透明
 俺、今度の夏の初めに、結婚するんだ。って。
 鮮やかに色づく世界がほんの少し変わったように思えたのは、冬の終わり、まだ白く残る雪の間から、新芽が顔を出した頃だった。

「レオナルド!」
「エディ」
 昼飯時を少し過ぎた頃に、レオナルドの休み時間はやって来る。そのタイミングを熟知した来訪者に回廊で呼び止められて、レオナルドはふわりと微笑んだ。親友で家族。もうずっと以前から深い絆で結ばれた、エディの声に応えるために。
 エディは腰に剣を提げたいつもの格好で、真っ直ぐにレオナルドの元へと走ってくる。出会ったころは同じくらいだった身長も、今ではエディの方が頭半分程高い。背が伸びても、歳を重ねても、未だに落ち着きが無い彼は、幼いころのようにレオナルドに抱きついて、三週間ぶりの再会を喜んでみせた。
 ほんの少しの驚きに目を見開いたレオナルドが、それでも拒絶はせず許容するのも、出会った頃と何一つ変わらない、いつものことだ。
「レオ、久しぶり!」
「……エディ。暑いんだけど」
「何だよー。いーじゃん。固いコトはナシだって!」
「固いとか緩いとか、そういう問題じゃないよ……」
 そう言ってひとつ溜息を吐いたレオナルドは、エディの背中をぽんぽんと叩いて、離れるように要求する。やがて大きな手のひらはするりと離れて、残ったのは彼の、真夏のような笑顔だけだった。
 弓将軍として、レオナルドが。そしてそこそこ名の通った傭兵として、エディが。二人がそれぞれの意思で守るこのデインという国は、まもなく夏を迎えようとしていた。青空から降り注ぐ日射しは眩しく、木々が大地に濃い影を落としている。
「こんなところに、来てて良いの?」
「ん? 何で?」
「だから、自分自身の準備とか……。確か、一週間後だったろ?」
「ああ。うん、確かに、後七日だけど」
 高さの合わない目線。エディのやわらかい灰色の瞳は、レオナルドの姿だけを映している。
「今日は、俺もあいつも、一日休みにしよう、って。
 あいつも、親友に会ってくるって言ってたからさ」
「そう。……それで?
 奥さまが親友に会いに行くから、エディも僕に会いに来たの?」
 ついでのような物言いに、ほんの少し気を悪くしたのかもしれない。
 会いに来てくれたことが純粋に嬉しいのに、レオナルドはいつもの調子で、若干後ろ向きなことを言う。
 それなのに。
「違うって! 俺がお前に会いたかったから、会いにきたんだよ。
    会いたかった。無茶とか、してないだろうな?」
「……してないよ。エディじゃ、あるまいし……」
 嘘の一つも無い透明な言葉が、レオナルドの意識の面(おもて)をすべってゆく。
 ゆるりと瞳を閉ざしたレオナルドは、すぐに視線をエディに戻して、ありがとう、と幸せそうに笑った。

 俺、今度の夏の初めに、結婚するんだ。って。
 冬の終わりに王城を訪れたエディのそんな春告げに、かつての仲間達は、まず最初に驚愕した。女神をも巻き込んだ大戦の終結から、もう数年。年齢から言っても、別に、おかしなところは何も無い。ただ、彼という人とその言葉とが、すぐに結びつかなかっただけで。
 体を満たした驚愕が端から収まっていった後、次に彼らにやって来たのは祝福の心だった。おめでとう、大事にしろよ、どこの娘だよ、泣かすんじゃないぞ。軽口によく似た祝言を、彼は、ほんの少し照れた顔をしながら。ありがとう、と返しながら。
 けれど、祝福の陰からこっそりと、違うものが顔を出したのは。
 レオナルドただ一人だった。
「奥さまは、元気?」
「ああ、すっごく! お前にも、また会いたいって言ってたぞ」
「そうだね。僕も、もう一回くらい、会っておかなくちゃ。
 ……エディがどんなに無鉄砲かって、ちゃんと言っておかなきゃいけない」
「ええっ。何だよ、それ。告げ口?」
「だって、君に小言を言うのは、これからは奥さまの役割じゃないか」
 大戦が終結して、二人はそれぞれの道を選んだ。二人で手を繋ぐことは無くなり、二人で一つということも無くなり、二つは一つと一つに戻って。
 生まれた気持ちは本物なのだろう、だけど、きっと変わっていけるから。
 繋いだ手と手を離したときは、納得もしていたし、淋しくなんかなかったのだ。だって二人は親友で、紛れも無く家族だったから。
「お前、俺の相棒やめる気なのかよ?」
「結婚してまで、僕に面倒を見させる気?」
 それなのに、あの春告げの日に。光の影からこっそりと、月が顔を出したのはなぜだろう。月の棘は彼と会うたびに、胸の奥をちょっとずつ突き刺して。
「僕が、奥さまに怒られちゃうよ。……わかった?」
「んー……おう。よくわかんねえけど、わかった!」
 会うたびに、痛みがひどくなるごとに、悲しみを隠す術が上手になっていく。これは確かな悲しみだ。けれどけっして表に出せるわけがなかった。レオナルドの笑顔を、幸福を、誰よりも祈ってくれるのは、他でもない、エディだからだ。
「だけど、」
 エディは急に手を伸ばすと、レオナルドの髪をふわりと撫でた。肩より長めのところで揃えられた、はちみつみたいな黄金色(きんいろ)は、エディと出会った頃よりも、ずっと美しくなっていて。
 突然ふれた体温に、レオナルドはびく、と身体を震わせた。思わず肩を引きかけるが、長年の習慣がそれを許さない。
 恐る恐る、レオナルドは視線を上げる。夏の日差しに照らされて、エディの笑顔がそこにある。
 本当に。
 今でも少しだって変わらない。   あの時の気持ちは、確かに……。
「お前が、何か、大変なことに巻き込まれたら。俺は絶対、助けに行く」
 どうして、忘れられないんだろう。
「お前が泣いてたら、俺は、どこにいたって駆けつける」
 どうして何もかも、許されるわけにはいかないんだろう。祝福する気持ちは、幸福を願う心は、間違い無く自分の本物であるのに。
「親友で、家族だから。
 絶対に、変わらないから   それくらい、いいだろ?」
 エディの腰には、ひとふりの剣が提げてある。もう長い間使い込まれた、それでいてとても美しい、上等の剣だ。
 そんなものがなくても、きっと。二人は、心から、深い絆で結ばれているから。
「……。エディは、変わらないね……」
「当たり前だろ。俺は、ずーっと俺だ。お前もな」
 嘘じゃない。偽りではない。騙してもいない。本当のことしか言っていない。
 ただ、本当のことを、ひとつしか言っていないだけで。
「ずっと……、ちゃんと、言ってなかった気がするんだ」
「ん?」
 祝福する気持ちに、嘘は無い。幸福を願う心に、偽りは無い。
 親友で、家族である彼を、騙していることだって絶対に無い。
 だけど。
「おめでとう。エディ」
「ん。……ありがとな」
 髪を撫でる大きな手、ふれる体温にとかされないように。真夏のような快活な笑顔に、けっして見透かされないように。
 レオナルドはエディを見つめて、ただ、とてもしあわせそうに、微笑んだ。

「エディ。ミカヤ達には、挨拶に行った?」
「いや? まず、お前に会うのが先だって思ってたし。これから」
「そう……。じゃあ、行っておいでよ」
 今の時間なら多分大丈夫だからというレオナルドの気遣いを素直に受け取ったエディは、髪を撫でていた手を離す。ミカヤ達は元気か、という問いに、レオナルドは、元気だよ、という答えを返して。
 そうか、と呟いたエディは、ほんの少し考える素振りを見せてから、首を傾げてレオナルドに尋ねた。
「お前、今日は、この後何かあるのか?」
「……。うん、ちょっと……」
「そっか。   それじゃあ……」
「次に会うのは、七日後。式の時だね」
 回廊の外、広がる緑。真夏の太陽はさんさんと、世界をまるごと照らしている。
「! 休み、取れたのか!?」
「ああ。他でもない、エディのためだからね」
 行くよと言って肩を竦めたレオナルドは、エディの知っている彼と、何ら変わりない。ひろい世界でいちばんの。親友で家族、の為だから。
「言うまでも無いだろうけど……。奥さまを、大切にしてあげてね」
 花のほころぶような愛しい景色。水が澄み渡るような記憶。
 エディは、それはそれは幸せそうに。いとおしく、笑って。
   ああ。絶対に」
 約束。
 いつまでも二人で。広い世界で一番の。家族を、幸せに、するから。
「……それじゃあ」
「うん。じゃあな   
 大きく手を振りながら、出会ったころと少しも変わらない様子で、慌しく回廊を走り抜けていく。
 その足音が聞こえなくなるまで、レオナルドは大きな背中を見送った。
 やがて、一人きりになった静寂に、鳥のさえずりが鈴のように響く。
「…………」
 崩れるように柱の壁に凭れて、レオナルドは俯く。何度も何度も頭の中で、自分の言葉を繰り返しながら。

 繋いでいた手と手を離すことは、二人の間で決めたことだ。昔からもうずっと、落ち着きの無い彼が、自分の手で選んで、掴んだもの。かけがえのないものを見つけられた喜びを、どうして祝えずにいられるだろう。
 瞳に映ったのは、彼の幸福だった。心に浮かんだのは、あたたかな祝福だった。大きな手が残したのは、真夏のような笑顔だった。胸に残ったのは、確かな痛みだった。
「……良かった」
 うそつき。
「……良かった。本当に……、おめでとう。エディ……」
 うそつき。嘘つき、嘘つき。本当のことを肯定する意識の隙間から、誰かが聞こえない声で囁く。
 嘘じゃない、彼の幸福を願う心は。迷宮の闇から救ってくれた。世界で一番の親友で家族。失わなかった、深い絆。
 春告げを喜ぶ暖かな心に、どうして悲しみが芽生えたんだろう。
 どうして今更淋しいんだろう。どうしてこんなに、痛いんだろう。
 それは、
「………………」
 あかるい性格、前向きな心。揺れる髪の匂い、真っ直ぐな眼差し。抱きしめられたぬくもり、抱きしめてくれた暖かさ。
 走り続けた背中に、引いてくれた手のひらに、真夏のように眩しい笑顔に。

 ああ、本当に。
 今も少しだって変わらない。恋を      したからだ。

「…………っ……」
 その場にしゃがみ込んで、膝に顔を埋めて。どうにもならないことだから、こんなに考えてもどうしようもない。あるのは、ただ、彼が幸福を手に入れたのだという事実。誰よりもそれを願い、祈り、喜び、祝福した心。誰にも見えない影になったところを、苛み続ける鈍い痛み。
 だって、自分ではかなわないのだ。一番傍にいたかった。
 自分では、彼は、あんなふうにいとおしく、笑ってはくれないのだ。

 祝福する気持ちに、嘘は無い。幸福を願う心に、偽りは無い。
 親友で、家族である彼を、騙していることだって絶対に無い。

 だけど。

      っ……。」
 耐えきれなくなった淋しさが、閉じた瞳の端の方から、透きとおった雫になって、こぼれて落ちていく。
 子どものように泣きじゃくるレオナルドの足元で、小さな花が揺れていた。

-END-

(07,08,30)
以前は恋人同士。今は片恋。そんな二人。

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