君はどこにも見えない

「……ッ、」
 しがみつかれた背中がキリ、と痛んだ。刺し傷に似たそれに、思わず肩を強張らせ、眉根を寄せる。その瞬間、狭まる視界のその下で、閉ざされていた瞳が僅かに見開かれ、シロックは首を傾げた。青と緑を混ぜた色彩が、薄明に満ちた部屋でも、奇妙なほどにあざやかだった。
 まともにぶつかり合った視線に不可解なものを感じた。呼吸を整えながら、シロックは上手く回らない頭で、それでもなんとか考える。幸いなことに、なんとか探り当てることができた  これは、怯えだ。親に叱られる子どものような、純粋な怯えだった。
 目の前の人は、怯えているのだ。では、一体、何に。
 答えが出ても、不可解であることに、なにひとつ変わりはなかった。
「リース、様……?」
「……あ……。……す、まな……」
「いえ……これくらいは、べつに」
 首に絡みついていた腕を外してやり、そっと手を取る。不恰好な肉刺のできた手の平、育ちの良さそうな長い指。背中を傷つけた欠けた爪に口づけすると、リースはぶるりと肩を震わせた。
「傷のひとつやふたつくらい、構いません」
「……だけど……、……っあ」
「リース様の方が、痛いのではと、思う……のですが」
 手首を掴み、シーツに縫いつけ、止めてしまった腰をゆっくりと揺り動かす。リースは自分と同じく男性であり、その体は当然、男を受け入れるようには出来ていない。内側から押し拡げられる苦痛に耐えるため、リースはせっかく開いた瞳を閉ざす。
 皺の寄った眉間や額に滲む汗を見れば、どれほど無理な行為なのかは一目瞭然だ。食い縛った歯の隙間から時折漏れる甘ったるい吐息と、二人の腹の間で昂ぶりを見せるリースの欲望にだけ、快楽が存在することを確かめることが出来ていた。
「あ、……っく、……う、あぁ……っ」
「……リース様……」
 呻くような喘ぎ声を耳に留める。肩を捩ったために瞼の上に落ちた金色の髪を、手のひらでそっとかき上げる。手触りの良いはずのそれは、今はしっとりと汗ばんでいた。戦闘後か、入浴の後でもなければ、こんなことにはならないはずだ。ありえないことが起きている。シロックの胸に、なにかが落ちて暗く翳る。
 痛くないはずがない。苦しくないはずがない。なのにリースは、こんな目に遭っている。受け入れている。他でもない自分に、傷つけられている。  そうだ。傷つけているのだ。たったひとりの主君を。リースを。
「……。リース様」
 なぜ自分は、この人を傷つけているのだろう。その答えは明快だ。
 命令されたからだ。目の前の、リース自身に。
「……リース様。リース様」
「……シロック……?」
 掴んだ手首を強く握り締める。飢えた心を、求める思いを振り払うように。カーテンの隙間から射す月の冷たい光が、見ないようにしていたリースの顔を照らす。
 目尻が赤いのを熱で誤魔化し、零れ落ちる透き通った粒を汗に紛れさせ、リースは泣いていた。
 痛みのせいなのか、それとももっと別の理由があるのか。知りたいことばかり、いつだって、シロックには確かめる術がなかった。
「……リース様。やっぱり、やめましょう、こんなこと」
「……」
「ご命令には、従います。願い事なら、聞いてさしあげたいです。……でも、こんな、あなたを、傷つけるなんて……。
 ……っ!?」
 拘束を振り解き、リースは突然手を伸ばした。両腕で強く抱きしめられ、同時にきつく、正直な欲望を締めつけられる。めまいがするほどの心地良さが、けっして抗えないもうひとつの本心だ。見透かされているようで、怖くなった。振り払ったものに、あっさりと捕まったことを思い知った。
「シロック。
 おまえは何も悪くない。だから、誰も痛くない。苦しくない。
 おまえは……、私の命令を聞いただけだから。だから……」
 熱っぽく囁かれ、背筋がぞっとするくらい、強烈なものが這い上がる。
 抗えないのは、リースのことを好きだからだ。痛くても、苦しくても。
「……だから、もっと。……今夜は、おまえに、好きにされたい……」
「……っ……!」
 湧いた衝動のまま、抱きしめ返した。首筋に噛みつき、腰を押さえつけ強く押し込めば、リースは待ち侘びたように短く声をあげた。想像以上に色めいた歓喜と悲鳴に動揺しても、もう止めることはできなかった。
 体を打ちつけ合う音が、皮膚から皮膚へ伝わる生々しい鼓動が、思考しようとする力を奪っていく。若い本能に任せて、シロックはただリースの命令をきいている。  こんなことを好む性質だとは思えない。現にリースは泣いている。痛がっているし、苦しんでいる。けれどシロックには、なにもわからない。思う人の心など、なにひとつ。
 だから、もっと。リースに強く、せめて快楽を与えるしかなかった。胸を暗く翳らせたなにかは内側にまで浸食して、もう善悪の判断をすることもゆるさない。
 リースを腕に抱くことに喜びを感じる自分に、嘘をつくことはできなかった。
「うっ……く、あ、……シロック、……シロ、ック……」
「……リース様……」
 しがみつかれた背中がキリ、と痛んだ。けれどもう顔には出ないし、リースの涙はきっと止まらない。
 目を逸らせば、想像上のすべてが現実だ。
 シロックはそうして、考えることをやめてしまった。


 吐き出された白濁が、リースの腹の上に淫らな曲線を描いた。目を細め、シロックまた深く息を吐き出す。
 崩れ落ちた体を受け止めたリースが、すまないと呟いたような気がしたが、やめると決めてしまっていたから、聞こえないふりをした。


なんかリースはこのことに関してはロクでもないことばかりなイメージ

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