優しくされた覚えは一度もない。した覚えもない。
 優しくしたことがないならされないのも当然だなと、すとんと納得するのが潮江文次郎という男だった。その点いさぎよい。
 食満留三郎との間柄のことだ。
 それでも十になるかならないかの一年生の頃だったならどうだろう。童らしい屈託のなさで笑い合うこともあったかもしれないと、ふと思いついた。だが「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と意固地になるたちが強く出ていたのはむしろ幼い頃の方だ。長じてこれでも随分ましになったのだ。
 すると二人の関係については、現在が一番ましで(わけもなく苛々がなり合うことがいくらかは減ったという意味で)、後は思い出を辿るだけ、掴み合いの頻度が増えていくということになる。
 まあそうだろうな、考えてみるだけ無駄だった。平坦に思う。「一つの卓で飯を食っていても、小鉢も箸も飛び交わなくなったものな」そう感心したように仙蔵が言う。
ふん、飯ぐらい喰う、大人しく喰うぞおれは。
「さっぱり大人しくなかったから言っているんだろ」
 仙蔵は、今度は呆れたように目を細めた。
口元が親しみを示して少し笑っている。なんでこんなに許されているんだろうなと、文次郎はたまに不思議に思う。
 向こう側に寝そべっていたのが、よいしょ、と起き上がった。つやのある黒髪がさらりと揺れた。
「まあだから人間、成長すれば落ち着くものなんだなと、当たりきのことがわかっただけさ。人の二倍三倍もやかましい連中でもそこは人並みなんだなあ」
「……なんでおまえそう、しみじみと言う」
「なんでと言って、妙にさびしいからさ。ああ変わったのだと思うとさびしい。まあ私にも上手く説明できないから、おまえに伝わらんでもしょうがないな」
 ははは。
 答えになっているのか分からんようなことを言い、仙蔵は軽やかに笑った。
この相方は昔からそうである。文次郎が「別に分からんでもいい」ことがこれまで一体いくつあっただろう。数えるのも億劫なほどはあったはずだ。
 仙蔵は次第に眉間のしわを深くしていく文次郎をしばらく、にやにや笑って見ていたが、不意におっと瞬きをした。戸外に何者かの気配が落ちている。

「そうだった、今日は作法で出かけると約束していたな。綾部」

 ガラリと戸が開いて、
「……ビックリさせようと思ったのに」
「まだまだ甘い」
 その通りそこに立っていた後輩。
 いやみでなく鼻で笑い、それじゃあな、と仙蔵は出かけていった。どんな時でも軽やかなやつだ。
 改めて文次郎はひとり部屋に残される。
文机には読みかけの本と、ふちの欠けた硯。仙蔵がいなくなったことでそれらが急に存在感を増して、呼吸でもしているような感触だ。
 硯を撫でつつ、また考えた。
 先程のあの後輩はふしぎと仙蔵に懐いている。仙蔵の方でも目をかけているのか、からかいつつも尊重するような態度を見せていて、今のようにごく自然に連れ立って歩いて行く。二人の間には確かに先輩後輩らしい情や心遣いのやりとりがあると、傍で見ている文次郎にも分かる。
 卵が先か鶏が先かは知れない。それでも、他の者には超然とした猫のような態度で対し、起きている間中一心不乱に穴を掘り続けるような、風変りな少年でさえあの通りなのだ。もっと直情的な奴など言うまでもあるまい。
 優しい言葉をかけた覚えがないから、かけられた覚えもなくて当然なのだ。つまりはじめの命題通りである。優しい気持ちがこちらにないから、向こうにもない。言葉を交わす暇のあらばとお互い殴りかかっていた。それでいまの今まで疑問にも思わなかったのだから。
 だからあれこれと考えてしまうのは、ひとえにその「成長」とやらの負の面だろう。歳を重ねて落ち着きを得て、何が何でも憎たらしいだけの相手にしておく必要がなくなって、殴り合う時以外にふと考える余裕ができた、そのせいとしか言いようがない。
 食満留三郎と交わしたまともな会話がどれほどあっただろうか、などと、考え始めた己があほなのだ。

 留三郎が気持ちのいい男だというのはよく知っている。
 その評価を表現したことはないが。また実際のところ、文次郎と対峙する時に限り留三郎は気のいい面をすっかりかなぐり捨てているので、文次郎がそこを直接評価する機会がないのも当然と言えば当然だったが。
 だが、目には入ってくる。
 たとえば伊作に向ける笑い方の明るさ。いらんトラブルを端から被って一人だけ満身創痍になっている時の伊作でも、面倒がるでもなく手を差し伸べる。委員会の後輩に向ける親愛と気配りの細やかさはよく知られるところで、そのほか級友であれ後輩であれ、通りすがるだけの町人に対してであれ、笑いかけられれば素直に笑って返す。しかも好意の見返りを求めないたちである。
 真芯で物を弾き返した時のカン、と澄んだ音のように、それらはひたすら性根のまっすぐさを知らせるものだ。並べ立てるほどに好ましいなとは思う。しかしその感想とあの本人を直接繋ごうとすると、文次郎の腹の底から苦みが走る。
 ケッ、おれにはあのツリ目をきんきんいからせた悪党面で向かってくるくせに一端の詐欺師め、という気持ちの悪さがひとつ。
一方で、そういう自分には決して向けられない面を覗き見てあれこれ思案しているという後ろめたさが、恐らくひとつだ。
 文次郎はごろりと横になった。
 見慣れた天井がやけに重たくのしかかってくるように見える。今更、なにを悶々としているのかと笑われているようでもある。まったくもってその通りだ。耳には戸外の風の音が届いていて、今日がよく晴れてさわやかな外出日和であることを教えている。だというのに、どうしてか文次郎の思考はそこへ戻っていく。
 好意に好意で返す男だ。優しくされないから優しくしない。
 ことは単純で、文次郎の方から労りなり親愛なり言葉をかけてやれば、やまびこのようにそのまま返ってくるものかもしれない。
だがそれこそおかしい。反射を当て込んだ好意なんてのは卑怯だ。第一何のためにだ。おれは留三郎の好意が欲しいのか。
 ばかばかしい。それでは。
 それではまるで、おれの中にはすでに好意があるような言い方だ。ただ笑い返してほしいような言い方だ。
 そんなわけがないだろう。
 やめだやめだ。
「―――集中力が足りん。たるんどるから思考が逸れるんだ」
 我ながら情けない。握った拳を額に打ち当てると、文次郎はひと息で立ち上がった。


 わざわざふたつ向こうの町まで出向いたのは、休みの日だからという以上の理由はなかった。市が立っているのはもっと学園近くの町でも同じことだったが、少し長く歩きたい気分で時間もあった。それだけだ。そこで往来に今一番会いたくない顔を見かけてしまっては、よりによって同じ方に足を伸ばさんでもいいだろうとゲンナリもする。呪わしいと言って過言でない。
 その留三郎の方は、文次郎に気付いていない。
 気配を消しているわけでもないのに鈍い奴だと心中罵ってやる。すぐに、そうそう気付けるわけねえかと思い直した。
 留三郎は別に、文次郎の気配をそれひとつ特別なものとして覚えていたりはせぬだろう。
 学園の限定された中とは違う。町で雑多に入り混じった中では、よほどおかしな動きでもするか、あるいは常に意識してそれを探してでもいない限りは見いだせるはずもない。見いだす必要もない。
 考えてみれば当たり前だ。そう納得した途端、またふいに穴に気付く。
 ―――そうすると、おれの方はあの野郎の気配をしっかり覚えていていつでも探している。そういう話にならないか。
 首をぶんぶん振って追いやる。
 ばかばかしい、単に進行方向だ。たまたま視界に入っただけだ。
「……こっちに気付いても気付かなくてもうっとうしい野郎だな」
 口をひんまげて呟く。もういい、とっとと用を済ませて見つからないうちに帰ろう。
 もう一度だけ、留三郎の位置を確認するようなつもりで目をやる。おや、と思う。
留三郎が通りすぎた方を歩く何人かの動きがおかしい。奇妙に停滞して往来にそぐわない。足を鈍らされた周囲の人々が迷惑そうに振り返る。
なんだあいつヘマでもやったのかと文次郎は咄嗟に身構えて、次の瞬間には己の間抜けさに溜め息が出た。
 留三郎が歩くはしから振り返り立ち止まるのは皆、年頃の娘だ。
 すでに数人が振り返り、そのうちのいくたりかには声をかけられている。呼びとめられるたび困ったように笑いかけて、左右に手を振り、頭を下げてまた歩き出す。その繰り返しだ。
 ……もてるのは薄々知っていたが、あれじゃ歩きにくいどころの騒ぎじゃねえな。
 仙蔵ならもう少し遠巻きにされていたような気がする。ついでに女ももう少し年増が多かったように思う。仙蔵に関しては付き合いが深い分文次郎も慣れすぎていて、たしかな統計というわけでもないのだが。同じく美形とちやほやされる伊作もああなのだろうか。いらん苦労だなまったく気の毒に、と完全に他人事の気楽さでそれを眺める。自分がそういった対象から外れることには今更、ほとんど感慨もない文次郎だ。
(それにしたって随分な人気じゃないか。)
 たしかにあれは気持ちのいい男らしいが、武闘派だのと言われるだけあって鉄火なたちなのも本当だ。あれほど纏わりつかれたら、学園内でならひと暴れくらいはするだろう。
しかし見る限りやんわりと角なく断っているようで、それが意外といえば意外だ。女の扱いを心得ているのだ。そういう所が、ほかの娘らにもなんとなく伝わるのだろうか。
女で何より怖いのはあの情報網だと文次郎も分かりかけてきていたが、こんな場合のほんの数瞬のことでもそれは有効なのか、だとしたら娘っ子ですらなんと怖ろしいのだろう。ついそんなことを唸ってしまうほどには相手が多い。
心なしか留三郎も肩が落ちてきたようだ。そりゃ疲れるだろうよと頭の隅で同情しつつ、文次郎は自分でも気がつかぬまま別のことに思いを巡らしていた。
 実際ほかの娘の断られ様を目にし、また伝わっているのだとしたら。なぜそれでもと、それでも自分はと思えるのだろう。
 どうせ自分もあんな風にふられるだけさとは思わないのだろうか。
足が竦まないのだろうか。
やはり女は怖い、底が知れない……。
 そこへふと、新たにひとりの娘が留三郎の袖を引いた。
 振り向いたとき、留三郎は同じように断りの苦笑を浮かべていたが、その娘を見るなり足を止めた。
 不思議がるようにしばし頭を左右に揺らして、頭を掻く。
なにごとか唸っているような素振り。たたらを踏む。
 ひとこと、ふたこと。娘がこぶしを握りしめる。留三郎がそれをじっと見る。呼吸ふたつ分ほどの無言。
そうして、おもむろに娘の手を取った。
 先程までの苦笑とは明らかに違う、恥ずかしそうな、照れくさそうな笑顔がその顔に取って代わっている。学園では見たこともないような笑い方だ。少なくとも文次郎が目にすることは決してない。
 
 ああ、受けるのか。
 
 ―――そんな顔をするのかおまえは。

 
 見てはいけないものを見た、と思った。


 それはあの娘や、断られたとは言え正面から好意を告げた数多の娘たちにしか許されない、おれが見てはいけない顔だ。
資格もないのに盗み見た。
おれは下劣で醜悪な盗人だ。

 踵を返す。腰を落とす。走った。
 人ごみの中をもみくちゃに、こんな自分というものが粉々に解けてなくなってくれたらと愚かにも願いながら、しかし走れば走るほど自分の体がこの世に嵩張っていることを痛烈に感じながら。
 町を駆け抜け峠を越え走りに走った。とうとう学園が一望できるところまでたどり着いた途端、がっくりと膝から力が抜けた。
 完全に息が上がっていた。尋常でなく疲れていた。
常ならばものともせぬ距離だ、この何倍を同じ時間で走ったこともある。しかしもはや両膝を地についたまま、しばらくは立ちあがることも出来そうにない。呼吸をおさめるのですら精一杯だ。
 腕の支えを解き、ごろりと転がる。草と泥の匂いがひやりと迫ってくる。
 完全に、感情が身体を翻弄している。
 まともな状態じゃない。忍びとしても人としても。そう思った。自分がこんなに見苦しい者だとは思わなかった。

 そうだ。

 他者に向ける情を、その顔を盗み見たのだ、おれは。

 恐らくはあの男の一番やわらかい部分が晒された瞬間を。娘の健気な思いに応じて開いた部分を。おれはそれを、興味津津で眺めてはいなかったか。好意に好意で返す男はどんな表情を見せるのだろうと野次馬根性で覗き続けたのではないか。違うとは言えない。あの顔を見た瞬間、そんな顔をするのだ、と思った。そんな無防備な部分まで見せてしまえるのだと腹の底がざわめいた。そうだ見ようとして見た、下衆な期待が胸にあったのだ。
 それは決して自分には向けられないものだからと。
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 両腕で顔を覆う。後悔ばかりが押し寄せてくる。いっそ押しつぶしてくれ、この下劣なおれを窒息させてしまえ。
 知りたくなかった。己がこんな人間だったとは。
「……すまん留三郎。すまん」
 面と向かっては決して言わぬだろう詫びの言葉を、ここで一人呟き続けることこそが卑怯だと分かってはいたが、それでも、声にせずにはいられなかったのだ。