無色憧憬

 草の匂いを嗅いだ気がした。それから、緩やかな風。
 自分の体には無い、草原を故郷とする者の血の色を、確かにそこに見たのだった。

「……」
 制圧した砦の一室で報告の取り纏めを行っていたリースは、遠くに馬の蹄の音を捉えて顔を上げた。簡素な作りの窓の向こう、夕闇に目を凝らしてみれば、そこにはこの地を南北に分断する川が流れており、更にその向こう側に、石と砂、やわらかい土の河原が広がっている。
 そして、その河原を西から東へ移動する、騎兵が一人。
 彼は痩せた馬を自分の脚のように操り、森へ向けて河原を駆け抜けてゆく。風のようだとリースは思った。足場の悪さなど感じさせない軽やかさは、彼が重い鎧をつけていないことを差し引いても、目を見張るものがあったのだ。
「見事なものだな……」
「……ああ、シロックですか?」
 思わず、呟いていた。
 ほんの独り言だったが、リースの声はその場に居合わせた者の耳に届いた。振り返り、四角い窓枠の外に注いでいた視線を部屋の扉の方へと向ける。待機していたエルバートが、先程までリースが見つめていたものを眺めているところだった。
「すまない。もうすぐ片付くから」
「いえ、お気になさらず。むしろ休憩なさった方が宜しいのでは? 慣れないことですし、なによりお疲れでしょう」
「私より、兵士たちの方が……。どのみち、早くナルヴィアへ帰らなければならないからな」
「ああ……そうでした。至らぬことを申しました」
 面倒なこともあったもので  彼にしては控えめな慰めを寄越したエルバートに苦笑を返し、リースは手元の紙をわざとらしく音をたてながら捲った。
 窓の向こう、件の騎兵は、森へ入ったのか、ここからでは確認できなくなっていた。待機させていた兵に伝令を、とシロックに命じたのは、他ならぬリース自身である。
「……父上が馬の名手であるし、騎士団は当然、騎馬を駆る者達が集まる軍だ。
 だから、そうそう驚くこともないと思っていたんだが……」
「シロックは、彼の一族の中でも、群を抜いて馬の扱いに長けるそうですよ。
 実際、リース様の仰るとおり、見事の一言に尽きますし」
「おまえが言うなら相当だな。……それも“身辺調査”の成果か?」
「ええ。まあ」
 僅かに残ったままの禍根は指先で軽く撫でるだけに留め、リースは手にした羽ペンで、各隊の成果やら被害やら何やらを簡潔に綴り始めた。欠けた爪を軸に引っかけてしまい、ほんの一瞬、痛みに眉を顰めた。
 エルバートは、まだ外の景色を眺めている。仕事の効率にかけてはウォードを遥かに凌ぐ彼がこんなところで手持ち無沙汰にしているのは、単にリースへの気遣いだ。よくわかっていたので、リースは何も言わずに黙々と自分のやるべきことを進めていた。
 開け放した窓から入り込む空気は、思いのほか冷たい。まるで草原の朝のようだ。
 リースはペンを走らせながら、ふと尋ねる。
「シロックは、どうだ?」
「そうですね。おおよそ、リース様への評価と同じと思います」
 答えは迷わず返ってきた。真意をはかりかねたリースは、思わず顔を上げ首を傾げる。エルバートは礼儀正しい笑みを唇に浮かべながら、なんでもないことのように続けた。
「今のままではまだまだ、使えるとは言えません。不慣れや緊張、気後れが原因です」
「……。そういうところがあるから、私は昔からおまえを信頼している。エルバート」
「もったいないお言葉です。
 ……ですが、時折、思いもよらない力を発揮する。確かに、潜在力を感じます。戦闘経験を重ね、先に述べた問題点が払拭されれば、良い騎士になるでしょう」
「…………」
「リース様のお力に、なると思いますよ」
 すらすらと述べて、エルバートは微笑む。リースはその顔をしばらく無言で見つめていたが、やがて溜息を吐いて視線を外した。
「どうかいたしましたか?」
「……いや、なんだろう。何と言えばいいのか……」
 止めてしまっていた手を動かす。インクで紡がれた損害状況を、改めて見直す。今回の任務は、山賊を討伐することだった。数の暴力に苦しめられはしたし、中には賊らしからぬ実力者も混ざっていたし、結果、負傷者は出たが、幸いなことに死亡者は出なかった。現状を改めて把握し、リースは安堵する。
 だが、それは運が良かっただけだ。今度は、もっと理不尽な戦いに赴くことになるかもしれない。今の戦力では、個々の能力では、自分の実力では、どうにもならないことがあるかもしれない。救いたいものすべてを、救えないかもしれない。
 戦いに犠牲はつきものだ。それはよくわかっている。しかしリースはなるべくなら、全員に生きてほしいと願っているのだった。心のままに。
 末尾に自らの名を綴る。ここでやるべきことは、これで本当にすべて終わった。
 立ち上がり、机の上を片付けながら、リースはエルバートに命じるために口を開いた。
「ウォードに、兵士たちに帰還の準備をさせるようにと伝えてくれ。それから、件の傭兵三名には、帰還の許可を」
「はっ、ただちに。傭兵達に、特別に伝言はおありですか?」
「後日、ナルヴィアで改めて面会したいと」
「かしこまりました。それでは行って参ります」
 エルバートは恭しく頭を下げると、踵を返し扉へ向かった。剣の柄と鎧がぶつかり、かちんと硬い音をたてるのを耳にする。何度も聞いた小さな音が、その瞬間、記憶の中の笑顔にさわった。
 先程のように。リースは、ぽつりと呟く。
「……。彼は、兵士には向いていないのでは、と思っていたんだ」
「は……?」
 ドアノブに手をかけた格好で、エルバートが振り向く。四角く切り取られた風景を、リースはじっと見つめている。薄暗い景色を風のように通り抜けた、あるひとりの姿を、脳裏に思い浮かべながら。
「性格のことを仰っているのでしたら、本人にも自覚があるのでは? だからこそシロックは、あれほど真面目に日々の訓練に励むのでしょう」
「うん。だから……私は、シロックに、悪いことをしたかと……」
「リース様。それは、我ら騎士の忠心への侮辱ではありませんか」
 責めるような色を佩いた、厳しい声が届いた。リースは肩を竦め、弾かれたように顔を上げる。幼いころ、黙って城を抜け出して、ずいぶんと叱られたことがある。あの時と同じ声だった。
 昔馴染みの騎士は、扉を開ける動作を途中で止めたまま、声とは裏腹に穏やかな眼差しをリースに向けていた。
「彼は、断ろうと思えば断れたはずです。普段は押しに弱いところが目立ちますが、土壇場では案外はっきりと物を言えるタイプのようですから」
「…………」
「リース様が彼と初めてお会いになったとき、彼はこの戦いの意味を訊ねた。リース様のお答えを聞いて、彼は今回の命を受けたのです。それで十分でしょう。
 信じると仰ったのですから、信じてやらないと、怒らせてしまいますよ」
「……。……そうだな……」
 子どもを諭すような物言いに、しかしリースは素直に頷いた。エルバートの方が正しいと、理解していたからだ。それでいて釈然としない胸の内も、きっとわかっているのだろう。そう考えたリースは、それ以上、何も言わなかった。
 草原を吹き抜ける風の自由を見た。懐かしさを感じるのは、彼が古い民の血筋だからなのだろう。
 そんなものを羨む思いの正体は、リースにはまだわからなかった。
「すまない、引き止めてしまった。行ってくれ。よろしく頼む」
「はい。……それにしても、貴方は相変わらずですね」
 紺藍の瞳が楽しげに細められる。不思議そうに見やるリースに、エルバートは気楽に告げた。
「現実的にものを見て冷静に判断をするのが得意で、しかし情に脆いところがある。
 そういうところ方ですから、私はこの命を賭けようと決めたんです」
「……。……もったいない話だ」
 扉を開け踏み出した騎士の背中に、リースはそんな言葉をかける。返事は無かった。命令を遂行する方が先だと判断したのだ。
 一人きりの部屋に、一人きりの沈黙が落ちた。
「…………」
 どんな思いも失ってしまっては意味がなく、どんな願いも、叶えたいと思うなら、自分が力を得るしかないのだ。目まぐるしく映りゆく歴史は、リースのことなどどうでもよいのだから。
 それでも、未完成で不完全な自分に、応えてくれる者がいるうちは。

 夜の風が窓から吹き込んだ。流れる川の匂いを含んだそれは、ゆるく癖のついた髪をかるくかすめただけで、リースの足を捕らえることはなかった。


シロックの話をするリースが書きたかった(だけ)

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