感覚と、心細さに苛まれながら、彼の意識は目の前の川へと移ってゆく。逃げて、逃げて、逃げているうちに、いつのまにかこんなところに辿り着いていたらしい。今日は朝からひどい土砂降りであったというのに、川の水は穏やかに流れている。さらさらと、心地良い音さえたてながら。
どうしてこんなところにいるんだろう、とほんの一瞬考えて、直後、彼はすぐに理解した。誰かに何を言うでもなく、たったひとりで。
今の彼にはもう、話す相手すらいない。
川の向こう側には何があるのか、見つめる先には懐かしい街の景色があった。
ああ、この川を渡れば、ちゃんと、いきたかったところにいけるんだ。
何の根拠も無かったが、彼は心から納得した。まるで、遠い昔から知っている、色褪せた記憶のように。
そして彼は覚束無い意識、ふらつく足で、ゆっくりと川へ足を踏み入れる。
「……っ」
刹那。
皮膚を刺す水の氷のような冷たさに、彼はびくん、と立ち止まった。細い足首を晒した川の面に、泥と血液で汚れた自分の顔が、怯えるように揺れる瞳が映っていた。
「……ち、がう……」
それは凍えそうなほどに冷たく、脚には自然と震えが来る。どうかすれば倒れそうなほどの衝撃にくらくらしながら、彼はゆっくりと後退する。こみ上げる吐気と痛みに耐えながら、離れかけていた足が再び大地を掴んだ。
岸に座り込んで咳き込んで、彼は目の前に流れる川を見た。
引き込まれるような美しい水面が、彼の意識を捕らえて放そうとしなかった。
「……ここじゃ……ない。……僕は、まだ……」
怪我を負っている腕を抱えながら、彼はなんとか立ち上がった。一歩、二歩、少しずつ後ろに下がりながら、揺れる心に簡単な決断を迫った。
降り続ける雨が冷たかった。体中を駆け巡る命に、もう少しだけだからと請いながら、彼は振り返らずに走り続けた。
やがて彼は見えなくなり、その場所には川だけが残された。
向こう側では懐かしい街が、懐かしい人を抱えて、誰かを待っていた。
-END-
(08,03,12)
絶望とは。