ワンモアステップ

 その瞳は、草原の緑と空の青の、どちらも思い起こさせる不思議な色合いだ。それがなにかを映すたび、引き締まったり、ゆるんだり、揺れたりするのが好きだった。
 近くにそれを見ながら、シロックは、そんなことを考え続けていた。他にすることがないからである。現在地は、先日の戦闘で重傷を負い、シスターに絶対安静を命じられたリースの私室。詳しくは、寝台の側に寄せられた椅子。そして目の前には、腹部から下に毛布をかけ、上体を起こした格好で読書を続けるリースの姿がある。
 ぱら、と紙のめくれる音がする。古い、書物の匂い。
 本来ならば、どんなに望んでも、こんなところに居座っていていいはずがない。それがこうして叶っているのは、これがリースの望みでもあったからだ。もしお前が良いなら、今日は傍にいてくれないか   断るはずがなかった。今朝それを伝えにきたエルバートには、その理由もなにもかもお見通しだったようで、若干気恥ずかしくはあったのだが。
「……シロック、よかったのか?」
「……え?」
 急に問いかけられ、シロックは反応が遅れてしまった。読みかけの本を腿の上に載せ、リースはたおやかに首を傾げている。
「他に予定はなかったのかと思ったんだが」
「ああ……ええ、今日はこれといって。
 リース様のお見舞いに来られれば、と思っていました」
「そうか。なら、私は運が良かったのだな」
 リースは目を細め、穏やかに微笑む。綺麗だ、とシロックは思った。以前までは無表情である印象ばかりが強かったが、傍にいるとこんなにたくさんの感情が見える。
 恋人同士、か。
 あの時のリースの言葉を何度頭の中で繰り返しても、シロックには未だに信じられない思いがあった。事実は小説より、とはよく言ったものだと、改めて実感する。
「リース様の方こそ、意外でした。
 寝床を抜け出して、お仕事をなさるくらいはしていると思っていたので」
「そうしたかったんだが、ティアンナに取り上げられてしまったんだ」
「はは……、それは、敵いませんね」
「三日も眠りっぱなしだったんだから、少しでもやってしまわないと、と言ったのに」
 溜息をついて肩を竦めるリースは、まるで子どものようだ。やり手の秘書も、この姿には絆されそうになったに違いない。光景が容易に想像できて、シロックは笑う。
「ティアンナ様にお味方します。
 少しくらいお休みになられても、罰は当たりませんよ」
「彼女にも同じことを言われたよ。お前に言われると、なおさらだな。
 シロック。……今日は、ありがとう」
「……、……いえ……」
 何気ない言葉だ。しかしその中に、今までとは明確に違う距離間が見える。ひそやかに纏わされた、心の色。
 現実なのだ。どんなに信じ難くても。
 こんなにもはっきりと見せつけられてしまい、シロックはその瞬間、思わず顔を逸らしてしまった。
「シロック?」
「……。申し訳ありません。なんでも、ないんです……」
 急に不安になったのは、こんな幸運があって良いのかと思ってしまったからだ。リースが与えてくれるだけのものを、こちらも与えることが出来るのか自信が無かった。
 胸の中に育った想いは、確かなものなのに。
「…………」
「……。
 そういえば、今日は額当てをしていないんだな」
「……はい?」
 思いがけない問いかけに、ぽかんとしてしまった。気を遣わせたかもしれない、と思い至り、シロックは慌てて答えを探す。
「あれは矢を射る時、前髪を目に入れないためにしているものなので。
 リース様にお会いするときは、だいたい弓を装備しておりますから」
 今も弓自体は持ってきている。椅子の下に置いてあるので、先程から蹴らないように気をつけているのだ。
「そうか……、見覚えがないわけだな。
 ……シロック、ちょっと。こっちへ」
「……え?」
 なんだか同じような反応ばかりしている気がしたが、本当に意味がわからないのだから仕方がなかった。
 興味深そうに頷いたリースが、シロックをじっと見つめている。自分のいる寝台のへりを、ぽんぽんと軽く叩いて示しながら。
 それが意味するところは、つまり。
「……っなにを、仰っているんですか、リース様!
 私にそこに座れと言うんですか。無茶にも程が」
「じゃあ、命令だ」
 シロックの決死の反抗は、リースの伝家の宝刀にあっさり一刀両断された。あんまりである。
 恋人同士、だ。それ以前に、主君と部下だ。
 リースの「お願い」が、主君の「命令」が、頭の中をぐるぐる回る。
 そして。
「……。……わかり、ました……」
 どちらにしても、聞くしかなかった。シロックは一度だけぐっと手を握り締めて、腹を括る。どうかおかしなことになりませんようにと祈りながら、椅子を離れた。
 示された場所、寝台のへりに、できるだけリースの方を向いて腰掛ける。腕で体を支えると、白いシーツのしわのかたちが変わった。木の軋む音が、いやというほど甘く青年の耳をくすぐった。
「リース様、それで、いったい、何を……」
 シロックの質問をすり抜けて、リースの腕が優雅な動作で伸ばされる。少し、痩せた気がする。包帯に隠された傷の状態が気になったが、自分が想像したほど悪くはなさそうだとわかった。
 指が、シロックの髪に触れる。顔が、瞳が、近い。
「……リース様……?」
 頭の横や前髪を、不器用な手つきで撫でられる。なんだか、楽しそうだ。
 他人事のように冷静に考えながら、しかしそれ以外の部分は、例によって大混乱だった。
「……、リース、さま。あの……っ」
「ふうん……。……ああ、すまない。珍しいから、つい」
「い、いえ……その」
「私は誰かの髪をさわったりしたことがないんだが、やわらかいものなのだな」
「そう……ですか? それなら、リース様の髪の方が、
 私にはよほどそう見えるのですが……」
「さわってみるか?」
「はい……、……って、ええっ!?」
 礼儀をすっかり忘れた顔で真意を問いただしても、目の前の人は何も知らない様子で首を傾げるだけだ。
 恋人同士、だ。そして非常に厄介なことに、シロックもリースも年頃である。
 同じ寝台にいるのだから、当然、二人の位置は近い。首もとが大きく空いた寝間着だって、袖の裾から覗く指のかたちだって、さっきまでは大して気にならなかったのに。
 これは、試されているのだろうか。
 天然、鈍感を絵に描いたようなリースに限ってそれはないとわかっていたが、なおさら性質が悪かった。
 リースはまだ、シロックの髪を撫でている。壊れものに触れるように、ひどく丁寧に、慎重に。
 嘘をつくことは、できなかった。
「……。では、お言葉に甘えます……」
「あ……」
 応えると、リースの手がぴたりと止まった。離れていくのを追いかけるように、今度はシロックが手を伸ばす。
「シロック……」
 か細い呼び声は、今だけは聞かないことにした。
 窓から入る光をきらきらと映す、自分のそれより明るい色合いの金色の髪は、見た目に違わず滑らかだった。指に絡めようとすると、こぼれて落ちていってしまうほどやわらかい。水のようだ、とシロックは思う。
 リースは一度名前を呼んだきり、何も言わない。手は軽く握られ、瞳は閉じられ、俯き加減でいる。シロックの傷だらけの手のひらを、感じているようだった。
 指を梳き入れ、捕まえようとしては逃げていく感触を楽しむ。同じ動作を、何度も繰り返す。
 しばらくそうしていた。静寂が、部屋を覆い尽くしていた。鼓動が、緊張が伝わってしまわないか、心配だった。
 ふと、指先が耳に触れる。
「!」
「え」
 その瞬間、リースの肩が大きくはねた。動揺して、思わず手を引っ込める。
「リース様?」
「あ……。……すまない。なんでもないんだ」
「ですが……」
「なんでも、ないんだ。その……」
 リースはうろうろと視線を彷徨わせながら、口にするべき言葉を探しているように見えた。表情こそいつもの淡いものだったが、こんな様子は珍しくて、シロックも釣られて困惑してしまう。
 何も言えず待っていると、リースは、シロックがずっと撫でていたところを軽く押さえながら、幼い顔ではにかんだ。
「こんなふうに触れられることが、ないんだ。
 その……、……少し、くすぐったくて……」
「……………………」
 それは、反則だろう。いろんな意味で。
「シロック?」
 頬が赤くなっているのを自覚していたシロックは、顔を上げることができなかった。
「……申し訳ありません、……なん、でも……」
 指に残るやわらかい髪の感触が、青年の意識をいやでも現実へ引き上げてしまう。望み以上の欲に気づいて、躊躇する。リースはシロックの主君だ。大事な人だ。守ることはあっても、傷つけることなどあってはいけない。
 大切に、したいのに。
「…………」
「……。……シロック、すまない」
「……え?」
 唐突な言葉が降ってきた。再び髪をさわられる感覚があり、思わず顔を上げた。
「困らせているだろう」
「…………」
「こういうとき、どんな風にお前に接すればいいのか、
 どうすればいいのか……私は、わからないんだ。
 どうしたいのか、どうなりたいのかも、わからない」
 髪の色と同じ、くすんだ金の瞳を見開いて、シロックはリースを見つめる。目が、離せなかった。形の良い唇が紡ぐ思いを、聞くことしか出来なかった。
「ただ、お前が傍にいると嬉しかった。
 だから、今日もそうしてほしかった。
 ……あの時、お前に抱きしめられて、私は安心した。
 だから、私もお前にさわってみたかったんだ」
「……リース様」
「なにかが、変わるかと思った。困らせてしまったみたいだが」
 夢であるはずがない。目の前の人の指も声も心も、なにもかも本物だ。それでもシロックには、リースの言葉が、にわかには信じられなかった。
 その人が、自分と同じように迷いの中にいるのだとは、思わなかったからだ。
「……リース様。……私……、……俺、も……」
 シロックが口を開くと、リースは髪に触れていた手をぴたりと止めて、引いた。
 頭の横を撫でられているのは、確かに少しくすぐったかった。
「俺も、どうすればいいのかわからなかったんです」
「……シロック?」
「どうしたいのか、わからない、とは違うんですが」
 慎重に言葉を選びながら、シロックはなんとか伝えようとする。リースが素直に伝えてくれたから、それも許されるはずだと信じて。
 リースが、シロックを見つめている。不思議な色合いの瞳に自分だけを映しているのが、嬉しかったし、同時にとても怖かった。
「俺が、どうしたいと思っても……。
 俺は、リース様が、俺を想ってくださるなんて、無いと思っていたんです。
 それが、こうして叶ってしまいましたから。
 ……俺のしたいことができる距離に、貴方がいるから」
「……」
「自分が、何かしてしまうのではないかと……、
 それで、リース様を傷つけるのではないかと、思って」
 碧が、すぐ近くで揺れる。先程までリースに触れられていたところを手で押さえながら、シロックは情けなく笑った。
「申し訳ありません。リース様が悪いのではありません」
 口にして、迷いが無くなるわけではない。それでもどこかすっきりとした顔で、シロックは軽く頭を下げた。ふと見れば、リースは何事か考えている様子で、まだシロックに視線を向けている。長い前髪が落とす影が、目の色をほんの少し隠していることに気づいた。
 沈黙と、それから再び静寂が部屋を埋め尽くす。それを破ったのは、リースの方だった。
「……シロックの……望みは、何なんだ?」
 何か問われるならそれだろうとは予想していたが、流石に答える気にはなれなかった。
「……。お答えしなければいけませんか?」
「言いたくないのなら構わない。だが……」
 リースは俯き加減に頭を傾けると、膝の上で軽く握っていたシロックの手に、そっと手を重ねてきた。この人はやっぱり鈍い   こっそりとそう考えながら、シロックは戸惑いつつも手を開く。剣を持ち慣れているはずなのに華奢な印象の指に、自分の指を絡めた。
「お前が私に何か望むなら、私はそれを言ってほしい」
「……それは……言わないと、わからないからですか」
「それもそうだが……シロックは今日、私の望みを聞いてくれただろう?
 私も同じように、お前の望みを叶えたい。
 お前がそれを本当に望むなら、きっと拒まないだろうから」
 絡めた指を握り返されて、目の前で優しく微笑まれて、苦しいほど胸が痛くなった。
 恋人同士、なのだ。
 心を、交わすことができるくらいに。
「私はお前の主だから、言いにくいこともあるのだろうとは思うが……」
「……わかってるなら、いいじゃないですか……」
「無理強いはしないが、言ってくれると助かるな」
 瞳がゆるんで、楽しそうに笑う。普段の凛とした姿も、年相応に表情を変える様も、すべて合わせてリースその人なのだと改めて思い知らされる。手が届くのは怖くもあるが、同時にとても幸福だった。
「……あの、じゃあ、リース様。ひとつだけ……」
「うん。なんだ?」
 シロックは、腕を伸ばした。今度こそ自分の意思で、己の望みを叶えるために。
「抱きしめさせてください」
 頭と背中を抱え、引き寄せる。髪に指を入れ、鼻先を埋める。リースが、息を詰める気配がした。それでもシロックは、けっして放そうとはしなかった。
 抱きしめた体は、あの時と同じく、ひどく温かかった。そして、街の人が期待を、希望を夢見るほど強いものだとは思えなかった。守りたいものが、大切なものが、こんなに傍にあることを嬉しく思った。
 そういえば、怪我の具合はどうなのだろう。シロックはふと思い出す。ここへ来た目的のひとつはそれであり、抱きしめるのは良いが、傷にさわるのは困るのだ。
「リース様、あの……」
「……!」
 尋ねてみた、その瞬間。リースは、びくっと肩を震わせた。
「……え?」
 肩を引いて顔を覗こうとするが、リースはシロックの胸に額を当てて俯いたままだ。妙に強張った体、不必要に静かな吐息。これは、緊張しているのだ   それだけわかっても、そうなる理由がわからなかった。
「……リース様?」
「……っ。……すま、ない……その……」
 リースの手が、恐る恐るシロックの背に回される。すがるように、服をぎゅっと掴まれる。抱きしめ返された、というよりは、しがみつかれた、という方が正しいだろう。嫌がられているわけではないとわかり、とりあえず安堵する。
 隠したがっているのがわかったから、悪いと思いながら顔を上げさせた。長い睫毛と、逸らされた視線と、それから。
 見てわかるほど赤く染まった頬が、そこにあった。
「え……」
「……いや……、……あの時、は、気にしなかった……から……」
 何度も唇を開きかけては、途中で発言を投げ出してしまう。そんなことを繰り返していたリースは、やがてぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。
「……恋人同士、なんだと……思って……」
「……リース様。出来れば、そういう不用意な発言に気をつけていただけると」
「……不用意?」
 一度さわってしまえば、それ以上の欲が出ることは、シロック自身がよくわかっていた。しかし、今はこれで良いのだと、深く自分を納得させる。急でなくても良いのだ。ひとつずつ、積み上げていけるのなら。

 恋人同士、だ。
 再び胸に額を寄せてきたリースを強く抱きしめながら、シロックはおかしそうに笑った。


「あの時」のことはまたそのうち……。
リース様はそういうことを知らないわけではもちろんなく、自分が既にそういう対象になり得るのだと気づいていないだけです。

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