さよなら、天動説

「あ……」

 その時、蒼穹を真っ直ぐ、影が横切った。子どもの大きな目が、思わずその小さな姿を追いかける。首を回すだけでは足らず体ごと振り返ってみれば、真昼の陽の光がまともに瞳を突き刺した。手を翳し瞼を覆い、しまった、と思っても、もう遅い。
 ほんの一瞬。
 翼の色彩を強烈に焼きつけ、それは、あっという間に彼方へと消え去ってしまった。
「慶喜様? いかがなさいましたか?」
「鳥……」
 ぱちぱちとまばたきを繰り返す慶喜の遥か頭上から、慣れ親しんだ声が降る。応えるようにそちらを見れば、子どもに合わせて足を止めたのであろう上背のある男が、不思議そうな顔で見下ろしていた。
「直弼。鳥がいた」
「鳥……ですか?」
「うん。あれは見たことない。あんな羽の色、一度見たら、忘れられるはずがない。
 ねえ、直弼。あの鳥は何という名前なの? ここで待っていれば、また会える?」
 繋いだ手をぎゅっと握り、目をきらきらと輝かせ、子どもは興奮した様子で捲し立てる。  それを傍で聞いていた男は、いかにも申し訳なさそうに目を伏せて、形の良い唇を開いた。
「申し訳ありません。私はそもそも、その鳥を見逃してしまったようです」
「……また? 確かこの間も、そんなことがあったよね?」
「そうでしたか?」
 男の返事を聞き、子どもは不満を惜しげもなく顔いっぱいに曝け出した。頬をふくらませ、むぅ、と唸り、困った色の視線を泳がせる。
 幼子らしく、空のように、くるくる変わる表情を。男は、じっと見つめている。
「そう。枝のうんと高いところに、真っ赤な花がいっぱい咲いていて……。
 それを思い出したから、直弼に名前を訊こうと思ったんだ。
 なのにお前は、そんな花は見なかったって言ったんだ。あんなに綺麗だったのに」
 仕方ないな。溜め息をついて、子どもは再び歩き出した。男も、隣を静かに歩む。
 思い出を辿るように、蒼穹をたたえた瞳が空を見やる。記憶の中のそれと同じく、今日もよく澄んだ晴天だ。鳥が鳴き、花は咲き誇り、つまりは絶賛の散歩日和である。陽の光を浴びたこの世の美しいものすべてを捉えるべく、子どもはしきりに首を動かす。あちらこちらを見上げては、先の疑問に眉根を寄せる。
 鳥。花。自分の目に、映るほどだ。ならば見えないはずがない。なぜなら男は子どもより、うんと上背があるのだから。
「直弼は」
「はい。なんでしょう」
「そんなに背が高いのに、高いところのものが、予より見えないなんて、変だ」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。おかしいな。なんでだろう」
 目が悪い、ということはない。男は遠くからでも自分を見つけ声をかけてくることを、子どもは何度も体験している。自分の足元になにかあれば転倒に注意を促してくるし、おかげで子どもは男といるようになってからというもの、大した怪我をした覚えがない。
 注意力が散漫、ということもないはずだ。男は、子どもの体調や気分の変化には、とにかく目敏い。嘘も一瞬で見抜かれてしまうほどだ。助かることもあるけれど、困ることも多くある。否、そんなことはともかくとして。
「背が伸びると、高いところが見えなくなってしまうの?」
「……そのようなことは、ありませんが……」
 子どもがじっと見上げると、男は困ったように微笑んだ。それを見、慶喜は「まあいいか」と笑う。男の手を、強く引く。
 この世の美しいものすべてを捉えるべく、蒼穹の下を、今にも走り出さんとばかりに歩む。鳥の声に、満開の花に、子どもは嬉しそうに目を細める。
「直弼の見えないものは、予が見れば良いんだ。そうだよね」
「……同じものが見えるよう、尽力はいたします。慶喜様。
 そんなふうにはしゃがれると、転んでしまいますよ」
「直弼が、受け止めてくれるじゃないか。だから、大丈夫」
 男の手を、ぎゅっと握る。深い黄金色の瞳を真っ直ぐに捉え、子どもは幸せそうに笑う。
 男は、それをただ、見つめている。
 何の言葉もなく、なにかとても眩しいものを見るように。
「次はあっちに行こう。直弼」
「はい。慶喜様の御心のままに」
 春。よく澄んだ晴天の下、子どもと男は、並んで歩く。

 この世は、ただ、ひたすらに平穏だった。


回る回る世界の心臓

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