| 寒い。 体にかかる重みすら頼りない秋用布団に包まりながら冬用羽毛布団の在処に頭をフル回転させる。 フルとは言っても坂道を登る自転車の車輪程度にしか回転しない頭が長い時間をかけて答えに辿り着こうと頑張っている間にも寒さは体の芯から爪の先まで動きを鈍らせる。俺は冷たいシーツの上で体を縮こませた。 寒い。 体が痛い。 頭の中で痛という漢字がゲシュタルト崩壊を起こす。訳もわからず笑った後に何に心を揺さ振られたのか涙が出てきた。 この訳のわからなさ、風邪だ。 間違いなく風邪だ。 こめかみを流れる涙をシーツにすり付け、寒さに身を縮めた。 そういや体温計あったかなと痛む頭で考え、冬用羽毛布団共々一人暮らしの狭小アパートには不要だと家に置いてきたことを思い出す。バカだバカだと思ってはいたがバカだな俺は。志望大学に現役合格したんだからさほどバカではあるまいと思っていたが自己評価を付けなおさなきゃならんね。 訳もわからず目頭が熱くなる。 「しんどい…」 やべえ。余計につらくなった。 ピリピリと痛いんだか乾いてるだけなんだかよくわからんがとにかく不快な喉から声を出すと静かな部屋で上滑りした。途端に一人だと自覚して訳もわからない不安さに体が震える。頼むから誰か助けろ。助けてください。上階の住人の生活音と平常よりややいっぱいいっぱいな自分の口呼吸が耳から脳に突き刺さり、自分の呼吸音に気分が悪くなる。 高校卒業・大学入学と同時に一人暮らしを始めて約半年、今まで風邪なんて一度もかからなかった。体温計がないので確かではないが微熱があったようなことはあるにはあるものの、それすら右手家族全員集合してもらわなくてもこと足りる程度の回数でしかない。一晩寝りゃ治ったしな。 元より俺はあまり風邪を引きやすいタイプではなく、例の『アレは風邪引かない』という都市伝説でからかわれる事は数え切れず、事実俺は自分のアレさを自覚しておいたので風邪には縁がないものだろうと思っており、その気の緩み故にこのような着の身着のまま布団に包まる状態を招いた。 荒れる一歩手前のむくんだ唇を舐める。シーツにしみ込んだ先程の涙が冷えて冷たい。少し頭の位置を動かすと布団の隙間から冷たい空気が首を冷やす。 布団がないなら服を着ればいいじゃない。カニに対するカニカマしかり、恋人に対する風俗しかり、世の中は代用品であふれかえっているのだ。 ベッドから体を落とし、床に散らばっている服を拾う。トレーナーオントレーナー、ジャージオンジャージ、靴下オン靴下という甚だ微妙な服装ではあるが誰に見られるでもないので気にしない。しかもトレーナーインジャージである。首にはマフラーを巻いておいた。寒さに震えながら着込み、着込んでから動きづらいことに気が付いたが若干寒さが気にならなくなったのでこのままでいいか。 我が家唯一の暖房機器、エアコンを付けようとリモコンを探すが見当たらない。間違いなく夏は使ったよな。今年もダラダラと暑かったおかげで9月下旬辺りまでは使っていた気がする。それまではあった。間違いない。 ならば9月以降に移動したもの。というとラグくらいしかないんだが。ラグを捲るがない。片隅に積んだ本の下やテーブルの周辺を布団に包まりつつはいつくばって探すが見つからない。やべえ。頭がくらくらしてきやがった。 俺は毛足の長いラグに倒れこんだ。 何も今日風邪ひかなくてもいいのに。 目をつぶると目を閉じているのに目眩がした。 今日は久しぶりに古泉と飲みのつもりで、先週予定の打診があった時から楽しみにしていた。バイトが入っていたがバイト仲間にシフトの交替を頼み込んで頼み込んで頼み込んで昼飯まで奢ってようやく替わってもらえたのに。 古泉。 頭で想うと呼吸が苦しくなる。 訳もわからず涙が出た。訳がわからないには変わりないが、さっきの涙よりは訳が分かる。 俺は古泉のことが、なんだ、まあ、ずっとアレで。 アレを口にするともっと苦しくなるからあまり言わないようにしているんだ。指示代名詞は偉大である。察してくれるとありがたいね。 俺は古泉がずっとずっとアレで。 ものすごくアレで。 「古泉」 口に出すと余計に息苦しくなった。なんでって涙が止まらないからだな。ラグに目からあふれ出る液体をしみ込ませる。蛇口が壊れたんじゃないかと想うほどに涙は止まらず、水のトラブル8000円とかいうCMソングが映像と共に頭の中にリフレインを始めた頃にようやく涙腺崩壊を止めることができた。泣き疲れて鼻がつまっている。寝転んだまま手を伸ばしてティッシュを掴む。こういう時ばかりはごろ寝で生活できる怠惰な空間に感謝したい。しかし怠惰な生活が風邪を招いた訳でもあり、生活を改めようと思いつつも健康に戻るとそんな決意は忘れ去られるのがいつものパターンだ。 鼻をかむと頭がくらくらした。厚着のおかげか体がカッカッする。呼吸が薄いせいで意識が朦朧としてきた。 頭の片隅でベッドに戻った方がいいよなとは思いつつもシーツの冷たさを思い出すとそれだけで震えが走る。毛足の長いラグは体をやさしく包み込み、眠りの誘惑を投げ掛けた。体は怠い、節々は痛い、ラグは優しい、体はぽかぽか。これで誘惑に勝てる奴がいたら仙人のごときの自制心の持ち主だろうよ。 チャイムの音で目が覚める。 玄関口で来訪者が自分の訪問を主張するチャイムが鳴っている。時計を見ると最後に見たときから30分程度しか経過していない。 再びチャイムが鳴る。 うるせえな。営業ノルマの大変さは理解してやらんでもないが新聞は間に合ってる。シカトだシカト。 また鳴る。 うるさい。さっさと帰ってくれ。 しかし寝る前よりずっと楽になった気がするな。薄くではあるが鼻呼吸ができないこともない。無論口呼吸の方が楽だが。 また鳴る。 だんだんイライラしてきたぞ。無視して眠ろうとラグの上で目を閉じると今度は携帯が鳴った。 イライラしながら机の上で着メロとバイブでガーガーとけたたましく着信を告げる携帯を掴む。 着信名を見てぎょっとした。 『古泉一樹』 なんでだよ。 無視してしまおうかと思いつつも欲望に素直な指は通話ボタンを押した。 『もしもし、古泉です』 知ってる。 『あなた今どちらにいらっしゃいますか?』 古泉は卒業してもなお敬語を使いつづけ、デフォルト顔は笑顔のままだったが、それでも高校生の頃よりはくだけた口調で話すようになったし、笑顔以外の顔のバリエーションも増えた。笑顔と敬語は一種の癖のようなものですね。と苦笑して言っていたのはいつだっただろうかね。立派な悪癖だ。 「家」 一言だけ声を出す。はあはあと変質者のような荒い息が恥ずかしい。古泉の下着は何色かについては多大な興味があるが生憎と無理矢理聞き出すことに性的興奮を覚える趣味はない。本当だ。 『それなら開けてください』 言い終わるやいなやというか、台詞の途中、らの辺りで安アパートに相応しい薄い扉が控えめに叩かれる音がした。 嘘だろ。 聴覚がおかしくなっている耳には古泉の聞いていますかとの問い掛けと扉がノックされる音がワンワンと響く。あと変質者じみた俺の呼吸音もな。それにプラスしてベルの音もし始めた。 う、あ。 喉から絞りだしたようなうなり声が出た。 うるさいよ。やめてくれ。近所迷惑だし何より俺に迷惑だ。 身じろぎをすると体に寒気が走る。ちきしょう。健康体に戻ったら覚えてろよ古泉。ふらふらする体を引きずりさほど広くない室内を横断、狭いキッチンを通り過ぎ、扉の前に立つ。布団にくるまりながら扉の鍵に手を伸ばした。 携帯片手に古泉が立っている。驚いたその顔すらかっこいいよ。ああもうかっこいいよ。顔だけって訳じゃないが俺はこの端正な顔が あぶねえ。言っちまうところだった。まあ、例の指示代名詞大活躍の単語な訳で、悔しいがその顔を見るとたまらない気持ちでいっぱいになった。 たまらない。 こんな処理に困るような気持ちになるなんて思いもしなかった。体中の鳥肌が立ちまくっていて、それは風邪による寒気故にかもしれないがもしかしたらおぞましい程の俺の気持ち故にかもしれない。意味が分からないくらい、声にならないくらいの感情でいっぱいになった。その感情の名前はわからない。俺はこの気持ちをどの名前で呼べばいいのか、むしろどういうカテゴリーで分類すればいいのか分からない。快かもしれないが不快でもある。 わからん。 投げ出した。 うるさいよおまえと声だけは平常通りなのでもしかしたら何事もなく帰ってくれるんじゃないかと期待してたが、予想外に呼気多めになってしまったし、古泉の手に家の近所のスーパーの買い物袋がぶらさがっている時点で、電車で乗り換えを2回、さらにバスで20分離れたアパートに住んでいる古泉がよもや買い出しのためにのみ何の特色もなく、いいところといえばたまに卵が安いことぐらいの平凡スーパーを利用するはずもなく、見舞いだとわかってはいたがわざわざ見舞ってもらう理由が理解できない。 「ひどい格好ですね」 うるさい。 いまさらながら自分のいけていない服装に気が付き布団を殊更しっかりと身に巻き付けた。 人が来るなんて思ってなかった。 「そうではなくて」 何かに気が付いた素振りをした古泉が、上がれなんて言ってないのに玄関にズカズカと踏み込み扉を閉める。 レポートの提出やらバイトやらでバタバタしていたおかげで靴はちらかし放題、地域の廃品回収のためにとまとめておいた週刊誌や雑誌の束が狭い玄関をなおさら狭くしている。 いつもはもっときちんとしてるんだぜ。言い訳にもならない言い訳をしたい程度には俺は古泉からの評価を気にしている。 「風邪をひいているんでしょう?」 それなら苦しくない服を着るべきです。そう主張しながら失礼しますと付け加え、古泉は靴を脱いで狭いキッチンを抜け、部屋に入る。ズカズカながらも靴がきちんと揃えてある辺り、忌々しいくらいの如才のなさだ。完璧だ。最悪だ。非の打ち所がなくていちいち魅力がありすぎて最悪だ。 「熱はありますか?」 部屋の中にいる古泉の問い掛けに、 「体温計ないからわからん」と家主の俺が玄関口から答える。おかしいよな。なんで俺が客みたいになってんだ。しかし今身動きとるくらいなら動かないほうが楽だ。視界からの情報がうざったく、荒い息を布団で殺しながら目を閉じる。目を閉じると目眩がする。目を閉じるのも開くのも辛くて薄目でふらふらしていると古泉の手がいきなり顔を包んだ。熱いですねなどといいつつそのまま頬やら耳裏の辺りやら首元に手を移動させつつ顔を撫で回す。神経が過敏になっている状態で他人に触られるとどうなるか。 こうなる。 鳥肌が痛いくらいに立ち、撫でられるたびに頭の芯がゾワゾワ震えた。 やめてくれ。これ以上触られてると気持ちいいんだか悪いんだかわからない例のあの感情で昼飯戻しちまいそうだ。 |