マーブルクライ

「リース様、失礼します。ウォード様からお荷物をお預かりして……」
 ふわり。慌ただしく執務室の扉を開けたシロックは、そんなふうにただよってきた甘い匂いに、両腕で届け物を抱えた姿勢のまま、思わず立ち止まった。ほんの少しの間を置いて、その匂いは、部屋中を満たしているのだと気づく。
「シロック?」
 ようやく馴染んできた声に名前を呼ばれ、はっと我に返る。見れば、いつもの机に、当たり前だがリースがいた。いつもの瞳の色、いつもの、感情のわかりにくい表情。いつもと違うのは――手に羽ペンを握っているのではなく、なにやら小さな菓子を指に摘まんでいるのだということ。
 艶やかに光をはじくそれを見て、シロックはやっと思い出した。この甘ったるい香りは、チョコレートのものだ。自分は、滅多に口にすることはないけれど。
「こんな格好ですまない。ウォードから届け物、か?」
「え、あ……はい。……あっ、すみません、ノックもしないで……!」
「構わない。急ぎだったんだろう」
「急ぎ……というほどでもないんですけど、早い方がよろしいかと……」
 だからと言って、だ。遠征軍入りをして、リースと騎士団の間で雑用のようなことをするようになって、数か月。礼儀や作法がなかなか追いつかないシロックに、この年若い主君は気にするなというが、部下の非礼は主君の恥となり、その名を貶めるのである。そんなことを許せるはずがなかった――そんなこともきっと「気にしない」のだろうと、わかってはいても。否、わかっているからこそ。
 気を引き締めなければ。息をひとつ。
 とりあえず落ち着きを取り戻したシロックは、部屋の中央へ進み、机を挟んでリースを見下ろした。赤いクッションを敷いた椅子に腰かけたまま、リースもシロックを見上げる。近くなる、甘い香り。
「……………………」
「……? シロック? どうした?」
 ちゃんとしないと、と思ったのも束の間。シロックはどうしても、チョコレートに気を取られていた。赤いリボン、六角形の箱に詰められた、一口サイズのかわいらしい花のかたち。
「いえ……珍しいな、と思いまして。……それ、どうなさったんですか?」
「ああ。今朝、妹から届いたんだ。確かに、シノンではなかなか手に入るものではないな」
 そういう意味じゃない、という言葉は、ぎりぎり喉のところで止められた。リースがそれを、わざわざ執務室なんかで食べているのが珍しいのだ。しかし。
「リネット様が……。……、ああ……」
 リースの答えは、シロックにあらゆることを納得させた。だから街があんなに浮かれていたのだ。
 そうだった。今日は、バレンタインだった。確かヴェリアの有名な菓子店で行われていた祭りで、それがここ数年で広まってきて、名称は菓子店のある王都の名にちなんで――。
「お前も食べないか?」
 そこまで思い出したシロックは、リースの発言に、今度こそ思考停止状態になった。
 部屋に満ちた、人の心を奪う、甘い甘いチョコレートの香り。
 ひとつ、ふたつ。ゆっくりと時間を数えて、やっと口を開く。
「………………はい?」
 今、何と言ったのだろう。別段おかしいことではないような気もするが、今日という日、差出人の名前を聞いた今では、先程の言葉は、シロックにはとても現実的なものとは思えなかった。
「……え? リース様、いや、でも、それは」
「珍しいものだと贈ってくれたのだから、私だけが楽しむのも悪いだろう」
「……………………」
 一、純粋な厚意。二、頭に超がつくほどの天然。三、そもそもバレンタインというものを知らない。
 感情の波が表に出にくい、端的に言うと無表情のリースは、普段よりも雰囲気がどこかやわらかい。大切な妹から貰った贈りものを、単純に喜んでいるだけだ。これはひょっとして全部当てはまるかもしれない、とシロックは思った。
「……ええと、リース様」
「ほら」
 どう考えても遠慮するしか無いのだが、リースは既におすそわけをする気になっているようだ。新しいチョコレートを取られ、呼ばれたのでは、もう降参するしかない。
「ありがとうございます。なら、遠慮無く……」
 いただきます――頷いてそう続けようとした、声はそこで止められた。
 机に片手をついて立ち上がったリースが、シロックに向けてゆるやかに腕を伸ばす。ああ、優雅というのはこういうことを指して使うのか。冷静だったのはそこまでだった。

 袖口から覗く手首の白さ、甘ったるい、香り。長い指が、シロックの口に、チョコレートを押し込む。
 指先が唇にふれた。
 やわらかい、と錯覚して、自分の身に起きたことが、ようやく頭に届き始めた。
 とけるような、甘みと痛み。

「…………っ……!」
 シロックは今度こそ心の底から驚いて、思わず一歩後ずさってしまった。今、自分は何をされたのか。この人に。この人は何をしたのか。自分に。信じられないとばかりに目を大きく見開いて主君を見ても、当の本人は、いっそ腹が立つほどマイペースである。
「お前の両腕がふさがっていたから。
 ……ああ、そうだ、それを持ってきてくれたんだったな。
 受け取ろう。ありがとう、シロック」
 差し出された腕に、ほとんど無意識のまま届け物を渡す。そんなことよりも、リースがチョコレートを摘まんでいた指を舐めていたことの方が、シロックには大問題だった。意外と雑なところがある――ああ、違う、そういうことじゃなくて。
「おいしいか?」
 おっとりとした声が穏やかに尋ねる。口の中のチョコレートが、熱でとける。リースも同じものを食べていた。目まいを起こしそうなほど、甘い甘い、香り。
「…………は、い。……おいしい、です……」
「そうか。良かった」
 よりによって、こんなときに。その無表情を、崩さなくても。
 そんなに嬉しそうに、微笑んだりしなくても。
 リースと自分とを隔てる無機質な机の存在に、シロックは今ほど感謝したことはなかった。もう一歩、下がる。
「……っあの、ありがとうございました、その、それじゃあ、……失礼、しますっ」
「ああ、ありがとう。ウォードにも、そう伝えてくれ」
 半分以上聞き流しながら、シロックは部屋を後にした。扉の前で一礼するのを忘れなかっただけでも、自分を褒めてやりたかった。
 見送りの姿を見ることは、出来なかったのだけれど。

 甘い香りから解放される。石造りの壁、廊下。先程までのことが夢だと思えるような、冷たい空気。背中を押しつけると、自分の体が熱いことがわかって、余計に動悸を意識してしまう。
「…………」
 唇に指でふれてみる。舌でそっと舐めてみる。チョコレートの味が残っていた。忘れられない自分を嘲笑うように。
「……リース様」
 愛しい名前を呼んだって、目の前にはもうその人はいない。
 だから、思いっきり、言ってやることにした。
「……人の、気も、知らないで……!」
 情けなく座り込んでしまいたかった。だがそんなところを誰かに見られたら、騎士として、主君に申し訳が立たないから。
 だからシロックはきちんと立ったまま、けれど頬を熱くしたまま、真っ直ぐな廊下を歩き始めた。


「我慢の限界」みたいな展開になればいいんでしょうけど、無理です。シロックだから。

BerwickSage text INDEX