いつの間にか、帝国の駐屯軍に追われ、逃げ続けるだけの日々が当たり前になっていた。はじめは一人で、次は二人で。王都に辿り着いてからは三人で。そして、あの夜明けの日からは、五人で。いずれにしても、追われていた。ただひたすらに、逃げていた。
自分の国だっていうのに、何でこんなふうに隠れなくてはならないのだろう。ある日そんなことを言った少年に答えたのは、少年の親友であり、相棒であり、そして家族となった彼だった。
『三年前の戦争で、クリミアに負けたから。それ以外に、理由なんて
』……。
「ミカヤ。……あのさ、頼みが、あるんだ」
竜鱗族とクリミア女王の介入により、迫る足音から一度は逃れたデイン軍は、しかし戦を止めようとはしなかった。大儀の無い殺戮であることは明白だったが、誰も彼らの将を裏切らなかった。前にも進めず後にも引けないこの状況を、皆、おかしいとは思っていたのだけれど。
決戦の場へと発つ直前、砦内にあるミカヤの部屋を訪れたエディは、いつになく真剣な様子だった。彼女が思わず警戒し、何かを言われる前に口を閉ざしてしまおうとした程に。
そんな彼女の様子を悟ったのか、エディはいつものように笑ってみせる。
「あ。違うって。理由をききに来たんじゃないよ。言えないんだろ? それは」
「…………ごめん……なさい」
「ん、いいよ、もう。ミカヤが戦うなら、おれも戦う。それだけだ」
な、と念を押したエディに、ミカヤは俯いた。以前から、この少年は何度も、一連の戦の正当性を、彼女に問い続けていた。彼女がそれに明確な答えを返すことは一度も無かった。その所為でお互い気まずい状態になったこともあったが、それでも何も変わらなかった。
それなのに今も、戦ってくれると告げたエディに対し、ミカヤはもう一度、ごめんなさい、と呟いた。
うん、と言って笑ったエディは、腰に提げた剣の柄に触れた。チャリ、と音をたてたのをきっかけに、部屋の中の空気が張り詰める。
「……今日は……そのことじゃなくて。どうしても……頼みたくてさ」
「……なに?」
「あのさ。今日の戦い
」
開いた唇。零れる言葉。次の瞬間、落とされたそれに、ミカヤは目をまるくした。
「おれ、前線に出たい。
頼む。ミカヤ」
「……え……?」
エディの頼み、もとい要求は、とてもわかりやすいものだった。
剣歩兵隊は二手に分かれ、最前線、そして中程で、皇帝軍を迎え撃つ。それが今度の決定だった。但し、未だ年端の行かない少年については、軍の最奥で将と共に戦う。それもまた今度の決定だった。いつかの、リバン河での戦いと同じように。
長い時間をかけて言葉の意を飲み込んだミカヤは、あたたかな灰色の瞳をじっと見つめて。
「……レオナルドは……一緒には行けないわよ?」
自然と出てきたのは、エディの親友であり、相棒であり、そして家族である彼の名前だった。
弓兵隊は、森を越えて攻めてくるであろう敵の飛行部隊に応戦する役割がある。ゆえに、森の向こう側へは行かせられないのだ。前線に近いところに配置される隊もあるが、彼もまた、同じ子どもであるから。
いつでもエディは、レオナルドの隣で戦っていた。解放軍として、デイン中を駆け回っていた時も。先日の防衛戦にて、デインの国の仇が、目の前に迫ってきた時でさえ。
それを思い返してのミカヤの言葉は、しかし、エディ自身によって否定された。
「知ってる。それでいいんだ。いくなら、おれ、ひとりでいきたい」
「……エディ……?」
「頼む。ミカヤ。……ぜったいに……足手纏いには、ならないから」
「…………」
そう言って頭を下げたエディを、ミカヤの金細工の瞳が訝しげに見つめる。あまりにらしくない頼みごとを、彼女に与えられた感覚で受け止めながら。
やがて、それなりの空白を無言で塗りつぶした後。
「……わかった。
最前線には行かせられないけど……ノイスのいる隊になら……」
「! ほんとか!?」
ゆっくりと紡いだ答えに、エディが勢い良く顔を上げた。ほっとした様子で弛んだ表情。何を考えているのかわかるはずもないが、一緒に心も緩んでしまったらしい。
その瞬間、ミカヤは気づいてしまった。緩んだところから心が零れて、彼女の胸に届いてしまった。
「…………」
「自分勝手なこと言って、ごめん。ありがとな、ミカヤ」
嬉しそうに笑う少年は、間違い無くいつものエディだ。
それなのに。
「…………エディ……!?」
「じゃあ、また後で。おれさ、
だいじょうぶだから!」
それだけを言い残して、エディはミカヤに背を向けた。くるんと向きを変えた動きに沿って、赤いコートの裾が踊るように流れる。
そのまま歩き出した少年の背中を止められず、彼女は見送る表情に不安を落とした。
「! あ……」
「…………」
部屋から出ようと扉を開いたところで、エディは思わず足を止めてしまった。扉の横、壁に背中を預けるその姿を認めて、咄嗟に言葉が出てこなかった。
「……おかえりなさい。遅かったね……」
壁に寄りかかったまま、エディをじっと見ている瞳がある。白い頬にかかる金色の髪が、薄暗い廊下でもはっきりわかった。
小さく溜息を吐いて、レオナルドは凭れていた場所から身体を起こす。その視線がエディの手元に流れたことで、彼はようやく、扉を開け放したままだったことに気づいた。慌てたように扉を閉めて、エディはやっとレオナルドと対峙した。
「……遅かったから……何、してるのかと思って……」
「……レオ」
「……行くの?」
真っ直ぐに、深い色に染められた夜はエディに向けられる。この目からは逃げられないし、逃げる気などもまったく無い。
エディは震える手をぎゅっと握り締めた。笑って取り繕う気は無かった、だから素直に答えることにした。
「……ああ。……おまえは……こっち側に残って、ミカヤを守ってくれよ」
「……うん。わかった……」
「なんだ。……止めないんだ? てっきり、止められるかと思ったのに」
「だって、もう、決めたんだろ? だったら、いい。その代わり……、」
気丈に振舞う言葉の続きを、エディはちゃんと知っている。
「絶対に……死なないって。置いていかないって……約束してくれる?」
「…………」
予想した通りだった。想像したものと、寸分違わない約束。語尾が震えていることだって、気づいていたし、止めたかった。
剣を振るう右腕を伸ばして、剣の柄に触れる左手で同じように触れて、エディはレオナルドを壁に押しつけ、抱きしめる。
「……、エディ」
「レオナルド。……おれさ、おまえに、もっと気をつけろ、とか。
すっげぇ言われて、それで……。それ、全然、守れなかったけど」
エディが耳元で囁くと、レオナルドが息を詰める気配がした。窓から流れ込む空気は冷たく、石造りの背凭れを同じ温度まで冷やしていく。
そこで一旦、言葉を切って。エディはレオナルドと、軽く額を合わせた。
いちばん近くで視線を交わした二人の少年は、揺れる瞳で本当の言葉を閉じ込めた。
「その約束だけは、一度も、やぶったことない。だろ?」
「……うん。そうだね……」
どこか遠くを見るように、レオナルドは目を細めて視線を引き下ろす。
エディの腕の中で、レオナルドが微笑むことはなかった。
彼女に尋ねても、謝罪が返ってくるだけだった。そして他の誰に尋ねても、決まった言葉しか返ってこなかった。「ごめんなさい」。「わからない」。考えて、考えて、そんな答えは聞き飽きて、少年は、いつしか考えることを放棄した。
放棄するべきではなかったのだろう。けれど避けられない戦の日は訪れて、火は落とされて、少年の意思は考え続けることより楽なたった一つの答えに辿り着いてしまった。
「…………来たな」
「…………」
突きつけられた現実を見据えながら、エディは長く息を吐く。何かの代わりのように触れ続ける剣は、彼にとっては、ずっと欲しかったものの証だ。
激しい足音。肉が裂け崩れ落ちる様子を遠くに捉えた少年の目には、空と同じ色が映っていた。
「エディ。あまり前に出過ぎるなよ。おまえは……」
「…………ノイス。ごめん」
逃げ隠れを繰り返していた日々。少年が、命と同じ程に大事にしていた彼は、それ以外に理由なんてない、と言っていた。デインがクリミアに負けたから。そして今、少年の目には、世界の期待を背負った英雄の姿が映っている。
きっと、もっと遠くから見つめれば、悪いのはこちら側なのだろう。
けれど、どちらが正しいのか、間違っているのか、悪いのかということと。
その人が少年にとって、仇であることは別だった。
「おれ
いってくる!」
灰色の空から降り続ける白い結晶が、冬の眩い景色を染めていた。一度は覚悟した。同じ覚悟を、もう一度しただけだ。引き止める手をかわして、引き止める声を振り切って、走り出す少年の背中は、閉じ込められた言葉を引きずっていた。
死なないで。置いていかないで。ひとりにしないと、約束して。
その約束だけは、一度も、やぶったことがない。
だけど、これからもずっと破らないとは、言ってくれないんだね。
夜を抱きしめて揺れる瞳だけが、はっきりとそう言っていた。
長い冬は未だ終わらず、世界を埋め尽くすように白く積もり続ける。たくさんの足跡で汚された大地に、いちばん新しい軌跡が残る。おんなじ色の刃で、たくさんの命を奪いながら。
エディは高く跳躍し、裂帛の気合と共に、蒼炎の勇者めがけて剣を振り下ろす。
二人の間に起こった衝撃は、激しい金属音を響かせながら、高い空へと抜けていった。
-END-
(07,06,02)
部隊配置の理由が適当過ぎます。