眠りの人
昼食の後の散歩を終えたシロックは、うんと満足して館へと帰ってきた。暖かい、良い天気なのだ。秋から冬に差しかかり寒さも厳しくなってきた今日この頃、そんな中おとずれた好天は戦で疲れた体を休めるにはちょうど良く、なにより嬉しい恵みであった。門前に立つ衛兵も同様のようで、通るために挨拶をすると、ずいぶん朗らかな笑みが返ってきた。 陽のあたたかさの余韻に浸りながら廊下を歩く。歩きながらシロックはふと、館の中にも太陽の恩恵をめいっぱい受けられる場所があるのを思い出した。この館を構成する二つの棟、それらを二階で繋ぐ広い通路のほぼ真ん中、そこにあるちょっとした空間がそれに当たり、南側が全面ガラス張りになっているのだ。ついでに、テーブル一つにソファーが三つ設えられているという気遣いぶりである。元の主人や住人達も、こんな日はあの場所で憩いの時を過ごしたのだろう リースはその場所を誰でも自由に使っていいと言っており、シロックも実際に空いた時間をそこで過ごしたことがある。居心地の良いところだ。こんな日和であれば、何をするにも向いていることだろう。とりあえず行ってみようと、シロックは奥に見える階段に歩を進めた。 時刻は昼下がり。人が出払っている時間帯であるらしく、中は閑散としており誰ともすれ違わなかった。階段を上りきり、通路の方へ視線を向ける。 予想通りだ。そこは相変わらず室内だとは思えないほどの光に満ちており、シロックはそれだけで心が躍った。物音が聞こえないので、おそらく誰もいないのだろう。来て正解だった、昼寝でも出来るかもしれない。そんなことを考えながら、ぬくもりに導かれるように辿り着く。 そして。 「…………え?」 そこにあった光景に、シロックは思わず目をまるくした。 ガラス窓、差し込む光。ロー・テーブルと、その三面を囲うように配置されたソファーが三つ。そのうちの一つ、シロックから見て右手側にある、手触りの良い赤茶色の布が張られたもの。 そこには、先客がいた。 「リ、リース様!? ……、っと……」 驚きのあまり思わず声を上げてしまった口を押さえ、シロックは辺りを見回した。しかし、やはり誰もいない。足音をたてないよう気をつけながらそっと近づいてみると、かすかな寝息が聞こえてきた。死んでいるわけではない 若干落ち着いたシロックは、ふと足元に何かが落ちていることに気づいた。淡い青紫色のマントと、アイビー・グリーンの表紙の本が一冊。両方とも拾い上げ、緋色の胴着姿のリースに視線を向ける。差し込む、あたたかな陽の光。 ようするに、リースも同じだったのだろう。この陽気につられてここを読書の場所に選び、そしていつの間にか眠りに落ちてしまった さて。それがわかったところで、である。 「……これは、どうすればいいんだ?」 シロックは正直な気持ちをひとり呟いた。いくら公共の場であるとはいえ、主人の眠っているところに居続けるのは部下としての礼を欠いているように思える。かといって、すっかり熟睡してしまっているリースを一人きりにするのも、それはそれで問題だろう。 この場合、どちらが正しいのだろうか。シロックにはわからない。 昼下がりの気温は、思いがけない二人きりの空間を春めいた色で染めてゆく。絶好の昼寝日和、なのだ。気の緩みなどそうそう見せないリースが、こんなところで眠気に負けてしまうほどに。 とりあえずシロックは、手の中にある落し物をどうにかしてしまうのが先だろうと結論づけた。本はテーブルに置いておき、たっぷりとしたマントを丁寧に広げる。いつも思っているが、どう見ても裾が余っており、リースの背丈には合っていない。邪魔にならないのだろうかと疑問に感じつつ、それを注意深くリースの肩にかけた。 かけたまでは、良かったのだが。 「…………。…………」 シロックは唐突に、リースの現在の体勢が気になってしまった。ソファーの端に腰掛け、肘掛けの上で両腕を組み、そこに頭を乗せて寝ている。それでは起きたとき体が痛くなるだろうと思ったのだ。何を隠そうシロック自身もまったく同じことをやらかし、うんと後悔した経験がある。 このあたたかさに惹かれてきたのだろうから、部屋に戻れと言う気は無い。どうせソファーで眠るなら、しっかり横になった方が楽だろう。それだけだ。 シロックは、しばし考える。そして。 「……、……失礼、します……」 それは本人に言ったものなのか、それとも女神に祈ったものだったのか。短い断りを入れて、シロックはうんと躊躇いながら手を伸ばした。左腕を背中から肩へ、右腕を両膝の裏へそれぞれ回し、慎重に抱き上げる。身長も体格もそれほど変わらないため容易では無いし、意識の無い人間は重い。想像以上にしっかり抱くことになってしまった体は、陽の光と元の体温とでひどく温かかった。手放すのが、惜しくなってしまうくらいに。 穏やかな寝顔を間近に見下ろす。いつもは大人びた印象だが、こんなときはやはり年相応だ。なにか夢でも見ているのか、意味を成さない小さな声をたてられ、ほんの一瞬、なにやら良からぬ発想が胸をかすめた。 「……っ、……何を、考えて、いるんだ。俺は……」 雑念を打ち払うように首を振り、深い溜息を吐く。 ソファーに沿い仰向けに寝かせ、マントをかけ直すころには、シロックはなんだかやたらと疲れてしまっていた。 リースは、一向に目を覚まさない。 「……お疲れ、なんだろうな……」 曇り空のように、シロックの心が翳る。どんな現実を目にしても己の誇りを掲げ続け使命を果たそうとするリースは立派だ。そんな姿に忠誠を誓ったのである。しかし、あまりに現在の状況は、この肩には重すぎやしないかと思うところがあった。代われるものなら代わりたい。目の前の人が相変わらず、代わるどころか分け合うことさえ望まないのも、十二分に理解していても。 このままではいつか、リースの心が潰されてしまうのではないか。シロックは、いつだって心配だった。 「……リース様」 呻くように呟く。左腕を支えにして、顔を真上から覗き込む。目元にかかる長い前髪、落ちる影が眠りの安らぎを妨げているように思え、そしてそれがどうしても許せず、シロックはそれを静かに払った。指がまぶたを掠める。リースの寝息を手首に感じる。まずい、と制御する声が頭の中で聞こえたが、どうしようもない衝動が勝(まさ)った。ソファーが軋む音も、もう青年には届かなかった。 やわらかな光をはじく髪を撫で、ほんの少し日に焼けた肌を、かたちの良い輪郭を指でたどる。くすぐったいのか、僅かに身を捩るしぐさが、なおさら青年を煽る。 軍を率いる指揮官であることが不思議に思えるほど、今のリースは穏やかだった。胸が、痛くなるほどに。 「……リース様。……俺は 喉の凹凸を確かめ、小さな頭を抱える。望むまま近づき、額が合わさりそうになった、 「……!」 「うわっ……!?」 突然、目の前の瞳がぽっかりと開いた。草原の緑と空の青、どちらでもなくどちらをも思い起こさせる、不思議な色合い。反射的に体を引いたが、勢い良く手首を捕らえられたために完全に逃げることはできなかった。リースの体にかけていたマントが、ぱさりと音をたてて落ちる。 逃げる。そう、逃げなければいけなかった。シロックの思考が、精神が、急に現実へと引き戻される。 「…………」 「…………」 先程まで寝ていたとは思えないほど目を大きく見開いて、リースはシロックを見つめている。普段の距離を考えればあまりに近い位置、強く掴まれた手首の僅かな痛みに、シロックは一瞬で血の気が引いた。 主君に、許可無く触れていた。というか、完全に寝込みを襲っていた。はっきり認識すると、こんなにあたたかな陽の光の中にいるのになぜだか寒気がしてきて、シロックはただ硬直するしかなかった。後悔しても、もう遅い。 長い睫毛が揺れる。ゆっくりと二回まばたきをした後で、リースはようやく口を開いた。 「……シロック……?」 「……は、はい……」 「……………………」 「……。……あ、あの、リース様。違うんです、これは……」 まったく違うところは無いのだが、弁明せずにはいられなかった。確かに悪いことをしたのだが、悪気は無かったのである。たぶん。 空いている手で口元を押さえ、あくびを噛み殺すしぐさを眺める。眠たげな眼を擦って、一言。 「……なんだ、おまえだったのか。……じゃあ、いい……」 「…………は?」 ただそれだけを呟いて。 リースは再び、瞳を閉じてしまった。 「……え、あの、リース……様?」 「…………」 「え、寝てしまわれるんですか!? あ、いえ、それはよろしいのですが、あの、手を……」 慌てた様子のシロックが何を言ってもリースは聞く耳を持たず、あっという間に夢の世界の住人となってしまった。静かな寝息に合わせて上下する胸。その傍に、シロックの手を掴んで引き寄せたままで。 「……………………」 これはどういうことなのだろう。例によってリースの考えていることがわからないシロックは、寝顔を見下ろし戸惑うばかりだった。目の前の人は、実に気持ち良さそうに眠っている。それは良いのだが、ここは誰もが通る可能性のある場所である。ああ、誰かに見つかったらどうしよう 捕まった手のひらに、リースの鼓動を感じる。自分の脈より、ほんの少し遅い。人をまどろみの淵に誘う、凶悪なほどに優しくあたたかい、光の中。 「……これは……。 ……ここにいろ、ってことで、いいのか……?」 現実世界にひとり取り残されたシロックは、頬を赤くしながら、ためらうように吐き出すのだった。
リース様はやたら寝ていそうなイメージがあります。 |