余暇時間マリゴールド
椅子に腰掛けこちらに背を向けているリースの頭に、シロックはそっと手を乗せた。触れるのはこれで何度目かになる。相変わらず、見た目どおりのやわらかい髪だ。少しくせがあるが、指にすくえばするりと落ちていくその滑らかさは、外向きにはねた自分の硬い髪とは、まったく違うもののように見えた。 こっそりと、溜息をひとつ。 手慰みのように髪をやんわりと撫でながら、渡された櫛に視線を向ける。あからさまに豪華では無いが、手の込んだ一品、という雰囲気だ。表面に彫られた美しい模様はシノンのものではないので、おそらくはリースのために、誰かがこちらで用意したものなのだろうと考える。気の利きそうなやり手の秘書か、身だしなみに敏感そうなナルヴィア公子か、あるいは洒落者のエルバートか 「……くすぐったい」 「えっ。……あ……」 考え事、もっと言えば現実逃避に差し掛かりそうになった瞬間。そんなシロックを引き止める声が、リースの唇から訴えの形となって届いた。 「も、申し訳ありません……!」 「うん。それは構わないが……」 慌てて手を離し謝罪すると、リースは肩を竦めて振り向いた。青と緑を混ぜた不思議な色合いの瞳が、シロックを穏やかな眼差しで見つめる。 「髪を梳くだけなのに、ずいぶん気が進まないようだな」 「……」 「騎士のおまえにこんなことを頼むのは、悪いと思ってはいるのだが」 「あ、いえ、それは……。そんなことは、それこそ構わないのですが」 「……そうか? ……」 自分の顎に指をかけ、リースは何事か思いを巡らせる素振りを見せる。 そして、 「どこかに引っ掛けても、そんなことで死刑にしたりしないぞ」 なんだか恐ろしいことをさらりと告げたリースはいつもの無表情だが、それが余計に怖かった。 「……リース様は、そのようなことをお考えになるのですか?」 「いや。冗談だ」 「……。リース様のご冗談は、心臓に悪いです」 「よく言われるよ」 それだけ言い終わったリースが前に向き直ったのを見計らって、シロックは再び溜息をついた。案外、かるいところがあるものである。本人は至って真面目なのだが 目にかかったのか、リースは長い前髪を手で除けて、口を開いた。 「では、何をそんなにためらうんだ?」 「……や、やります。 ……一応申し上げますが、嫌……なわけではありません。 ただ……」 肩を片手で支えて、やわらかな髪に櫛を入れる。細心の注意を払いながら、できるだけ丁寧に梳いていく。同じ金の色彩でも、リースのそれは自分のものより僅かに明るく、どこか高級そうに見える。育ちの良さとはこういうところにも現れるものなのかと、シロックはひそかに思った。 そして、そんな人の傍に、こんなに近くに、自分がいる。 本来ならけっして触れられないものに触れることをゆるされるのは、けっしてたやすく受け入れられることではなかった。 「……好きな方に触れるのに……、まだ、緊張するだけです」 「……」 なんとかそう告げたシロックは、仕事に集中することにした。梳いたところから、心なしか淡い輝きが増すようだ。姫君の髪を梳く侍女は、このようなことを楽しみにするのだろうか。あてのないことを考える余裕がほんの少し生まれていた、その時だった。 櫛を持ち替えようとしたシロックの手を、リースがそっと握り締めてきたのだ。 「! リース様?」 「……。本当だ」 「な、何がですか? あの、申し訳ありません、なにか失礼を……」 「いや……おまえの言った通りだなと思って」 シロックの勘違いを遮って、リースは握り締めた手を引き寄せる。前を向いているため表情が見えないが、これは笑っているのだと、ささやかな変化を空気で感じた。 「好きな者に触れるのに、緊張するんだ……と言っただろう? ……確かにそうだな。なんだか、落ち着かない」 「……え……」 「でも、安心するよ。……シロックの手は、私よりあたたかいんだな」 引き寄せた手を頬に押し当てそんなことを呟いたリースに、シロックの思考が体ごと強張る。穏やかな吐息が、肌を撫でる。指先が唇に触れてしまいそうで、緊張はなおさらひどくなった。 「おまえも、同じだといいんだが」 「……リース様……」 再び振り向いたリースは、照れ隠しのような微笑みを浮かべていた。隠すこともできないシロックは、情けなくなるほど顔を熱く、赤くする。 どうしてこの人は、こうなんだろう。素直ゆえの無防備が、嬉しいのに恨めしい。 やはりためらいながら両腕を伸ばし、リースを後ろから抱きしめる。 「同じです。……ですから、ご安心ください」 「そうか。良かった」 腕の中、嬉しそうに肩を揺らす様子にこの上ない幸福感を覚えながら、シロックはリースの髪に、そっとくちづけた。
くしの日(9月4日)にこんな妄想をしていました。 |