岸を離れる日

 ずいぶんと大きくなられたものだ。円テーブルを挟んで向こう側につき、手の中のワイングラスを手持ち無沙汰に傾けている少年にちらりと視線を向け、エルバートはふと考えた。剣の稽古相手にと引き合わされた時、自分はまだ従騎士で、目の前のその人はまだ年端のいかない子どもだったし、背もうんと低かった。あの頃はまさかこうして、二人きりで酒を飲み交わす日が来ようなどとは思わなかったが。
 否。
 そこまで遡って、エルバートははたと我に返った。よく考えなくても、そんな日が来てはいけないはずである。しかも現在地は、城下町の酒場だ。マスターの人が好いことで有名だが、しょっちゅう揉め事が起こることでも有名な、そんなところにこの人を連れたままだとわかれば、実質少年の守り役であり、自分の上官である老隊長にどんな目に遭わされるか  
「……エルバート? どうしたんだ、そんな顔をして」
 なんだか薄ら寒くなってしまったが、エルバートの現実は容赦なく、すぐそこで首をかしげてこちらを不思議そうに見つめてくる。
 観念するしかなかった。葡萄酒を置き、小さく溜め息をつく。
「……あまり驚かせないでください、リース様。
 どうしたのかと思いましたよ。こんな場所にお一人で来られるなんて」
「お前だって、そうだろう? 自分で用意することが多いのに、珍しい」
 やっとの思いで吐露すると、エルバートの若き主君  リースは、何の悪びれもなくそう言った。昔から、基本的には大人しいのだが、己の主張したいことはきちんと主張する性質である。特にウォードとエルバートに対しては、その傾向が顕著に現れた。
 つまり、気心が知れているのだ。だからエルバートも、自分の性格の通り、リースの望む通りに、言いたいことを言う。
「それは、確かにその通りですが……。
 私は良いんです。ここに一人でいても、それほどおかしなことではありませんからね」
「私がここに一人でいるのは、おかしなことか?」
「ええ。しかも、危険です。……間違っても、お一人ではいられませんよう」
「お前を探していたんだ。お前がいなければ、すぐに出ていくつもりだった」
 リースはグラスに口をつけ、ほんの少しだけ中身を含んだ。それではおそらく、唇を湿らす程度にしかならないだろう。すぐに卓の上に戻されてしまったそれを見て、そういえばそうだった、と思い至る。
「お酒は、あまり召し上がらないのでは? お得意ではなかったでしょう」
「父上は、嗜む程度にしておけと仰られたな。すぐ赤くなるから危ないと」
「……。それはまた、危険ですね」
「そういうものか」
 あっさりと頷いたが、おそらくエルバートが言外に含めた意味は半分も伝わっていないのだろう。それならそれで傍にいればいいのだし、この場合、それが最も重要な役目である。
 持ち前の思いきりの良さを発揮して、エルバートは本題に切り込んだ。
「それで、リース様。ご用件とは何でしょう?」
「ああ。……」
 ブルーグリーンの瞳で、リースはエルバートを見上げてくる。いつも通りの、淡い表情のまま。
「頭を、撫でてほしいと思って」
「リース様。ここより少し南に、良い医者がおりますが」
「私は真面目だ」
 それは本当だろう。リースは冗談の類をほとんど口にしない。本人の言うとおり、真面目なのだ。良くも悪くも。と、理解していても、エルバートにはやはり信じられなかった。正確には、信じたくなかった、という方が正しい。
 あまりにも突飛な“ご用件”に頭痛の気配を感じながら、エルバートは再度、訊ねる。
「それは失礼いたしました。ならば、理由をお聞かせ願えますか?」
「……。……確かめたいことが、あって……」
「確かめたいこと?」
 怪訝そうに問い返すと、リースは僅かに逡巡するような素振りを見せた後、ふい、と視線を逸らしてしまった。
 珍しい、と思う。育ちの良さを感じさせる穏やかな直視は、彼の身にすっかり染みついているものだと認識していたからだ。妙に歯切れの悪い物言いも、らしくない。
 普段通りでいられない何かがあったということだろうか。少年の心に。少なくともエルバートにとって、リースという人は、余程のことでも無い限り、こんなにわかりやすく感情を露わにはしないものである。
「お前は昔、よく私の頭を撫でていただろう? だったら……」
「あの頃は、貴方も私もそういうことが許される年齢でしたからね。
 あれからお互い、どれくらい歳をとったとお思いなんです」
「エルバート。
 ……私は、お前には、あまり命令はしたくないのだが……」
「…………。」
 ぼそ、と呟かれた内容は、おっとりした口調とは裏腹に、物騒極まりなかった。
 それを言われては、降参する以外、現実的な対応手段は何も無い。エルバートは、これみよがしに大きな溜息をついてみせる。不本意を見せつけたところで、リースはいまさら発言を撤回したりはしないだろう。効果は無いが、ちょっとした意趣返しだ。
「……まったく。いつの間にそんな知恵をつけられたんです」
「何年もかけて、お前が教えてくれたような覚えがあるが?」
「……。隊長に何か言われたら、庇ってくださるんですよね」
「お前が望むなら、そうしよう」
 先程感じた頭痛の気配は、はっきりと頭痛になり始めていたが、やはりどうしようもなかった。
 仕方なく、エルバートは辺りを見渡す。現在は比較的、客が少ないように思えた。一人はこちらに背を向けており、テーブルを囲んでいる三人は話に夢中で、主人はカウンターの二人と熱心になにか語っている。
 事実上の命令なのだから、本来なら気にすることはないはずだ。それでも、可能な限り、誰かに見られるようなことは避けたい。ほぼ、気分の問題である。入口近く、店内の隅のテーブルにつき、リースを壁際の椅子に座らせたのは、とりあえずリースを目立たせず、何があっても守れるように、つまり己の任務に忠実だっただけなのだが、こんなことで幸いするとは思わなかった。
 グラスの中の艶やかな赤が、照明の光をはじく。テーブルに手をついて立ち上がると、面(おもて)が一瞬、揺らいだ。
 リースは、エルバートを黙って見つめている。
「……。目を閉じていただけませんか?」
「……。それもそうか」
 大人しく目を伏せた若き主君の顔を、エルバートはほんの少し、眺めてみる。知り合ってから、もう十年余りになるだろうか。幼さが僅かに残る素直な輪郭や引き締まった唇から、今は亡きシノン公爵夫人の面差しを、おぼろげに思い出した。
「…………」
 許されないはずだ。こんなふうに、触れることは。長い時を共に過ごした、小さな主。
 そっと、手を伸ばす。

 指に絡んだ髪は、多少傷んではいたが、遠い記憶のそれと変わらず、やわらかかった。

「……ずいぶんとご不満そうですね。リース様」
「……そういうつもりじゃない」
 “ご用件”を終え再び席に着くと、その人はひどく困ったような表情で答えた。まただ。本人は無自覚なのだろうが、リースはまた視線を逸らしている。どうやら余程、想定外の事態にあるらしい。戦場にあってすら、冷静に物事を見、筋道立てて思考できる少年が、どんなことがあればそんな状態に陥るのか。
 ここ一か月ほどの出来事をいくつか思い出して、エルバートはようやく憶測を立てることができた。
「では、先程の続きをお聞かせいただいても宜しいですか。
 なにがあれば、わざわざ私にこんなことを頼むのですか?」
「……。……この間……」
 わざわざ探しに来たくらいだ、きっと最初から話す気ではいたのだろう。素直に口を開いたリースに、エルバートは安堵する。ここで拒まれたら、後は放っておくことしかできなかったからだ。昔ならいざ知らず、リースはもう、小さな子どもではないのだから。
 リースは手のひらで、軽く肩を押さえる。優雅という言葉がよく似合うしぐさが、その時だけ妙にぎこちなく見えた。
「その……。ここを、さわられて」
「それはまた、ずいぶん大胆な不届き者に遭いましたね」
「……。私が躓いて、それを助けてくれた者がいたんだ」
「そうでしたか。それはそれで、リース様らしくもない」
「……。……本当に、ただ、……それだけなんだが……」
 冗談めいた物言いは、単にエルバートの性格だ。それを知っていながらあえて非難を向けていたリースの瞳は、自らの話の進行に合わせ、だんだんと色合いを変えていく。およそ、戸惑い、と呼ばれるそれは、確かに覚えのあるもの。
 憶測は、どうやら当たったようだ。
「それから、ずいぶん気になるんだ。
 私は人にさわられるようなことが無いから、気になるのかと思っていたんだが……。
 それだけではないような、気がして……」
「それで、わざわざ確かめるのも、実に貴方らしいことですね。
 しかし、その先を私に訊ねようとするのは、いただけません」
 ぴくん、と肩がはねる。触れていた指が、きつく結ばれる。ひどく動揺し、ためらう様子を、ただ、見つめる。
「他人に訊くようなことでないことは、おわかりでしょう?」
「…………」
 意地の悪いことを言うと、エルバートは我ながら思う。返事は無かった。押し黙るリースの握り締めた手に、うんと力が込められているのに気づき、微笑む。
 話は、そこで途切れた。
 酒場の喧騒が耳につくほど、二人の間に沈黙が落ちる。何事か考えているのはわかったし、エルバートからこれ以上、リースに言うことは特に無い。だからこれは、リース主体の沈黙だ。それをよく承知していたから、気楽に構えていた。
 手元で遊ばせていたグラスの中身を空ける。周囲を見ると、夜はこれからということか、先程より客が増えつつあった。
 そろそろ出た方が良いか  そう考え始めたころ。
「……エルバートは、意地悪だ」
 リースがようやく、硬く閉ざしていた唇を開いた。
「これでも私は、貴方のことを考えて申し上げているつもりですが」
「知っている。だから、意地が悪いと言うんだろう……」
 わざと大真面目な調子で言うと、リースは珍しく人前で溜息を吐いてみせた。意趣返しの意趣返し、だろうか。次の言葉を窺っていると、目の前の人は長い前髪を軽く払って、卓に放置されていた自身のグラスを手に取った。
 まだ半分以上残っていた白ワインを、一気に喉の奥に流し込む。一瞬、顔を顰めたのは、エルバートの気のせいではないはずだ。リースは酒に強くはないし、積極的に好んでもいるわけでもない。
「リース様?」
「……、……何も、起きなければいいと、思っているんだ」
 ことんと小さく音をたて、空になったグラスが戻される。時を同じくして呟かれた、心の囁き声。一度で意図の全ては汲めず、エルバートは眉を顰めてリースを見る。彼は首をほんの少し傾け、顔も僅かに下へ向けていた。考えごとをするときの、昔からの癖だ。本人が気づいているのかどうか、エルバートは知らなかった。
「……誰が何と言っても、私はベルウィック同盟の一員で、シノン軍の指揮官だから」
「…………」
「今は、それしか……。
 だから私は、この戦争が終わるまで、今の私以外の何者にもなるわけにはいかない。
 彼は気遣ってくれたが、それは私が、私の役目を果たせると信じているからだろう」
 観察していて、頬が赤いことに気づく。普段より饒舌である様子からしても、酒が回ってきたのだろう。不器用だ、と、形にはせず、自らの胸の中に留める。
 リースは静かに心の内を吐き出す。長い時間をかけて考えられた言葉が、ゆっくりと紡がれる。こんなに長く少年の感情を聞かされるのははじめてかもしれないと、エルバートはふと思った。こんなに長く、共にあるのに。
「知らないものに触れていると、自分が変わりそうで怖いんだ。
 ……けれど、彼の近くにはいたい、と思う。
 私を思ってくれるのが……なぜだか、とても嬉しかったから」
 想いは続く。リースは一人、話し続ける。この喧騒の中、たったひとつを、遠い昔に置き去りして。
「それで私は充分だ。だから、このまま……何も起きなくて良い」
 それは、自分の役目に自分を捧げた少年の、実にささやかな望みだった。もっと多くを望んでも良いのだと思うが、どうしても言うことは出来なかった。彼の願いはそこにはないし、そして、なによりも  
「エルバート。……きっと、これが恋なんだろう。
 何も望まなくても、何も望めなくても    
 リースは顔を上げ、エルバートだけに向けて、やわらかく笑う。
 子どものころ、会いに行くたびにその顔を向けられた。なつかれていることを、気心が知れていることを、他より近い距離にあることを、きちんと承知していた。戻らない思い出をいくつも脳裏に浮かべながら、考える。どうにかしようと思えば、いくらだってどうにかできたはずだ。
 それ以上を望まなかったのは、べつのものを望んだのは、間違いなく自分だったのだ。手に残る、やわらかな髪の感触。
 懐かしく、そして眩いものを眺めるように目を細め、エルバートはリースの声を聞く。
「私は、彼を、想っていても良いのかな」
 そう言ってはにかむリースは、幸せそうに見えた。手触りのない、不確かなものだけれど。
「……ええ。もちろんです」
 何事も、ただ、己の若き主君のために。
 自分の誓いと、それに背く本心のほんの一部とを胸に抱えながら、エルバートは口を開く。楽しそうなリースの微笑みに、偽りのない喜びを感じながら。
「恋に決まりごとなど何もありませんし、どんな形だって取れるのですから」
 こんなふうに。
 その一言だけは、エルバートはけっして言葉にしなかった。




「……エルバートは、私の兄のようなものだから」
 そういえば、今日の月は三日月だった。館へ帰る道の途中、ぽたりと零れたリースの呟きを、エルバートは拾う。辺りには人の気配もなく、姿も見えない。巡回の兵士はもう通り過ぎた後なのだろうかと、頭の片隅で意味も無く考えた。
「だから、本当は聞いてほしかったんだ。……試すようなことをして、すまなかった」
「何を今更。構いません、私は、貴方の騎士ですからね。
 ……それにしても、兄、ですか」
 それはどうしてなかなか三文小説のようだと、趣味ではないが自虐してみる。案の定意味は伝わらず、リースは首を傾げるだけだ。
「エルバート?」
「いえ。なんでも」
 定型通りの誤魔化し方だが、それだけに納得させられたようだ。そうか、と短く答え、リースは前を向いた。視線を周囲に向けながら歩くのは、警戒の意味だけではなく、観察の意味もあることを、エルバートは知っている。故郷のシノンに比べると、ナルヴィアは大きな街だ。まだまだ興味が尽きることはないのだろう。僅かに覗く子どもっぽさに、不思議なほど安堵した。
「兄のようなものだと、思っていたから……」
「……?」
 終わったはずの話を再び振られ、今度はエルバートが首を傾げる番だった。幼い表情でいたずらっぽく微笑み、リースはさらりと告げる。
「私は、エルバートに撫でられるのが、好きだったよ。
 あの時だけは、甘やかされているみたいで、嬉しかった」
「……そうですか」
 なんだか、遠い話のように思えた。自分の傍にいたものが、うんと遠くに向けて歩き出したのだと、ひどく実感する。
 幸せなことだ。それでもこうして、今でも側にあるのだから。
 しかし。しかし、である。
「リース様」
「うん?」
 こういうところが“意地が悪い”と言われる所以なのだろうと自分でつくづく思いながら、エルバートはこちらを見上げるリースの耳にそっと唇を寄せた。
 仕返しをしたいと思うのは、人の性というものだろう。
 ヴェリア女神に謝罪しながら、小声で囁いてみる。実に楽しそうに、興味深そうに。
「シロックですか?」
「…………。な……」
 ぴたりと歩みを止めた。勢い良く振り向いたリースの顔に、エルバートは、仕掛けた側ながら驚いてしまった。
 大きく見開かれた瞳も、虚を衝かれ開けっ放しの唇も、真っ赤な頬も。ここまでわかりやすいものは、見たことがなかったからだ。
「なん……で……」
 取り乱すことがないのだけは、流石の育ちの良さ、ということなのか。失礼だと思いながらも、エルバートはどうしても笑いを堪えることが出来なかった。
「貴方の兄、ですからね。わからないことなどありませんよ。
 それにしても……貴方でも、そんなお顔をなさるのですね」
「……悪いか?」
「いいえ。良いことだと思いますよ」
 リースは顔を逸らし、不機嫌そうに俯いてしまっている。そんな様子がますますおかしくて、ついには声をたてて笑い出してしまった。
 空には、三日月が浮かんでいる。弓のように見えたのは、最後の心残りだったのだろうか。
 それでも、すべてはリースのためにあればいい。
 エルバートの心は既に、迷うことはなかった。
「お顔が赤いですよ。リース様」
「……。……酔っているだけだ」
「今度は、もっとゆっくり飲みましょうか。
 貴方も私も、もう大人なんですから」
 賢い反論を返したリースの頭を、エルバートは撫でてやった。指に絡んだ髪も、手のひらに馴染む感触も、それだけは変わらずやわらかいままだった。


エルバートは、リース様が小さい頃からつきあいがあるんだろうという夢を見ています。
そのわりにこんなことになってますが……。

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