赤い影
「レオナルド」
 白く埋め尽くされた景色の中、弓を抱きしめて雪空を見上げていた少年に、サザは背中から声をかけた。ほんの少しの間を置いて、少年は振り返る。神射手の証である白い外套の上に、金色の髪を零しながら。
 夜の色を宿した瞳は、ほんの一瞬、虚ろにサザを見つめる。泣いているように思えたけれど、幼い曲線の残る頬に、涙は無い。
「……サザ」
「レオナルド。大丈夫か?」
 サザの存在を認識すれば、レオナルドはすぐにいつもの顔つきに戻った。小さく首を傾げるしぐさ、浮かぶ微笑み。サザは手を伸ばせば触れられる距離で、彼を見下ろして立ち止まる。
「この前から、ずっとそればかりだね。……大丈夫だよ」
「…………」
「だけど、ありがとう」
 穏やかにそう言って、レオナルドはサザの横をすり抜けた。配置された場所へ向かうのだろう。こんなにおかしな戦いだと言うのに、あんな年齢だと言うのに、その足取りはしっかりしたものだ。様々な困惑を閉じ込めた、それは、かえって痛々しくなる程の。
 雪を踏む足音。結晶に凍る枝。遠ざかっていく気配に、サザはふと振り返る。
「…………」
 華奢な肩の隣に、赤い影が見えた気がした。愚かな感傷だとまばたきをしてみれば、白い景色は白いまま、鮮血によく似た赤など見えはしない。
 覚悟や決意、迷いや戸惑い。不変的な確約、絶対的な運命。つまらないものをすべて静寂に返すように、雪は降っている。
 ただひとつの例外も許さない、真っ白な体温で。

 戦いは終結した。正の女神の粛清という、現実離れした現実で。
 これ以上の裁きを止める為、石化を免れた者はこれから三つの部隊に分かれ、そして帝都を目指すらしい。部隊編成に悩み始めた負の女神とやらに身体を貸してしまった姉のことはひとまず置いて、サザは一人の少年を捜す。
「レオナルド。……と……、」
「サザ?」
 ほんの少し離れた場所に、サザは目的の少年を見つけた。その傍らには、彼の父親のような立ち位置の者がいる。
「ノイス……」
「どうした。部隊編成は終わったのか?」
 近づいてみると、レオナルドの腕に、不自然な赤い染みが見えた。どうやらレオナルドは先程の戦いの中で負傷し、そしてその手当てを今、ノイスから受けていたらしい。とりあえず、といった顔で笑いかけるノイスに、サザはいつもの無愛想で答えた。
「いや……。まだ向こうで話してる。
 アイク団長に、鷹王まで揃ってるんじゃあ、俺は役に立たないから……、だから、レオナルドを捜しに……」
「そうか。……こいつなら、手当てが今、済んだところだ。
 ブラッドも随分派手にやられてたから、俺はそっちに行くぞ」
 レオナルドの肩を軽く叩いてから、ノイスは立ち上がる。包帯に触れながら、ありがとう、と言って笑うレオナルドに、おかしなところは何も無い。
 すれ違い様、サザの肩に手を掛けて、ノイスはぽつりと呟く。後は頼んだ、と。
 言葉の奥に含まれた意味を、込められた思いを、痛いほどに理解出来る。だからこそ、頼まれても、どうにも出来ないと知っている。
 それほどの役割を期待したわけでもなければ、儀礼的に言ったわけでもないだろう。ただ、言わずにはいられなかった心情に同調して、サザは苦しく目を伏せる。
「……レオナルド、」
「なに?」
 レオナルドが、サザの瞳を見上げて首を傾げる。髪に引っ掛かった冷たい花を手でそっと払ってやりながら、サザは静かに告げた。
「……これから、まだ、変更があるかもしれないが……。
 俺達の中でお前だけが、おそらく、アイク団長の隊に入れられると思う」
「…………。……そう」
 サザの言葉にレオナルドは、瞬間、僅かに身体を強張らせた。素直な反応はすぐに消え失せて、後には感情の無い返事と、白い息と、白い雪だけが残る。
 握りしめた手のひら、震える指。そんなものが目の前にあっても、どうすることも出来ないまま。
「……大丈夫か?」
「どうして?」
 どうしても何も無い。そう言い返してやりたかったが、サザは口を噤んだ。
 本当は、きっと。だいじょうぶか、なんていう当たり前のような言葉でさえ、今のレオナルドにとっては、鋭い刃物でしか無いのだろうから。
「大丈夫。ありがとう、サザ」
 レオナルドの返事は、変わらなかった。こんな状況であっても、たまらない孤独の中にいても。ほんの少し色褪せた懐かしい景色の中にあったものと、何一つ。
 先に戻ってるから、と言って立ち上がり、歩き出す少年。ひどく不安定に見える背中に、赤い影がちらついて。
 レオナルドを追うことも、引き止めることもなく、サザは、ただ。
 行き場の無い手を握り締めて、声にならない声で呻いた。

 エディが死んだのは、ほんの数日前のことだ。白銀色(ぎんいろ)に埋め尽くされた景色の中、滅びを待ちながら抗った、あの日。足音をたててやってきた終焉を、迎え撃ったあの戦い。
 青ざめた顔色に、胸が詰まった。赤に赤が染み込んで黒ずんだ胴着には、左肩から、まったく助かる見込みの無い軌跡が描かれていた。赤い雫は雪をとかして、そして雪は身体を凍らせた。しかし、その表情だけが、なぜか、ひどく安らかだった。
 命が終わるその時に、少年が何を思ったのか。そんなのは、考えても仕方の無いことであるし、考えたくも無いことだ。どんな理由があろうとも、彼は死んだ。冷酷でも、残酷でも、残ったのはその事実だけ。
 ただ。二度と動かない肢体を前に、そこにはレオナルドが、ひとり佇んでいた。
 何も聞かず、何も言わず、ずっとそこに佇んでいた。
 二度と目覚めない身体をたくさんの死体と共に埋めて、花の代わりに雪を飾って、肩が白く染まってきた頃、ようやく。
 僕のせいだ、と、レオナルドは。誰に言うでも無く、そう呟いた。
 ノクス城を攻めたのは、グレイル傭兵団だった。真っ直ぐに向かってきたのは、将たる英雄だった。
 神剣ラグネルに捕らえかけられた、レオナルドを。
 文字通り、その命を盾に、エディは守って、そして散った。

 エディが死んだのは、レオナルドの所為では無い、とサザは言った。何の所為、と言うのであれば、それは心臓を裂いた傷の所為だ。そしてその傷をつけたのは、レオナルドではない違う誰か。冷酷でも、残酷でも、感情論など持ち込めない。
 だが、サザの言葉に、レオナルドは静かに首を振った。
 皇帝軍とか、解放戦争とか、平和のためとか、デインのためとか。そんなものは一切関係無くて。
 エディが死んだのは、僕のせいだ。
 レオナルドはそう言ったきり、その後その死について、一切何も言わなくなった。

 まったく日を置かずに、次の戦いは始まり、そして終わった。レオナルドは、冷静だった。いつも通りに軍務をこなし、いつも通りに戦って、いつも通りを過ごしていた。
 誰に対しても穏やかに、大丈夫、と言い続けていた。
 ただ、その目はエディを追いかけなくなり、その声でエディの名を呼ぶことは無くなった。
 当たり前だ。だって、彼は、もう隣にはいないのだから。

「…………」
 糸が張り詰めているようだと思う。ほんの少し弾けば、切れて戻らなくなってしまいそうな。レオナルドは、悲しいとも、淋しいとも言わなかったし、涙さえ見せなかった。けれど誰も、彼を冷たいと言わなかった。皆、知っているからだ。少年と彼の絆のありかを。
「…………馬鹿野郎、」
 あの戦いが始まる前に。真っ赤な胴着を翻しながら、少年は走ってきた。ああこれはいつもの惚気が始まるなと思ったら、案の定そうだった。うんざりしながら聞いていた。少年と彼の絆の深さを。
 上等な剣を掲げて、少年は言ったのだ。
 親友で、家族で。これは、そんなことをかたちにした、少年にとって二つ目の宝物なのだと。
 一つ目は何なんだ、なんて。
 聞くまでも無かったから、聞かなかった。その後、訊いてもいないのに、勝手に少年が答えてしまったのだけれど。
「…………何、で……そんなに……」
 しっかりとした足取りで歩く背中を見てみれば、隣に赤い影がちらついた。目をこすって見渡せば、そこには灰色空と、白い大地と、白い外套の子どもがいる。
 愚かな感傷だ。ありえないことだ。誰かの願望だ。意味の無いことだ。
 だけど、少年は、死してなお。
 彼を抱きしめて、抱きしめたまま、けっして放してはいないのだ。
「………そんなに、好きだったなら……。
 ……何で、あいつを、置いていったりしたんだ……!」
 誰にも届かない叫び。冷たい空気をふるわせて、そして白い気配に消えていく。点々と滴り落ちた赤い染みに、言い様も無い憤りを感じながら。

 握り締めた手が、握り締めすぎて、爪で傷ついていたけれど。
 そんなことには一切構わず、サザは呪いのような祈りの代わりに、ただ、静かに目を伏せた。

-END-

(07,09,28)
いろいろなものを隠しています。赤と白のコントラストの中に。

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