裁きの光が落とされた日から、夜は元より静かなものになったけれど、今夜はまた特別に静かである、と思う者は少なくは無かった。虫の声、風の音。そんなものまで無くなってしまったかのように、時間は静寂に抱かれている。
無意識に湧き上がる不安を紛らわしたいのだろうか、いくつかの天幕の周りでは、親しい者同士が集まり話に花を咲かせているけれど、それでも今夜はとても静かなのだと、そんな思いを拭えない。剣を腰に佩いたエディもまた、そう思う者の一人だった。
「レオナルド」
隊の人々の間をするりと抜けて、エディの声はたった一人を探す。満天の星空。杖を抱いて何事かを祈るローラ、その傍についているブラッドを視界の端に入れながら。途中ノイスが、お前の相棒なら向こうで見たぞと手がかりを教えてくれたから、向かう場所は決まって迷わない。もっともあの彼に限って、この状況で隊から離れるということは無いだろうから、何も無くとも探し当てることは出来ると思うのだけれど。
今夜自分が眠る予定の天幕。その周りに焚いた火からやや離れた、木の下。
「レオ!」
「? ……あ。エディ」
レオナルドは腰を下ろし、エディの声に顔を上げた。夜の色に染められた瞳がゆるみ、ふんわりと微笑んだことが、ひどく懐かしいことに思えたのは何故だろうか。
「どうしたんだ?」
「ん、いや。用事があるわけじゃ、……うわ!」
ぱっと笑って駆け寄ったエディは、レオナルドの隣でいきなり動いた黒い影に、無用心な声を上げた。見ればその影は狼の姿を保ったままのオルグで、どうやら彼は今まで、レオナルドの傍に寄り添っていたらしい。オルグはエディを一瞥すると、そのまま何も言わず
何か言ったのなら、逆に驚くが
この場から去ってしまった。その後姿に、ありがとうございました、とレオナルドは声を掛けたが、一体何だと言うのだろう。疑問は沸いたがエディはとりあえず、先ほどまでオルグが温めていた場所に腰を下ろす。
レオナルドの手元に視線を落とせば、そこには彼の弓がある。武装する為というわけでは無いことと重ねれば、彼がここで何をしていたのか、エディには簡単に想像がついた。
「弦の補強?」
「うん。今のうちにと思って。エディは?」
「おれはもう済ませた。
……それにしても、そんなに時間かけること無いんじゃねーのか?」
真面目だよな、と笑うエディに、こっちも今終わったところと言って、レオナルドははめたままだったらしい手袋を外し、小さく一息吐いた。左手で右手を軽く包み込んで守りながら、隣に座るエディに瞳を移して、首を傾げる。
「それで?」
「ん?」
「用事が無いなら、なに?」
「……何、ってわけでもねーよ。話がしたかった、っていうか……」
澄んだ空気が広がる世界。世界はこんなに広いのに、人は、今、この場所にしか存在しない、なんて。
あまり深く考えてはいないが、それでも漠然とした不安が消えなかった。
自然と足は誰かを探し、心は当たり前のように、たった一人を見つめて。
「あ……。……ごめん、」
「いや……」
ぱちぱちと、炎の中で薪が爆ぜる音を耳に留めながら、二人は口を噤んだ。
「……明日、か」
ふと届いた呟きに引かれて、エディは彷徨わせていた視線を隣に向けた。端整な横顔は夜空に上げられ、瞳は星の瞬きを追いかける。「明日」。考える間でも無い。言葉通りの、けれどけっしてその通りの意味だけには収まらない。
「ああ。やっとだな。明日が最後だ。……すっげえ、長かった」
「うん……」
デインの王都で起こしたたった一つの行動が、気づいたらこんなに長い旅路への出発点になっていた。世界の大きさを知らず、ただ、その日をどうにか越えることで精一杯だった、今となっては懐かしい日々。一瞬をなんとか生き延びる、という点に置いては今も全く変わりが無いが、状況がすっかり変わってしまった。どうして、自分達は、こうしてここにいるのだろう。
小さな溜息と共に返された頷き。自身の言葉まで頭の中で繰り返しながら、エディもレオナルドに倣って空を見上げた。静かになった世界を変わらず見下ろす星が、一面に散らばって、そこにいる。人には到底わかるはずもない、遥か遠い時間を抱きしめて。
そして、明日になれば。
人には絶対わかるはずもなかった、かみさまに対峙する。
「……」
「……レオナルド?」
視線を地面へ引き下ろした彼の浮かない顔が気になって、気づいたら名前を口にしていた。レオナルドは曖昧な返事をするだけで、特に何も言わなかったが、瞳が確かに揺れていた。
「……。」
エディはふと気づく。軽く包むだけだった手が、硬く握り締める、になっていること。
矢を番える右手が、ほんの僅かに、震えていることに。
「……明日、だ。本当に……、」
こんなことにならなければ、近づくことさえ無かっただろう、天まで届かんばかりに高く思える女神の塔。明日は、あの聖域に足を踏み入れるのだ。自分の足で、間違い無く。
「……怖いのか?」
「……エディは? 怖くないのか?」
レオナルドはエディを見ずに言う。自分の手を強く握り締めながら。その問い返しが、自分の問い掛けに対する答えなのだとエディは知っている。……ここにいる多くの者は、本当はただの民であり、自分達だって名づけられても、義賊がせいぜいだ。
以前、彼は言っていた。どうしてこんなことになったのだろう、と。考えてもどうしようもなく、結局は同じ言葉に回帰するのだともわかっている。エディはそれで納得がいくけれど、おそらくレオナルドは違うのだろう。彼は、事柄には自分が納得出来る理由がついていなければ、どうしても不安になる性質(たち)らしいから。
理由が欲しい。たった一つでいい。自分を支えていられるだけの。
真面目だな、と自分だけに聞こえる声で呟いて、エディは答えた。
「うん。怖くなくは、ないと思うけどさ。でも、明日で最後だし。
正の女神とかをぶっ飛ばせば、今度こそデインに帰れるんだろ?」
「……。……でも、ペレアス様は、もう」
「だけど、ベグニオンの駐屯兵はいないじゃないか。だから、今度は前とは違う」
言いながら、かたちが明確になっていく。決意したのは、戦ったのは、全て祖国で生きたかったからだ。ただそれだけだった。それだけの為に、逃げて、走って、戦って、生きて、生きて。
引かれるように、レオナルドは顔を上げる。エディの灰色の瞳が、真っ直ぐに見つめていた。レオナルドの揺れる瞳。その奥の、世界の大きさに揺れる心を。
「おれもおまえも、明日は、デインの平和を取り戻しに行くんだ」
「……」
「それなら大丈夫だろ。なんとかなる。
今までだって、ずっとそのために戦ってきたんだから」
それに。
エディは手を伸ばし、レオナルドの手を取った。成長途中で、傷だらけで、だけどとても綺麗な、そして頼り無い手だ。突然のことに驚いたのか、反射で引っ込めようとするのを無理矢理引き止めて、エディは、何かとても大切なものを守るように、硬く握り締めた。込められた体温にレオナルドは警戒した様子を収めたが、不思議そうな表情は変わらない。
祈る神様は、一度は人を滅ぼしかけた。そして明日は、こちらが滅ぼそうと言う。それでもどこか祈りに似た姿で、エディはレオナルドの手を引いて、額に寄せた。
「約束しただろ、おれとおまえは、ずっといっしょだ。
おれはどこにも行かないし、おまえもおれを置いていかない。
だから、絶対、大丈夫。
大丈夫だ、レオナルド」
「……エディ」
祈りと言うにはあまりにも乱暴で、誓いと言うにはあまりにも無謀だった。そんな約束は、どうにもならない事態に出会えば、あっさりと破られると知っている。自分達は絶対不変の伝説みたいな存在では無く、出来ることに限りのある、人だから。
それでも。
「……うん。そうだね」
エディがあんまり優しく笑うので、レオナルドはつられるように笑ってしまった。何の根拠も無い自信だけが満ちた、言葉でも。
エディが言えば、それを自分が信じれば、本当になるような、そんな気がした。
今は、このままでいいという、それを信じて。
「ごめん。……ありがとう、エディ」
「別に。おまえが笑うんだったら、何でもいいよ、おれ」
快活に笑ってみせて、エディはレオナルドの手を握り締めたまま急に立ち上がった。体勢を崩して地面に手をついたレオナルドは、慌てた様子でエディを呼び止める。
「ちょっと、エディ! 何、急に……」
「え? あ、ごめん。いや、ほら。明日も早いから、いっしょに寝よう、って」
「……えっ」
あまりにもさらりと言われてしまったが、聞き逃すわけにはいかない。
「い、一緒にって……」
「? 何だよ。今までだって、いっしょに寝てたろ?」
「……そ、そうだけど……」
補強を完了させた弓を空いた手の中にとりあえず収めてから、レオナルドはそっと辺りを見回した。デイン王国軍、グレイル傭兵団、クリミア王宮騎士団。ラグズ連合軍に、神使親衛隊、その他大勢。三隊に分かれていた時はそれ程気にしていなかったが、いざこうして一堂に介すると、相当な大人数である。
要するに、人目が気になる。つまりは、そういうことなのだが。
「何で。いいだろ、別に。
おれが見てないところで、おまえが寝てなかったら、困るし」
「……で、でも……!」
レオナルドの身体を引っ張り起こして、エディは歩き出す。頬を赤く染めながら、引かれるままに後ろを歩くレオナルドがどんな言い訳をしてみても、エディにはどうやら聞く気が無いらしく、一切届きはしなかった。
天幕から離れたところから、人々の暖かな光景を、満足そうな顔でニケが見ている。空には白銀色の星、そして淡い光を宿す月。最後の命の灯火が寄せられた、淋しい世界を抱いて。
ニケの傍らではラフィエルが、飛べない翼を広げて歌っていた。月の色に似たやわらかな声。遠い果てまで届くような、優しい歌を。
-END-
(07,03,12)
デインで平和に暮らせるなら、と、よりにもよってあの状況で言ったことは忘れません。