雨帳を隔てて
「……雨、でしょうか?」 「……え?」 ふと目を上げたシロックの呟きに、リースは首を傾げた。ティーカップを置き、暖炉の前を横切って窓際へと寄る。赤いカーテンをさらりと開くと、くもるガラス窓の向こうはとうに日も暮れて、ただ夜の暗がりが広がるばかりだった。 二重鍵を外し押し開くと、冬の冷たい空気が流れ込んだ。首筋をひやりと撫でる。そこでようやくリースにも、シロックがそんなことを口にした理由がわかった。 「あ……」 闇夜の中、途切れ途切れの小さな音をたてながら、雨が降り始めていた。彼の耳は、この音を捉えたのだ。 後に続いていたらしい、少し後ろに控えているシロックへと振り向いて、リースはずいぶん感心したように声をかけた。 「本当に、耳が良いんだな」 「必要だったので。特に雨は、降り始めるといろいろ厄介ですから」 助かることもたくさんあるのですが。シロックの懐かしそうな声に微笑みを浮かべ、リースは視線を窓の外へと戻した。色の無い粒が目の前を通り過ぎる瞬間、部屋のあかりを映し銀色の筋となる様を、じっと見つめる。 雨はまたたく間に土砂降りとなり、音は誰にでもわかるほど騒がしいものとなった。 「冷え込んできましたね。雪に、なるでしょうか……大丈夫ですか?」 問いかけに、ほんの少し目を見開く。刹那、吹き込んできた風に肩を震わせながら、リースはシロックが何を訊いているのかを理解した。 肩掛けを手前に引き、答える。いつもと大して変わらない格好の目の前の姿を、改めて見直しながら。 「ああ、大丈夫だ。私には、おまえの方が寒そうに見える」 「……そうですね、まあ、多少は」 「私を気遣ってくれるのと同じくらい、自分のことも言ってくれれば助かるんだが」 いたずらっぽく告げたリースに、シロックは何も言い返さず、笑おうとして失敗したぎこちない顔をするばかりだった。 インクで塗りつぶしたような黒い空を見上げる。この雨は、いつまで続くのだろう。少なくとも、一過性ではなさそうだが。 「リース様?」 「え……。……ああ、いや。確かに、寒いなと思って」 呼び声に、意識を引き戻された。鈍い金色の瞳がこちらを映し、揺れるのを見て、苦笑する。 吐息の白さに季節の廻りの速さを思いながら、リースは窓を閉じ、カーテンを引いた。 「ちょうど切らしたところだったし、お茶を淹れなおしてもらおうか。 少しは体も温まるだろう」 「あ……。……、はい、そう、ですね……」 「……? どうしたんだ?」 歯切れの悪い応え。リースは再び首を傾げる。シロックの遠慮や躊躇いはいつものことだ。それに対して半ば強制的に提示を望むのもまた、二人の間のいつもどおりだった。 「何かあるなら、構わないから言ってくれ」 「い、いえ。なんでもありません」 「私が聞きたい」 「……。……その……」 何か言いかけては止めるのを、穏やかに待つ。窓とカーテンを隔てれば、雨音はこんなに遠い。 「……人、が」 「人?」 「……リース様が、お風邪を召されるのは、困るのですが」 「うん。それは私も困るし、おまえがそうなるのも困る」 「それは……ありがとうございます。……いえ、あの。だから……」 「……?」 リースはますます不思議がる。何か訴えたいのはわかるが、リースにはどうしても、それが何なのかわからない。 うんと困った顔をしているシロックを、返事の代わりにじっと見つめる。 ずいぶんと長い間、そうしていたように感じたが。 「……。失礼します」 「え、……!」 短い断りの後、手を取られ、腕を引かれ、正面から抱きしめられたのは、ほんの一瞬の間の出来事だった。 「……シロック?」 思わず体が竦む。拒否ではなく、相変わらずの緊張に。それでも衣服越しの体温に、それらは緩やかに解けていく。おずおずと背中を抱きしめ返すと、雨に濡れた手がじんわりと温かかった。 シロックは、何も答えない。 リースはそのまま肩に頬を寄せた。時が過ぎるのを、彼の枷が解けるのを、じっと待ち続ける。 「……すみません」 「……なにがだ?」 雨の降り始めのような声だった。耳元の呻くような囁きをくすぐったがりながら問いかけると、いっそう強く抱きしめられる。シロックは、温かいのだ。触れられるたびに、触るたびに、そんなことを思っていた。 「本当は、こうしたかっただけかもしれません」 シロックが何を考えているのか、リースにはやはり見えない。だがこんなふうにしているのは、ひどく心地よかった。それを伝えても、今はなおさら困らせるだけだろうと、口を噤む。 せめて、と甘えるように笑った。シロックが疑問を返したが、リースは言葉には代えず、彼のように強く抱きしめて応えるのだった。
シロックはロマンチスト、リース様は夢の見方がわからない現実主義。 |