キャロットスープ
 コトコトと音をたてる小さな鍋を前に、レオナルドは大きく溜息を吐いた。いつかばれてしまうことだとは思っていたけれど、まさかこんなことになるなんて。
 どうしてこんなことになったんだろう、と考えを巡らせてみたところで、結局は自分が一方的に悪いのだと、思いはそんなところへ辿り着く。……ああ、それにしたって。だからと言って、あんまりだ。あんなことを言ったのが、せめて別の誰かだったなら、適当に逃げることだって出来たはずなのに。
「レオナルド! どうだ?」
「……うん。たぶん、出来た……と思う」
 テーブルの上を片づけていた茶色い頭が、後ろから顔を覗かせる。レオナルドがその手にお玉を渡すと、エディは瞳を輝かせながら鍋の前へとやってきた。スプーン一さじ程の味見をすると、彼は満足そうに頷いて。
「うん! やっぱり、おれ、おまえの料理、好きだな」
「……ありがとう。……あの、何ならそれ、全部、エディが……」
「だめだって。本当は、おまえが食うものなんだから」
 どさくさ紛れに言ってみたが、エディは騙されてはくれなかった。そのまま器に鍋の中身をよそうエディの、楽しそうな横顔。ああ、もう逃げられないのだ、と、レオナルドは軽い目眩まで覚えてしまった。
「はい。   あ、テーブルの上、もう拭いてあるから」
 手渡された温かい器からは、白い湯気と共に、おいしそうなにおいが漂っている。その中身は、はんぶん透き通った赤い野菜の、キャロットスープ。
「おまえってさ、けっこう、小さい子どもみたいなとこ、あるんだな。
    ニンジンが嫌い、なんてさ」
 エディが言い出したのだ。スープにすれば絶対食べられるから、直せるうちに直してしまおう、なんて。
 純粋な厚意から生まれた、エディによるレオナルドのための好き嫌い克服大作戦。   断れるわけなど無かったという事実、そんなものの根本になったどうしようもない理由に、レオナルドは深い溜息を吐いた。

「いただきまーす」
「……いただきます」
 一言だけのお祈りの後、エディは早速スープに口をつけたが、レオナルドはスプーンを持ったままの格好で、しばらくの間、向かい側の席についたエディを見ていた。赤い野菜が掬われて、何の躊躇も無く身体の中へ消えていく。
 何でもおいしそうに食べるエディの姿を見ているのは、レオナルドはとても好きなのだけれど、今この時だけは、どうしても信じられなかった。どうしてこんなものを、そんな笑顔で食べられるのだろう。思いは頭の中でまわり、そしてやっぱり何度も同じところに戻ってくる。
「ん? 食わないのか?」
「え……。ああ、いや……」
 語尾を適当に濁したレオナルドに、エディは、おいしいから食べてみろよ、と言って笑ってみせた。
 料理をエディに褒められるのも、いつもだったらとても嬉しいのだけれど。今は、嫌いな食べ物を使って、よくもまあ食べられるものが出来たものだ、という変な感慨しか生まれない。
「…………」
 スプーンで一口分、器の中身を掬ってみる。透き通った淡い飴色のスープ。薄切りにした玉ねぎに、細長いかたちの赤いニンジン。
 味は、よく覚えていない。記憶の底を漁ってみても、とにかく、あの食感が苦手なのだ、という主張しか得られなかった。硬いのかやわらかいのかよくわからない、何とも言えないあの感じを思い出し、レオナルドはやはりそこで手を止めた。二度目の、深い溜息を吐く。
 幼い頃は、一体どうしていたのだろう。目の前の苦境から逃れる為なのか、レオナルドの頭は次から次へと違うことを考える。
 父が一人、兄が一人と、それから自分。家事手伝い兼幼いレオナルドの子守役だった老婆が作った、赤い野菜が見え隠れする料理。
「…………」
 よく隣に座っていた、兄もまた。白いお皿の上に、ニンジンだけを綺麗に避けていたような気が、しなくもないが   
「…………。」
「レオナルド?」
「えっ。……あ、う、うん、ごめん……、」
 エディの声で遠い追憶から引き戻されたレオナルドは、慌てた様子で、何か言われる前に謝った。気づけばエディの視線は、止まったままのレオナルドの手に注がれている。
 食べたくないのか、とか、そんなに嫌いなのか、とか。ぜったいだいじょうぶだから、とか、そんなことを言われる前に、なんとか誤魔化そうとしたけれど。
 今度は、そんなレオナルドを見ていたエディが、小さな溜息を吐いた。
「ったく。しょうがないなー。レオ、それ、貸して」
「え……。う、うん……」
 エディに言われるまま、レオナルドは、自分のスープの器をエディの方へと押しやる。一体何だと言うのだろう。
 不思議そうな瞳が見つめる光景。エディはレオナルドの器から自分のスプーンにスープを掬うと、背を伸ばしながら、身を乗り出して。
「はい。あーん」
「…………………………………………。」
 その言葉、というよりは掛け声。意味を理解するのには、ちょっとした時間が必要だった。
 頭はゆっくりと考え始め、やがて、その意図を完全に飲み込んだ。瞬間、レオナルドの頬が、見てわかるほど真っ赤に染まる。
「…………!? ……は……。なに、考えて……!」
「自分で食べられないんだったら、こうするしかないだろ。
 ほら、口、開けろって。言い出したの、おれだし」
 思わず身体を引いたレオナルドを追いかけるように、エディのもう片方の手が伸びてくる。それほど大きなテーブルではないので、レオナルドは、簡単にエディに捕まってしまった。
 熱い手のひらに押さえられた頬。ずっと近くで絡む視線。
 目の前に大嫌いな赤い野菜が迫っていることも気になるけれど   でも。
「エディ、やめ……! い、いいから……っ!」
「だまされたと思って、一度食べてみろって!
 たぶん、思い切れないだけだからさ。な?」
「だから、そういうことじゃなくてっ……!」
 軽く手首を掴んで抵抗しても、エディに引く様子は無い。頬を捕らえた手、指先が耳朶に触れて遊んだから、レオナルドは、びく、と肩を強張らせた。
「……自分、で……ちゃんと、食べる……から……」
「だめ。すっげぇ遅くなりそうだから。冷めたら効果半減だしな」
 苦し紛れの言葉での抵抗も、いい加減、エディには無意味だった。ああ、本当に。どうして、こんなことになってしまったんだろう。
 この赤い野菜が嫌いじゃなければ、こんなことは初めから無かった。自分が思い切って食べてさえいれば、彼はこんな行動を起こさなかった。せめて、目の前の彼が、エディでなければ。もっと上手に断って、抵抗だって出来るはずなのに。
「はい。あーん」
「………………」
 子どもをあやすような明るい笑顔。いつの間にか口元を押さえていた自分の手を解いて、観念したのか、レオナルドは、ゆっくりと口を開けた。
 代わりのように瞳を閉じたのは、たぶん、最後の抵抗だった。
「…………っ、」
 口の中。あたためられた木の味と、それから、あまり食べたことの無い、ニンジンの味が広がった。
 閉じた瞼の向こう側で、エディが離れる気配がした。そろ、と目を開けると、先程よりも少し遠いところで、彼が満足げにこちらを見ていて。
 レオナルドが口の中のものをからだのなかへ送ったタイミングで、エディは尋ねる。
「ん、よし。ちゃんと食えたな。で、どう?」
「…………。……よく、……わからない……」
 対するレオナルドの解答は、あまりはっきりとしないものだった。真っ赤な顔、再び手のひらで押さえた口元。レオナルドは懸命に、エディから瞳を逸らしている。
 それを聞いたエディは、ところが。どういうわけだか、とても嬉しそうに笑ってみせた。
「そっか! ってことは、嫌じゃなかったんだよな?」
「……う、うん。たぶん……。でも、僕……」
「それでじゅうぶんだって。な、煮れば食えただろ?」
「…………」
 よかった、なんて言ってエディは笑っているが、レオナルドは何だか釈然としなかった。よくわからないと言ったのは、つまり、嫌いなものが食べれるか食べれないかなんて、大した問題では無かったからだ。
 あの真っ赤な野菜のために、自分の身に起こったことに。あんまり気をとられて、意識してしまったから。味や食感なんか、はっきりとはわからなかった。
「じゃあさ、ほら。よくわからないうちに、もっと食べろよ。次はわかるかもしんないし」
「…………」
「どうしたんだよ、そんな顔して。まだ不安なんだったら、もう一度……」
「!! いい! 今度は、ちゃんと、食べる、から……っ!」
 エディのとんでもない提案に、レオナルドは弾かれたように顔を上げ、慌てた様子で首を振った。
 いつまでも戻らない、真っ赤な色をした頬。逸らされたままの夜色の瞳に。
 何もわからないエディは、ひとり、首を傾げたのだった。

 その後レオナルドは、キャロットスープのニンジンだけは食べることが出来るようになったので、エディは大いに満足したが、ニンジンを見るたびにレオナルドが顔を赤くするので、周囲の者は大いに訝った。
 どうせエディと何かあったのだろうと、皆には簡単にそんな予想がついたので、困るのはやはり、レオナルドだけだった。

-END-

(07,06,15)
何だこれ……。

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